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「いのちの記憶」 沢木耕太郎 著 新潮文庫

人生にはいくつもの岐路があり、そこで出会う人によってその後の人生が大きく変わる・・・あるいは、その人に出会ったことにより普通の一本道に岐路が現れるのかもしれません。

沢木さんの横浜国立大学経済学部時代のゼミの先生であった長洲一二先生とのエピソードが印象的です。

あまり真面目な学生ではなかったらしい沢木さんは、人気教授だった長洲先生のゼミに応募しますが選ばれませんでした。その際に自信を持って提出した作文が落とされた理由を知りたくて、沢木さんは先生の自宅まで行きます。

沢木さんがゼミの選考に落ちたのは、別の理由でした。長洲先生は改めて沢木さんの作文を読みます。
*****
「どんな理由であれ、私は君を私のゼミに入れなかった。そうなんですね」
私がうなずくと、先生はこう言った。
「それは間違いでした」
私は驚いて先生の顔を見た。すると、先生はあらたまった口調でこう言ったのだ。
「私のゼミに入ってくれますか?」
その言葉にさらに驚かされた。ゼミに入れてやろう、でもなく、ゼミに入りなさい、でもなく、ゼミに入ってくれますか、と言ったのだ。(p.104)

*****
「それは間違いでした」「私のゼミに入ってくれますか?」のような言葉を言える先生は滅多にいないでしょう。

沢木さんは
その言葉の底には、君は何者かになりうる、と言うメッセージが存在するように思えた。そして、そのようなメッセージを発してくれた「大人」は、先生が初めてだったのだ。
もしかしたら、私は二十歳からの困難な数年を、先生の言葉ひとつを支えに切り抜けていったのかもしれないと思う。(p.105)
と語っています。

そして、大学を卒業して就職したものの、たった一日で会社を辞めてしまった沢木さんに、「何か書いてみないか」と声を掛けてくれたのが長洲先生だった(p.102)とのことです。

もし、長洲先生に出会っていなければ、沢木さんのその後の人生は全く違ったものになっていたかもしれません。

人生の岐路に立った時、「君は何者かになりうる」というメッセージを発してくれる大人との出会いは、何にも増して大切なもののように思います。

この本にはたくさんの素晴らしい人たちとの出会いが書かれています。
1980年10月、沢木さんが、モハメド・アリ対ラリー・ホームズの試合を見た時の話が出てきます。その時、チケットを手に入れられない沢木さんに、ロサンゼルス在住でボクシング・カメラマンをしている林一道さんを通してチケットを譲ってくれたのが高倉健さんでした。

この試合でアリは、かつてのスパーリングパートナーだったホームズにめった打ちにされ、TKO負けします。そして、この試合を最後にアリはプロボクシングの世界から引退するのです。

そして、沢木さんは、高倉さんのためだけの観戦記を書きます。沢木さんの文章を読んだのは高倉健さんしかいなかったのです。なんとカッコいい2人なんだろうって思いました。

沢木さんの文章は、やがて、2014年に高倉健さんが亡くなり、2016年にアリが亡くなった後の追悼文として雑誌Numberに載りました。それも以前読みましたが、素晴らしい観戦記でした。


この本を読んで、沢木さんと僕のちょっとした共通点を見つけました。それが、なんか嬉しい。

沢木さんは「逃亡者」というアメリカのテレビ番組に夢中になったとのことだけど、10歳年下の僕もとても入れ込んで見ていた番組です。僕が6歳から10歳の頃に放映されていた番組です。僕の最初の推し活は、「逃亡者」の主演男優デビット・ジャンセンです。沢木さんと同じ番組にワクワクしていたなんて嬉しい。

沢木さんは、都立高校から国立一期校受験に落ちて二期校の横浜国立大学に進学しています。沢木さんの頃も僕の受験時代も、国立の大学は、東大・京大などの旧帝大と東工大・一橋などの一期校受験校と、横浜国立大学、埼玉大学、神戸大学、東京外語大学などの二期校受験校に分かれていました。みんな一期校を第一志望にするわけですが、チャンスは一度しかなく、国立を目指すのなら、一期校受験に落ちたら二期校に賭けるしかなかったのです。

僕も国立一期校受験に落ちて二期校の横浜国立大学に進学しました。ただ、沢木さんは一期校受験は東大で横浜国立大学には現役で受かっていますが、僕は一期校受験は京大で横浜国立大学には一浪して受かっています。似ているようで、ちょっと違う。

沢木さんは、就職するのですが辞めてルポライターになります。僕も就職して辞めてカウンセラーになっています。

でも、沢木さんが就職初日で辞めたのに、僕は会社に14年10ヶ月勤めました。ずっとは勤めないんじゃないかと最初からどこかで思ってはいたのですが、その割にはずいぶん長く勤めたものです。

ここまで書いて、「ちょっと共通点を見つけてなんか嬉しい」と書いたのが恥ずかしい。だいぶ違いますよね。

僕には沢木さんみたいな度胸がなかった。特に大学を卒業し社会に出るときの思い切りの良さが違います。

僕はヨタヨタと大学生活を送り、就活に出遅れてモラトリアム状態でした。工学部を卒業したのだけど、横浜の小さな会社に就職するしかないかななんて思っていたのですが、それも怖くて、たまたまあった大学院の二次募集(欠員が出たのです)に受かって時間稼ぎをしたのです。

その後、14年10ヶ月もかかって、別の道にやっとトライする勇気が出たわけです。それも相当怖かった。

沢木さんは、なんで21歳という若さでレールから外れる生き方ができたのだろうと考えてしまいます。

高校時代の担任の先生と大学時代の先生という大人が沢木さんに対して「君は何者かになり得る」というメッセージをくれたということが大きな力になったのではないかと思います。

僕にそういうメッセージをくれた人がいたかというと・・・いました。

僕は中学2年1学期まですごく成績が悪かったのですが、母親が僕のあまりの勉強不振を心配し、その頃には珍しく家庭教師を雇ったんですね。その先生が面白かった。勉強を教えてくれるというよりも勉強のやり方を教えてくれました。そして、家庭教師の時間の多くは、勉強よりも、小説の話、学生運動の話(先生は学生運動に対し肯定的否定的両方の視点を持っていました)、政治の話、女の子の話に多くの時間が費やされました。

そのおかげ?か、僕の成績は上がっていきました。中学2年の後半から塾にも通ったのですが、そこの国語のテストで僕は生まれて初めて一番というものを取りました。それは、長文読解のみで、選択問題のない記述だけの変なテストでした。どうやら早稲田大学の先生が趣味で出したようなテストだったのです。しかも、その長文の内容が、「大人の恋愛シーン」なのです。僕は喜んでその文章を読んだのですが、他の生徒は戸惑ったようです。

そして、その答案が返ってきた時、テストの最後に先生が赤字で「君には才能があります」と書いてくれていました。小学校低学年の頃から問題児扱いだった僕ですから、そんなことを言われたのは生まれて初めてのことでした。

僕は、その会ったこともないその先生の言葉「君には才能があります」を宝物のように大事にしました。たったそれだけの言葉で、僕は力付けられたのです。

こんな感じで、僕にも励ましてくれた「大人」はいたのですが、僕は20代のころ沢木さんのような勇気はありませんでした。勇気を持つまでに14年10ヶ月かかったのです。でもそれが、僕にとってはちょうどいい期間だったのだと思います。

会社を辞めてアメリカの臨床心理学の大学院に留学をしたのですが、留学中は、多くの先生から励まされました。「いいファイナルペーパーをありがとう」と教授から言われたこともありました。その教授からは博士課程に進むことを強く勧められたのですが、資金的に難しかったし、日本で臨床をしたいという気持ちが強くなったので帰国することにしました。その時その教授が残念そうな顔を今でも覚えています。それでも先生は、日本に帰ってしっかり臨床をやるように励ましてくれました。

別の教授の一人は、彼の授業のファイナルペーパーをブラッシュアップして学会誌に出したらいいと励ましてくれました。大学院生のペーペーが書いた論文なんぞ学会誌が取り上げてくれるはずはないと思っていたのですが、その教授があまりに熱心に勧めるので応募したら、載っちゃいました。Journal of Humanistic Psychology という学会誌です。今でも、あの雑誌に僕の論文が採用されたのは信じられない気持ちです。

そして、日本に帰ってから、僕は憧れていたセラピストの吉福伸逸さんにお会いすることができました。亡くなる1ヶ月前に電話でお話しした時、吉福さんから「向後さんは、この9年間で大きく変化したね」という言葉をいただきました。吉福さんは、「成長」という言葉を嫌っていました。人間は「成長するのではなく変化するのだ」というのが吉福さんの主張でした。「大きく変化したね」は、僕にとって、最高の褒め言葉です。この言葉は、今の僕にとっての「宝物」です。


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