作り笑顔
子どもは時々、記憶をやさしく塗り直す。
それが無邪気さであり、優しさであり、ときに残酷でもある。
私は、そんな子どもの“記憶”に、名前のない喪失を感じた。
──これは、子どもが私を「描き直した」ある日の話だ。
最近、私はよく笑っているらしい。
妻にも言われた。「あなた、いつも笑ってるね」って。
でも自分ではよくわからない。
本当に笑っているのか、それとも「笑ってることにしている」のか。
──その違いが、最近あいまいになってきている。
ある日のことだ。
何気なく子どものタブレットを覗いたとき、写真フォルダに、家族写真がずらっと並んでいた。
「これ、いつの……?」
見覚えのない写真だった。いや、風景や服装には覚えがある。
ただ、そこに写っている“自分”の顔が、どれも笑っていた。
違和感があった。
このとき、私は笑っていなかったはずだ。少なくとも、こんな自然な笑顔じゃなかった。
にもかかわらず、クラウドには“楽しそうな父親”の記録ばかりが残っていた。
「ねえパパ、これいい写真でしょ?」
子どもが嬉しそうに言う。
私はうなずいた。でも内心ではずっと考えていた。
──これは誰が“撮り直した”のか。
──私の“本当の顔”は、どこへ行ったのか。
ふと、あのときのことを思い出した。
水族館の帰り道。
あの日、私は一度だけ怒鳴ってしまったことがある。
子どもがはしゃいで、他の人にぶつかったのを見て、つい大声を出してしまった。
あれ以来、子どものアルバムから、私は消えた。
写ってはいるけど、どれも顔がぼやけている。無表情の自分が多かった。
だが最近、何枚かが“上書き”されているようだった。
笑っている自分の写真。
──だけど、その笑顔はどこか、私のものではない。
「お父さん、今日も笑ってるね」
子どもがそう言ったとき、私は咄嗟に鏡を見た。
無意識に、口元が上がっていた。
それが嬉しいことなのか、怖いことなのか、わからなかった。
ただ、そう“あるべき”だと思っていた。
子どもが安心できる父親。明るく、優しく、怒らない父親。
その理想像が、自分の中に染みついていた。
夜、ひとりで古いアルバムを開いた。
そこには、今よりも不器用に笑っている自分がいた。
照れているような、気恥ずかしいような、でも確かに“自分の感情”があった顔。
いま鏡で見る自分の笑顔には、それがない。
きれいに整っていて、角がなく、誰も傷つけないように配置された──記号のような笑顔だった。
「ねえパパ、今日の写真、もうクラウドに入れたよ」
子どもが言った。
私は思わず聞いた。
「その中のパパって……楽しそうに見える?」
子どもは首をかしげた。
「うん、いつも楽しそうだよ?」
その“いつも”が、妙に胸に残った。
──私は、子どもに“描き直された”のだ。
怒鳴ったことも、無愛想だった顔も、全部塗り替えられて。
そして今、笑顔だけが残っている。
それは優しさだったのかもしれない。
でも同時に、“自分”の輪郭がぼやけていくようで、どこか寂しかった。
最近、たまに怖くなることがある。
写真の中の“あの笑顔”が、自分よりも“自分らしく”見えるときがある。
──どちらが本物かわからない。
それでも私は、明日もきっと笑っている。
子どもがそう望んでくれる限り。
