〇〇の百人一首 ⑩ ~逢坂の関~
令和の百人一首 ⑩
これやこの いくもかへるも わかれては しるもしらぬも あふさかのせき
これやこの 行くも帰るも 分れては 知るも知らぬも 逢坂の関
これや この逢坂の関は 行く人も帰る人も 知る人も知らない人も 分かれてしまうところやな
ここが逢坂の関だ 行く人も帰る人も 知っている人も知らない人も 分かれてしまうところだな
ここがあの逢坂の関だ 都を出ていく人も都に帰ってくる人も 知っている人も知らない人も 分かれ行き交う
ここだ 都を出ていく人も都に帰ってくる人も 知っている人も知らない人も 分かれ行き交うあの逢坂の関とは
ここがあの有名な逢坂の関だ 都を出ていく人も帰ってくる人も 知られている人も知られていない人も 分かれて行き交う
『後撰集』 雑歌一1089 蝉丸(せみまる せみまろ 906?~954?
『後撰集』では、「これやこの いくもかへるもわかれつつ しるもしらぬも あふさかのせき」となっている。
この歌は、次の小倉百人一首62番、あの清少納言の ‟逢坂の関” の歌と対になっているといわれ、また陸の道である逢坂は、海の道である難波との対になっているともいわれる。
よをこめて とりのそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ
『今昔物語集』には、蝉丸は「敦実と申しける式部卿の宮の雑色」とも、『平家物語』では「醍醐天皇の第四皇子」ともされ、もしそうであれば重明親王となり、官位は三品式部卿。いずれにしても『後撰集』がつくられた951年ころの平安時代の人物。盲目の僧といわれ、逢坂の関の近くに蝉丸神社があることから、逢坂の関のあたりに住んでいたともいわれる。
「逢坂の関」とは近江国と山城国の国境にある逢坂山にあった。都からこの関を越えることは都を離れることになる。とはいえ大化のころにあったこの関は、平安京初期にはなかった。今の地名でいえば京都と大津の間の関で、比叡山の南に位置する。後の東海道や東山道(中山道)が通る。
この位置にある関は都への入よりも、出を監視するためにつくられたようで、895年の太政官符で「五位以上貴族及孫王」が畿内から出ることを禁じていたともいわれる。
