『勝ち方を知らないチーム──桜南高校女子バスケットボール部の物語』第12話 スコアボードには映らないもの
これは、ビジネス小説である。
勝ち方を知らなかった女子バスケットボール部が、少しずつチームになるまでの物語。
チームづくりと見えない貢献を、物語で学ぶ組織論。
第12話 スコアボードには映らないもの
スコアボードには、残り二分三十秒が表示されていた。
六十八対四十七。
二十一点差。
勝敗は、もう誰の目にも明らかだった。
清陵は強かった。
桜南が何かを変えるたびに、清陵はその上を行った。
美月が声で判断を減らせば、水原はその声を読んだ。
莉子が割れば、二枚目が寄った。
菜央が外へ開けば、手が先に届いた。
陽菜がリバウンドに入れば、体を当てられた。
玲が「戻って」と叫んでも、清陵はその前に走り出していた。
桜南は、最後まで切れてはいなかった。
だが、届いてはいなかった。
その事実が、コートにも、ベンチにも、静かに降りていた。
小暮遼は、作戦ボードを手に取った。
白い面を見る。
そこには、まだ何も書かれていない。
書くべき作戦なら、いくつもあった。
美月の負担を減らす形。
莉子を逆から使う形。
菜央をもう一度外へ逃がす形。
陽菜をハイポストに置く形。
玲を逆サイドに残す形。
だが、どれを書いても、もう勝敗を動かすものにはならない。
残り二分三十秒。
二十一点差。
その数字は、残酷なほどはっきりしていた。
遼は、ベンチの端を見た。
佐伯真帆が立っていた。
試合に出る準備をしているわけではなかった。
ただ、声を届けるために、誰よりも前へ出ていた。
真帆は、ずっとそうだった。
三年間、練習を休まなかった。
腰に不安を抱えながら、それでも体育館に来た。
試合に出る仲間の背中を、いつもベンチから押し続けていた。
自分の出番が来なくても。
スコアシートに名前が残らなくても。
誰かが下を向きそうになるたびに、真帆の声が先に届いた。
それでも、公式戦のコートには、ほとんど立っていなかった。
遼は、作戦ボードを閉じた。
そして、真帆の名前を呼んだ。
「真帆」
真帆が振り向いた。
自分のことだと、すぐには分からないような顔だった。
「出るぞ」
真帆の表情が止まった。
「私、ですか」
「そうだ」
真帆は、何かを言おうとして、言えなかった。
腰のこと。
試合勘のこと。
この点差で自分が出る意味。
その全部が、顔に浮かんでいた。
「無理なら言え」
遼がそう言うと、真帆は小さく首を振った。
「出たいです」
遼はうなずいた。
そして、コートの玲に向かって声をかけた。
「玲、交代だ」
玲は一瞬、驚いた顔をした。
だが、すぐにうなずいた。
「はい」
玲は、コートを出る前に、真帆を見た。
大きな声ではなかった。
けれど、はっきりと言った。
「声、出します。ベンチから」
真帆は、玲を見た。
玲は、少しだけ頬を赤くして、それでももう一度うなずいた。
隣にいた紬が、そっと真帆の背中に手を添えた。
「行ってきて」
真帆は、紬を見た。
紬は、静かにうなずいた。
「見てるから」
その言葉は短かった。
けれど、真帆には届いた。
紬は、いつも見ていた。
コートの中も。
ベンチの端も。
真帆が声を出し続けてきた時間も。
だから、その「見てるから」は、軽い言葉ではなかった。
真帆は、小さく息を吸った。
そして、ベンチの前へ出た。
紬が、記録席へ交代を伝える。
ブザーが鳴った。
玲がコートを出る。
真帆が、コートへ向かう。
その時、コートの中で陽菜が真帆を見た。
声は届かなかった。
けれど、陽菜は小さくうなずいた。
待ってる。
そう言っているように見えた。
真帆は、もう一度息を吸った。
そして、コートに立った。
その瞬間、ベンチの声が変わった。
「真帆さん!」
「いけます!」
「一本、打ちましょう!」
誰が言ったわけでもない。
けれど、コートの四人も、ベンチの全員も、同じことを考えていた。
真帆に、一本打たせる。
それは、勝つための作戦ではなかった。
点差を縮めるための作戦でもなかった。
真帆が積み重ねてきた時間を、コートの上に置くための一本だった。
清陵ボールで再開された。
水原がボールを運ぶ。
真帆は、相手について走った。
速くはない。
けれど、必死だった。
清陵は、手を抜かなかった。
パスを回し、中を見せ、外へ出す。
シュート。
入った。
七十対四十七。
点差は二十三点に広がった。
それでも、桜南は戻った。
美月がボールを運ぶ。
陽菜がスクリーンをかける。
菜央が逆サイドへ走り、相手の目を引きつける。
莉子が左サイドで構え、守備を引きつける。
真帆は、右のコーナーへ向かった。
速くはなかった。
けれど、そこへ行こうとしていた。
ベンチに下がった玲が、立ち上がって叫んだ。
「真帆さん、右!」
その声に、真帆が走る場所を思い出すように顔を上げた。
美月は見ていた。
真帆が右コーナーで一瞬だけ空く。
その一瞬を、見逃さなかった。
美月からパスが飛んだ。
「真帆さん!」
体育館の声が集まった。
真帆は、ボールを受けた。
リングが見えた。
打てる。
打つべきだった。
だが、打てなかった。
膝が止まっていた。
腕が上がらなかった。
リングは見えているのに、あまりにも遠かった。
清陵の選手が詰めてくる。
真帆は、慌ててボールを下げた。
その瞬間だった。
手元から、ボールが弾かれた。
相手に奪われた。
体育館の空気が、一瞬だけ止まった。
真帆の顔が白くなる。
「ごめん……」
その声は、床に落ちるほど小さかった。
清陵が速攻に入る。
水原が前を見る。
真帆は、その背中を見た。
足が、床に貼りついたように動かなかった。
もう終わった。
そう思った。
自分のミスで、終わらせてしまった。
胸の奥が、すっと冷たくなる。
けれど、桜南は止まっていなかった。
ボールを奪われた瞬間、美月の体はもう自陣のゴールへ向いていた。
陽菜が、迷わず相手の進路へ走った。
菜央が、逆サイドから全力で戻る。
莉子が、歯を食いしばって、水原の前へ出ようとしていた。
「戻って!」
ベンチから、玲の声が飛んだ。
さっきまでコートにいた玲の声だった。
今度は、ベンチからコートを動かす声だった。
その声に押されるように、四人の足がさらに速くなる。
勝つためのディフェンスではなかった。
もう勝敗は、ほとんど決まっていた。
点差を縮めるためのディフェンスでもなかった。
桜南は、真帆にもう一度ボールを渡すために戻っていた。
真帆の時間を、あの一つのミスで終わらせないために戻っていた。
真帆だけが、終わったと思っていた。
だが、コートの四人は、一瞬も終わらせていなかった。
誰かが、そう言葉にしたわけではない。
けれど、コートの四人も、ベンチの全員も、同じことを思っていた。
まだ終わっていない。
真帆は、まだ終わっていない。
陽菜が、相手のドリブルコースを塞いだ。
美月が、横から手を伸ばす。
莉子が、逃げ道を消す。
ボールが一瞬、浮いた。
菜央が、そこへ飛び込んだ。
床に転がったボールを、菜央が拾った。
ベンチが立ち上がった。
「もう一回!」
「真帆さん、もう一回!」
菜央が、美月へボールを渡す。
美月は急がなかった。
焦らなかった。
真帆を見た。
真帆は、泣きそうな顔で首を振っていた。
もういい。
そう言いたそうだった。
自分のせいで、また迷惑をかける。
自分に打たせようとしたせいで、チームが苦しくなる。
そう思っている顔だった。
美月は、小さく笑った。
「もう一回、作ります」
真帆は、動けなかった。
陽菜が、ゴール下から声をかける。
「次は打てる」
菜央が、逆サイドへ走りながら言った。
「私、引きつけます」
ベンチの玲が、もう一度叫ぶ。
「真帆さん、右!」
莉子が、左サイドでボールを呼んだ。
「美月、こっち!」
その声で、清陵の守備が少し莉子へ寄る。
莉子は、真帆を見なかった。
あえて見なかった。
自分を見ろ、と言うように、強く構えた。
さっきと同じ形だった。
いや、同じではなかった。
今度は、ベンチも、観客席も、清陵の選手たちも、何をしようとしているのか分かっていた。
桜南は、真帆に打たせようとしている。
それでも、桜南はやめなかった。
美月がドリブルをつく。
莉子が左サイドで強く構える。
菜央が逆サイドへ走り、守備を外へ引っ張る。
その陰で、陽菜が真帆の前に立った。
派手な動きではなかった。
ただ、真帆を追おうとした守備の進路に、体を置いた。
一瞬だけ、道ができた。
「真帆さん、右!」
玲の声が飛ぶ。
真帆が、陽菜の背中をかすめるように右コーナーへ走った。
清陵も分かっている。
それでも、一瞬だけ遅れた。
陽菜のスクリーン。
菜央の走り。
莉子の圧。
その全部が、真帆の前に小さな空白を作った。
美月から、二度目のパスが飛んだ。
今度のパスは、さっきより少しだけ優しかった。
真帆の胸の前に、まっすぐ届いた。
真帆は、ボールを受けた。
体育館中の視線が集まる。
膝は震えていた。
指先も硬かった。
それでも、真帆はリングを見た。
もう、下げなかった。
ベンチが叫んだ。
「打って!」
「真帆さん!」
「いけます!」
その声の中で、紬が立ち上がった。
スコアシートを胸に抱えたまま、いつもなら決して張り上げない声で叫んだ。
「真帆! 頑張れ!」
体育館の空気が、一瞬だけ震えた。
真帆の目が、ほんの少しだけ揺れた。
紬の声だった。
いつも、見ているだけだと言っていた紬の声だった。
誰よりも真帆の三年間を見てきた紬の声だった。
観客席からも声が起きた。
「真帆!」
清陵の選手も詰めてくる。
だが、今度は間に合わない。
真帆は、シュートを放った。
ボールは高く上がった。
体育館の音が消えた。
リングへ向かう。
当たる。
跳ねる。
入らなかった。
ボールは、リングの外へこぼれた。
だが、その次の瞬間、体育館が揺れた。
「ナイスシュート!」
「真帆さん!」
「よく打った!」
ベンチが、立ち上がっていた。
陽菜が、真っ先に真帆へ駆け寄った。
美月が、両手を叩いていた。
菜央が、泣きそうな顔で笑っていた。
ベンチの玲が、小さく拳を握っていた。
紬は、立ち上がったまま、スコアシートを胸に抱えていた。
その手に、強く力が入っていた。
莉子は、少し離れたところで、真帆を見ていた。
それから、低く言った。
「真帆さん、今のは逃げてなかったです」
真帆は、泣きながら笑っていた。
「外した」
「打ったじゃないですか」
莉子は言った。
「なら、いいです」
真帆は、もう何も言えなかった。
涙が、頬を伝っていた。
スコアボードの点差は、何も変わっていなかった。
七十対四十七。
数字だけを見れば、ただの失敗だった。
一本外れただけ。
得点にもならなかった。
試合の流れも変わらなかった。
勝敗にも関係なかった。
だが遼は、その数字から目を離した。
そこには、もう桜南のすべては映っていなかった。
清陵ボールで試合が再開される。
残り時間は、三十秒を切っていた。
清陵は、落ち着いてボールを回した。
桜南は、最後まで守った。
陽菜の足は重かった。
美月は肩で息をしていた。
莉子は、まだボールを奪おうとしていた。
菜央は、最後まで外へ走った。
真帆も、遅れながら、それでも戻った。
ベンチから玲の声が飛ぶ。
「戻って!」
その声は、コートの外からでも、確かに届いていた。
清陵が最後のシュートを決めた。
七十二対四十七。
残り時間が、静かに削れていく。
桜南は、最後まで走った。
もう一本を取りにいった。
けれど、届かなかった。
ブザーが鳴った。
試合終了。
七十二対四十七。
桜南は、負けた。
清陵の選手たちが、小さく息を吐く。
桜南の選手たちは、立ち尽くしていた。
悔しさがあった。
届かなかった悔しさ。
何度変えても、清陵に上を行かれた悔しさ。
自分たちの成長が、まだ足りなかった悔しさ。
けれど、誰も下を向き続けてはいなかった。
整列。
礼。
「ありがとうございました」
声が重なった。
握手の列で、水原彩花が美月の前に立った。
「十一番」
美月が顔を上げる。
「はい」
「やりにくかった」
水原は、短く言った。
美月は、驚いた顔をした。
「私、止められてました」
「止めにいったから」
水原は言った。
「あなたを遅らせないと、桜南は止まらないと思った」
美月は、何も言えなかった。
水原は、次に莉子を見た。
「七番も。最後まで嫌だった」
莉子が、少し眉を上げる。
「嫌って何ですか」
「読んでも、たまに壊してくるから」
莉子は、一瞬だけ黙った。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「褒め言葉として受け取ります」
「そうして」
水原は、ほんの少し笑った。
最後に、水原の視線が真帆に向いた。
「あなたも」
真帆が驚く。
「私ですか」
「最後、会場中があなたに打たせようとしてた」
真帆は、何も言えなかった。
「清陵も分かってた。でも、一瞬遅れた」
水原は、静かに言った。
「あれは、桜南全員の一本だったと思う」
真帆の目が揺れた。
「でも、外しました」
「打った」
水原は言った。
「それで十分、嫌だった」
それだけ言って、水原は列に戻っていった。
真帆は、しばらく動けなかった。
桜南全員の一本。
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
試合後のベンチは、静かだった。
泣いている一年生もいた。
菜央は、タオルで顔を押さえていた。
玲は、膝に手を置いたまま床を見ていた。
陽菜は、誰かを励まそうとして口を開き、そしてやめた。
美月は、スコアボードを見つめていた。
莉子は、少し離れたところで壁に背をつけていた。
紬は、最後のスコアを書き終えたまま、ペンを置けずにいた。
真帆は、ベンチの端に座っていた。
腰に手を当てている。
痛みがあるのかもしれない。
だが、その顔には、痛みだけではないものがあった。
遼は、選手たちの前に立った。
何を言うべきか、すぐには分からなかった。
惜しかった。
よく頑張った。
胸を張れ。
どの言葉も、間違いではない。
だが、今の桜南には、少し軽く聞こえる気がした。
だから、遼は言葉を選んだ。
「負けたな」
選手たちは顔を上げた。
「清陵は強かった。今の桜南より、ずっと強かった」
誰も否定しなかった。
事実だった。
「でも、お前たちは最後まで、桜南だった」
真帆が、ゆっくり顔を上げる。
「点差が開いても、相手に読まれても、声がかすれても、最後まで自分たちで選ぼうとしていた。誰か一人に頼らなかった。ベンチも、コートも、全部使っていた」
遼は、一人ひとりの顔を見た。
「最後の真帆の一本も、そうだ」
真帆の肩が、小さく震えた。
「あれは、真帆一人のシュートじゃない。美月が作った。陽菜が止めた。菜央が引っ張った。玲がベンチから声を出した。莉子が引きつけた。紬が見ていた。ベンチ全員が声を出した」
遼は、そこで少しだけ紬を見た。
「そして、紬も叫んだ」
紬の手が、スコアシートの上で止まった。
「あの一本は、全員で、もう一回作った一本だ」
体育館の音が、遠くで響いていた。
別のコートでは、まだ試合が続いている。
「入らなかった。でも、打てた。真帆の時間を、あそこで終わらせなかった」
真帆は、顔を伏せた。
涙が、膝の上に落ちた。
「それは、スコアボードには映らない。でも、今日の桜南を作っていたものだ」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
沈黙があった。
だが、それは重いだけの沈黙ではなかった。
何かを、全員で受け取っている沈黙だった。
真帆が、小さく口を開いた。
「私、最初、打てませんでした」
誰も笑わなかった。
「怖くて、手が止まりました。せっかく作ってもらったのに、取られて……もう終わったと思いました」
真帆は、涙を拭かなかった。
「でも、みんなが戻ってくれて。もう一回、作ってくれて」
声が震える。
「あれ、嬉しかったです。入らなかったけど、嬉しかったです」
少し間を置いて、真帆は紬を見た。
「紬が、声出してくれたのも」
紬は、すぐには何も言えなかった。
いつものように「見ていただけ」とは言わなかった。
言えなかった。
陽菜が泣いた。
声を出さずに、ぽろりと涙を落とした。
菜央もタオルで目を押さえた。
玲は、うつむいたまま唇を噛んでいた。
莉子は、壁にもたれたまま、そっぽを向いた。
だが、その目は赤かった。
紬は、スコアシートを閉じた。
ゆっくりと。
何かを、きちんと終えるように。
試合後の片づけが始まった。
いつもなら陽菜が先に動く。
だが、今日は違った。
美月がボールを集める。
玲がベンチのタオルを集める。
菜央がボトルをまとめる。
莉子が、無言で重いかごを持ち上げる。
真帆が、使い終えたテーピングの袋を片づける。
紬が、スコアシートをしまう。
陽菜は、その真ん中で少しだけ立ち止まっていた。
それから、誰かに指示を出すのではなく、自分の近くに落ちていたテープを拾った。
ただ、それだけだった。
けれど、それでよかった。
帰りのバスに乗る前、遼は一人で会場の入口に立っていた。
外は夕方だった。
大会の喧騒が、まだ体育館の中から漏れている。
その時、牧が隣に来た。
「負けたな」
「負けました」
「でも、いい顔してるぞ。お前」
遼は、苦笑した。
「そうですか」
「ああ。悔しそうだけど、悪くない顔だ」
遼は、体育館の方を見た。
「不思議ですね。負けたのに、あまり空っぽじゃない」
「そりゃ、そうだろ」
牧は言った。
「あいつら、ちゃんとやったからな」
ちゃんとやった。
単純な言葉だった。
だが、遼には、その言葉が妙に深く聞こえた。
ちゃんと負けたのだ。
途中で折れずに。
誰か一人に頼らずに。
最後まで、自分たちのまま。
だから、残るものがある。
遼は、ふと高校時代の自分を思い出した。
最後の大会。
自分はベンチで終わった。
一秒もコートに立てなかった。
仲間が泣いている背中を、ベンチから見ていた。
自分の三年間は何だったのか。
その問いは、長い間、遼の中に残っていた。
だが、今日、真帆がコートに立った。
最初は打てなかった。
ボールを奪われた。
それでも、チームが戻った。
もう一度、真帆に打たせた。
入らなかった。
それでも、真帆は打った。
その一本を、桜南全員が作った。
それを見て、遼はようやく、少しだけ分かった気がした。
スコアブックに残るものだけが、チームではない。
出場時間だけが、選手の価値ではない。
得点だけが、試合を作るのではない。
声。
視線。
待つこと。
支えること。
迷った誰かに、もう一回と言うこと。
ミスした誰かの時間を、そこで終わらせないこと。
それらは、数字にはならない。
だが、確かに誰かの足を前へ出す。
そして時には、チームそのものを変える。
遼は、高校時代の自分に、まだ完全な答えを渡せるわけではなかった。
あの三年間が、すべて報われたと言い切ることはできない。
コートに立てなかった悔しさは、簡単に消えるものではない。
だが、少なくとも、あの時間は空白ではなかった。
ベンチから見続けた時間。
声を出し続けた時間。
自分は何もしていないと思いながら、それでもチームの中にいようとした時間。
その全部が、今の自分の目になっていた。
そして今日、真帆の名前を呼ばせた。
それで十分だとは言わない。
けれど、無意味ではなかった。
遼は、そう思えた。
バスの方から声がした。
「小暮コーチ!」
振り向くと、真帆が立っていた。
少し歩き方が慎重だった。
陽菜が隣にいて、真帆の荷物を少し持っている。
「大丈夫か」
「はい。ちょっとだけです」
真帆は、いつものように笑った。
それから、少し迷って言った。
「出してくれて、ありがとうございました」
遼は、首を振った。
「真帆が出たんだ」
「でも、呼んでくれたので」
「呼ばせたのは、真帆の三年間だよ」
真帆は、少し不思議そうな顔をした。
「ずっと出してきた声が、最後にコートまで届いた。それだけだ」
真帆は、何も言わなかった。
陽菜が、真帆の肩を軽く叩く。
「行こう。バス出るよ」
「うん」
真帆は、遼に小さく頭を下げて、バスへ向かった。
その途中で、紬が待っていた。
真帆が、少しだけ笑った。
「紬、声、大きかった」
紬は、一瞬だけ黙った。
「そう?」
「うん。びっくりした」
「私も」
真帆が笑った。
紬も、ほんの少しだけ笑った。
その笑いは、小さかった。
けれど、遼には確かに見えた。
紬の中でも、何かが少し動いたのだと思った。
会場を出る前、清陵の水原が通りかかった。
水原は、桜南の選手たちが乗り込むバスの方を見ていた。
そして、ぽつりと言った。
「あれが、桜南か」
遼は、その声を聞いた。
今度は、誰かの噂ではなかった。
清陵のキャプテンの言葉だった。
遼は、水原を見る。
水原は、軽く頭を下げると、仲間の方へ戻っていった。
あれが、桜南か。
その言葉は、勝利の称賛ではない。
同情でもない。
ただ、ひとつのチームとして認めた言葉だった。
遼は、静かに息を吐いた。
桜南は負けた。
けれど、もう名前のないチームではなかった。
誰か一人のチームでもなかった。
陽菜だけが支えるチームでもない。
莉子だけが決めるチームでもない。
美月だけが選ぶチームでもない。
菜央だけが打つチームでもない。
玲だけが声を出すチームでもない。
紬だけが見ているチームでもない。
真帆だけが支えているチームでもない。
それぞれが、それぞれの場所で、チームの一部になっていた。
バスのエンジンがかかる。
選手たちの声が、窓越しに聞こえる。
泣いている声。
笑っている声。
次はどうするかを話す声。
悔しいとつぶやく声。
遼は、その声を聞いていた。
もう、声のない体育館ではなかった。
声は、あった。
最初から、あったのかもしれない。
ただ、誰も拾えていなかっただけだ。
体育館の隅に。
ベンチの端に。
声にならない迷いの中に。
自分には価値がないと思い込んでいた誰かの胸の奥に。
遼は、ようやくそれを聞けるようになったのだと思った。
バスが動き出す。
窓際で、莉子が何かを言っている。
菜央が笑っている。
玲が、少し困ったようにうなずいている。
陽菜が、全員の荷物を見ようとして、美月に止められている。
紬が、その様子を静かに見ている。
真帆が、窓の向こうから手を振った。
遼は、小さく手を上げた。
バスが、夕方の道へ出ていく。
遼は、しばらくその後ろ姿を見送った。
スコアボードには、七十二対四十七と残っていた。
数字だけを見れば、完敗だった。
だが、その数字の中には映らないものがあった。
真帆の一本。
真帆にもう一度打たせるために戻った守備。
美月のパス。
莉子の引きつけ。
菜央の走り。
陽菜のスクリーン。
玲の声。
紬の視線。
そして、紬の声。
ベンチの祈るような声。
ひとつのミスで誰かの時間を終わらせなかった、桜南の時間。
それらは、記録には残らない。
あるいは、ほんの小さくしか残らない。
けれど、チームの中には残る。
人の中には残る。
いつか誰かが、迷った時に、もう一度取り出せるものとして残る。
遼は、空になった駐車場で、ゆっくりと目を閉じた。
ベンチから見えるもの。
コートに立つ者には見えないもの。
スコアボードには映らないもの。
それを見つけ、言葉にし、誰かへ渡すこと。
それが、自分の仕事なのだと、今なら少しだけ思えた。
遼は、目を開けた。
夕方の風が、少し冷たかった。
だが、不思議と胸の奥は静かだった。
桜南の夏は、終わった。
けれど、チームは終わっていなかった。
次の体育館には、きっとまた声が響く。
その声は、もう誰かに出せと言われた声ではない。
自分たちで見つけた声だ。
遼は、会場を振り返った。
そして、誰もいない入口に向かって、小さく頭を下げた。
ありがとうございました。
声には出さなかった。
けれど、その言葉は、確かに胸の中にあった。
遼は歩き出した。
もう、ベンチで過ごした時間を、ただの空白だとは思わなかった。
あの時間があったから、今日、見えたものがある。
あの時間があったから、聞こえた声がある。
そして、あの時間があったから、真帆の名前を呼ぶことができた。
スコアボードには映らない。
けれど、確かに残るものがある。
桜南バスケ部は、それを教えてくれた。
小暮コーチメモ
スコアボードに残るものだけが、チームのすべてではない。
得点。
出場時間。
勝敗。
それらは、大切な記録である。
だが、そこに映らないものもある。
声を出し続けた時間。
誰かの迷いに気づいた視線。
失敗した仲間に、もう一回と言える空気。
自分の役割を超えて、誰かのために一歩動いた瞬間。
それらは数字にはなりにくい。
けれど、チームを本当に支えているのは、そういう小さな積み重ねである。
誰かの時間を、一つの失敗で終わらせないこと。
それもまた、組織の強さである。
これは、バスケットボールの話である。
そして同時に、チームをつくるすべての人の話でもある。
次回
あとがき スコアボードには映らないもの
