セプテンバー・ブルー・ムーン #シロクマ文芸部
月の味気なく青白い光が雲の隙間から見え隠れしていた。
「ユーミンの歌に『September blue moon』って歌があった」
何気なくそう口にすると、あったねえ、と言って、茉莉はやっと少し本物のような笑顔を見せた。
「きみは、セプテンバーブルームーン」
口ずさみ、「あのアルバム好きだったな、何年前のだったかな」と彼女は言う。
あまり車通りの多くない深夜の歩道を並んで歩いていた。街灯に照らされて、背の高い茉莉の影はいっそう大きく見える。隣では、いつもより俯いて少し背を丸めているというのに。
「五十八になっちゃった」
それから顎を上げ、少し遠くを見て茉莉は言った。薄曇りの濃淡のある宵闇の中の、淡すぎて存在感のない月を見ていたのかもしれない。
「四捨五入したら六十、って言わないでね」
先手を取ると、「言おうとしたのに」と彼女は肩をすくめる。五十五を過ぎてから誕生日にはずっと言っている。
「ねえ、もしかして慰めてくれてる? わたし、元気ない?」
『September blue moon』は、そういえば友達だか恋人だかを慰める歌だった。私はそうだよとも違うとも言わずに、へへへと笑った。
「わたしは、あのアルバムだったら『とこしえにGood Night』の方が好きだった」
茉莉の言葉に、あれはケンカしたカップルの歌ではなかったか、と思いだす。
「高校生だったかな」
そう言った茉莉の言葉にびっくりする。
「まさか。どういう記憶装置? さすがにもう大人だったよ。茉莉が貸してくれたんだよ、あのアルバム」
「最初に結婚した年だったかも」
「あ。それ、茉莉の覚え方な」
「アルバムの名前、覚えてる?」
「覚えてない。リフレインが叫んでたのしか」
「リフレイン、叫んでたね!」
茉莉は今度こそ、声を立てて笑った。
「どうしてどうしてわたしたち離れてしまったんだろう」
そして小声でまた、歌った。
「なんでこう、上手くいかないんだろうなあ」
私は、まだまだ飲み足りないな、と彼女の腕を引っ張った。
二度目の離婚をしてからはじめての恋が喧嘩別れで終わった夜は、彼女の、五十八回目の誕生日だった。茉莉は今日だけはひとりでいたくないと言った。花も嵐も踏み越えた激動の茉莉の人生の中でも、学生時代から長年にわたる私との友情関係の中でも、それは初めてのことだった。私はお風呂から上がったばかりだったけれど、呼び出されて会いに来た。お化粧はしたけれど、髪はざっと乾かして後ろで結んだだけ。ピアスに指輪にときらきらしている茉莉と並ぶと、恐ろしいほど落差が激しい。だから私は、アスファルトに映る影ばかり見ていた。
「カラオケ行こうか。懐メロ地獄」
それもいいけど、と茉莉は言った。
「もう一軒行こうよ」
日本酒の美味しいお店を知っている、と茉莉は私の手を引いた。
茉莉の最初の結婚は若くして短く、二度目の結婚は少し遅くて長かった。子供たちは大きくなって、それぞれ独立していて、離婚後しばらくして、彼女は恋をした。少し年下の、(茉莉曰く)優しい人。
おすすめだという店は、雰囲気の良いこじんまりした和食の居酒屋だった。筆文字の暖簾をくぐり、並んで木肌のカウンターに座る。日本酒を頼んで、お通しをつまんだ。
「ねえ。さっきのユーミンのアルバムの名前。『Delight Slight Light KISS』だって」
さっきのお店で結構食べたからお腹は空いていない。それでもなにかつまみが欲しいとメニューを見ている茉莉に、スマホを検索してそう声をかけると、
「え? なに。デイライト、なに?」
ほろほろ崩れそうな声できいてきた。座ったら、少し眠くなったらしい。
「デイライトじゃない。ディライト、サイト、ライト、キス。舌を入れないキスだって」
「おひょう」
茉莉は目を見開き、カウンターの向こうの店主に「なめろうください」と言った。
「おひょう、ってなに。どんな驚き方?」
「そんな時代もあったねって話」
「中島みゆきか」
私のツッコミなど聞かぬ風に日本酒に唇をつけた茉莉は、少し色っぽい目線を寄こした。そして、
「大人の純愛がコンセプトだったんだね、若いころは全然、わかってなかった。曲だけは結構覚えてる。『ふってあげる』とか『誕生日おめでとう』とか……あれ? なんかめちゃくちゃ、今の気分っぽくない?」
茉莉は中年太りの私なんかに比べたら、まだまだ綺麗で若い。体型も崩れていないし、現役で仕事もしているし、正直、倦んだ結婚生活で夫と会話もない私に比べて、彼女の華やかさが羨ましいと思ったことは数知れない。それでも茉莉は、由香が羨ましい、というのだ。安定した生活、安穏な暮らし、変わることのない日常と安心を、わたしは手に入れられなかったの、と。
「『幸せはあなたへの復讐』ってどんなだったっけ」
曲名リストを見てそう聞くと、それ覚えてない、と茉莉は言った。
「タイトルだけだとなんか未練がましい気がするけど、確かにそうかもね。今の自分が幸せなら、昔のことなんてどうでもよくなっちゃうもんね。なんかさ、救いはさ、彼に若い彼女ができたとか、そういうことじゃなかったってことかな。もしそうだったらそれこそ復讐だよね。幸せとかの悠長な復讐じゃないよね。なんかこう、ダイレクトでストレートな復讐だな」
酔った声で拳を固め、物騒なことを言いながら、茉莉は冷の日本酒のグラスを傾けた。
「ちょっとけんかしただけでしょ? 時間置いたら、気持ちも変わるんじゃない?」
本格的に慰めモードでそう言うと、茉莉の頬に朱がさした。
「だからって、ゆるさない。誕生日だよ? わたしからは、絶対折れない」
どういうケンカだったのか具体的なことはさっぱりわからないのだが、私はただ、隣でそっと熱燗を飲んだ。少なくとも誕生日は、デリケートな日にはちがいない。
「来てくれて、ありがとね、由香」
「ぜんぜん。酒が飲めて幸せだ」
そう言うと、由香がいてくれてわたしは幸せだ、と茉莉は笑った。
「私たちって、まだまだ色々あるんだろうね。辛いことも、悲しいことも、苦しいことも、色々」
全面ネガティブにそういうと、
「五十八で恋愛沙汰は、想像してなかった」
と、茉莉が笑った。
「まさか茉莉がビキニ着るとは思わなかったよ」
「それを言うな。あれはまだ五十七の出来事」
茉莉は苦笑いをした。この夏、彼と南の島のバカンスに行ったと写真を寄こしたのがつい先日のことのように思える。
その時、茉莉のスマホが音を立てた。
「あ」
と言って、画面に目線がくぎ付けになる。
すぐにそれが、彼からだとわかった。わかりやすすぎる。
茉莉は私を見た。
「行きなよ」
そう言うと、茉莉は縋るような目で私を見て、それから恋する女の顔で微笑んだ。今晩会ってから、一度も見たことのないような笑顔だった。
茉莉は何も言わずに、箸置きを弄んでいた私の手をぎゅっと握り、目でうん、とうなずくと、それから若い娘のように軽い足取りで店を出て行った。
「転ぶなよ」
と声をかけて見送って、振り向くと目の前になめろうが来ていた。
「なめろう、お待たせしました」
ちらりと店主を見ると、まだ若そうな店主は訳知り顔で頷いた。
大人の恋って難しいやね。
でも恋ができるって幸せなことじゃないかね。
二人の視線は、なんだかそんなことを語っているようだった。初対面だけど。
「今年の中秋の名月って、十月らしいですね」
ひとりになった私を気遣ってか、店主が話しかけてきた。
へぇ、そうなんだと答えて私は、それからゆっくり日本酒を口に運び、あじのなめろうを味わった。
「ん!これは」
思わず感嘆の声を上げると、
「お連れさまも食べられたらよかったですね」
店主は自信たっぷりに、仕事の手を休めることなく妙に爽やかに笑った。
めっちゃくちゃ旨い。アジが新鮮なのか。マジで旨い。
頭の中で『September blue moon』のサンバのリズムが響き渡った。
懐かしい脳内ユーミンとなめろうを肴に、私は熱燗をくぴりと呑んだ。
了
※ユーミン:松任谷由実。シンガーソングライター。ある年齢より上の世代のアイコン的存在。
※中島みゆき:シンガーソングライター。プロジェクトXとか。『時代』という歌で「あんな時代もあったねと~」と歌っている。
※そういえばもう知らない世代も多くなってきたということを思い出して、追記しました。
※なめろう:房総半島が発祥らしい。イワシやアジを叩いて粘りを出し、味噌や薬味と合わせる郷土料理。「なめろう」の由来は、食べた後に皿を舐めるほど旨いから、というのや、なめらかだからという説あり。
久しぶりの創作です。
しかもぎりぎり間に合いました。
小牧部長。宜しくお願いします。
