私は、抜け殻を教えていた——30年後に気づいた、言葉の「動き」 【エッセイ編①】
「君がやっているのは、単なるこじつけだ。
学問を、言葉を、舐めてはいけない」
三十年前の放課後。
西日の差し込む職員室で、指導教官の低い声が響いた。
教育実習で行った模擬授業。その中で披露した語源の話は、一瞬で切り捨てられた。
言葉を失った。自分の浅さだけが、はっきりとそこにあった。
以来、私は「語源」という言葉を自分に禁じた。
教師になってからは、教科書の訳語だけを丁寧に黒板に書いた。
success は成功。process は過程。
単語に意味というラベルを貼って渡す。
それが、間違いのない教え方だと信じていた。
波風を立てない。踏み込まない。疑われない。
そうして私は、「正しい教師」であり続けた。
だが、言葉は、どこかで死んでいた。
転機は、数年後に訪れた。
教員の研修会。自分の英語が、思うように出てこないことに気づいた。
覚えてきたはずの単語が、使えない。
そのとき、初めて足元が崩れた。
英検一級に、もう一度挑戦しようと決めた。
時間のない中で、単語を覚え直す日々。
覚えられない。
かつて生徒に教えていたはずの言葉が、自分の中に残っていない。
私は立ち尽くした。
そして、追い詰められるようにして、あの辞典を開いた。
教育実習で封じた、語源辞典だった。
そこには、まったく違う光景が広がっていた。
凍りついていた単語が、静かに動き始める。
ばらばらだったはずの言葉が、見えない根でつながっている。
地下で絡み合い、互いを支え合うように。
port は、運ぶ。
外へ運べば export、内へ運べば import。
portable は、運べるという性質になる。
単語が、意味ではなく、「動き」として立ち上がってくる。
それは、記号ではなかった。
人が世界をどう捉えたか、その痕跡だった。
私は、夢中で書き留め、一つ一つの単語のルーツを紐解いていった。
押す press、引く tract、運ぶ port。
言葉が、初めて自分の中で息をし始めた。
書き溜めたルーツを、教室で伝えたとき、
空気が変わった。
生徒の目が変わる。
暗記ではなく、発見を見る目に。
「……つながってるんだ」
その小さな呟きを聞いたとき、胸の奥で何かがほどけた。
なぜ、私はこれを教えてこなかったのか。
語源は難しい。負担になる。
そう言い聞かせて避けてきたものが、
実は言葉の、その単語の本当の姿だったのではないか。
私は単語を教えていたのではなかった。
意味というラベルを、貼り替えていただけだった。
抜け殻を渡していたのだ。
では、理解するとは何か。
understand 。
その語は、under(下から)と stand(立つ)に分かれる。
上から見て分かることではない。
下から支え、ともに立つことだ。
崩れそうな足場に踏みとどまりながら、重みを引き受ける。
その営みそのものが、「理解」なのだ。
三十年前、あの教官に否定された自分は、もういない。
遠回りだった。
だが、その時間ごと引き受けて、ようやくここに立っている。
英語は、死んだ記号ではない。
今も、ここで動いている。
言葉の見え方が変わると、思考が変わる。
思考が変わると、世界の輪郭が変わる。
抜け殻ではない言葉を、今度こそ手渡すために。

私の、三十年越しの授業が、いま始まる。
言葉の「動き」についての記録は、こちらにまとめています。
らんどーるの英語note案内
