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愛を貫くために死を選んだ男と女 増村保造監督『曽根崎心中』

子どもの頃に観て、なぜか忘れられない映画があります。

物語をすべて理解していたわけではないのに、その激しさだけが胸に残り続けている…。そんな作品です。

それは、増村保造監督『曽根崎心中』(1978年)です。

近松門左衛門による名作浄瑠璃を映画化した作品ですが、この映画は、いわゆる“古典文学映画”ではありません。もっと剥き出しで、危険で、息苦しいほどの熱を帯びている。

初めて観た時、私は圧倒されました。こんなにも感情を剥き出しにした日本映画があるのかと。

《スタッフ》
製作会社:ATG、行動社、木村プロダクション
◎監督:増村保造
◎脚本:白坂依志夫、増村保造
◎原作:近松門左衛門
◎製作:藤井浩明
◎撮影:小林節雄
◎美術:間野重雄
◎音楽:宇崎竜童
《キャスト》
◎天満屋お初:梶芽衣子
◎平野屋徳兵衛:宇崎竜童
◎油屋九平次:橋本功
◎平野屋久右衛門:井川比佐志
◎お才:左幸子

物語の舞台は元禄時代の大阪。
醤油屋の手代・徳兵衛は、遊女・お初と深く愛し合っていました。

しかし、徳兵衛は叔父から望まぬ結婚を強要され、さらに親友・九平次に金を騙し取られ、衆人環視の中で無残に辱められてしまいます。

正直に生きようとした男が、悪意によって追い詰められていく。そしてお初もまた、そんな徳兵衛と共に死ぬ決意を固めるのです…。

増村保造監督の映画には、いつも“直情型”の人間が登場します。損得では動かない、空気も読まない。ただ、自分の感情だけを信じて突き進んでいく。その危うさが、増村映画の凄みなんですよね。

『曽根崎心中』のお初も、まさにそういう女です。

梶芽衣子が、本当に凄まじい。死を恐れていない。むしろ、自ら死へ向かって歩いていく。その眼差しには、一切の迷いがありません。

愛のために死ぬというより、死によって愛を完成させようとしている。そこが恐ろしいほど美しいのです。

これまで『女囚さそり』や『修羅雪姫』で、恨みや怒りを宿した女を演じてきた梶芽衣子ですが、本作では、その情念がさらに純化されている。とりわけ終盤、曾根崎の森へ向かう姿は圧巻です。

白装束に黒い着物。
赤い結い紐。
闇の中で燃えるような眼。
まるで、この世の女ではない。

私はあの姿を観るたび、“愛に取り憑かれた亡霊”のようだと思ってしまいます。

一方、徳兵衛を演じる宇崎竜童も実に面白い。決して器用な演技ではありません。
むしろ、どこかたどたどしく、弱々しい。

けれど、その不器用さこそが、この映画には必要だったのだと思います。もし徳兵衛まで激情型だったら、お初の情念はここまで際立たなかったでしょう。

宇崎竜童の“受け”の芝居があるからこそ、
梶芽衣子の激しさが、刃物のように光るのです。

特に脇を固める三人の存在も忘れがたいものがあります。

橋本功が演じる油屋九平次は、人の誠実さを踏みにじり、世間の前で徳兵衛を辱める、その卑劣さが実に生々しい。

だからこそ、徳兵衛とお初が追い詰められていく理不尽さが、観ているこちらの胸にも鋭く刺さってくるのです。

井川比佐志の平野屋久右衛門もまた、時代の圧力そのもののような存在です。家、商売、体面を守るために個人の心を押し潰していく大人。その冷たさが、徳兵衛の逃げ場のなさを際立たせています。

そして左幸子のお才も忘れがたい存在です。お才は徳兵衛の継母ですが、単なる“悪い母”として描かれているわけではありません。

久右衛門は、自分の妻の姪・おはると徳兵衛を一緒にさせようと考え、お才に大金を渡します。しかし、その縁談を拒み、金を返して欲しいと頼む徳兵衛に、お才は激しく怒るのです。

「これまで誰に育ててもらったと思っているのか」

その言葉には、金への執着だけではない、長年抱えてきた生活の苦しさや、母としての鬱屈した感情まで滲んでいる。

左幸子が凄いのは、その“情”と“業”が入り混じった女を、実に泥臭く演じていることです。

お才は、お初のように愛に殉じる女ではない。綺麗ごとでは生きてこられなかった女です。だから最初は、受け取った金を返そうとしない。

けれど、必死に頼み込む徳兵衛の姿を前に、最後には金を返し、代わりに親子の縁を切ってしまう。ここがあまりにも辛い。

左幸子は、その複雑な母親像を、少しも綺麗ごとにせず演じ切っている。だからこの映画の人間たちは、誰も単純な善人にも悪人にも見えないのです。

そして、この映画に独特の熱を与えているのが音楽でした。

浄瑠璃ではない。ロックなんです。最初は驚きました。けれど観ているうちに気づくのです。この物語そのものが、もともとロックなのだと。

このロックの響きには、主演の宇崎竜童自身がロックミュージシャンであることも大きく関わっているのでしょう。だから音楽が、単なる時代劇への異物として鳴っているのではない。

徳兵衛という男の弱さや焦燥、そしてお初と共に破滅へ向かう熱を、現代の鼓動として響かせている。近松の世界に、昭和のロックの熱が混ざり込んでいく。その異様な混ざり方こそ、この映画の忘れがたい魅力なのです。

理不尽な社会への怒りも、愛のためにすべてを投げ出そうとする激しさも、結局、人間は昔から何ひとつ変わっていないのかもしれません。

だからこの『曽根崎心中』は、古典劇でありながら、妙に生々しい。

増村保造は、近松の世界を“昔の悲恋物語”としてではなく、今もどこかで脈打っている感情として描こうとしていたように思えるのです。

この映画の二人は、死によって結ばれたというより、生きる場所を失ってしまったのかもしれません。

だからこそ、曾根崎の森へ向かう二人の姿は、哀しいのに、どこか凄絶な美しさを放っている。

愛とは、人を救うものなのか。
それとも、人を滅ぼすものなのか。

『曽根崎心中』を観るたび、私は今も、その答えを探し続けてしまうのです。

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詩音悠(しおね ゆう) よろしければ応援お願いします!

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