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魂の奥で結ばれた絆 フレッド・ジンネマン監督『ジュリア』

高校生の頃に観て、強く心を揺さぶられた映画があります。

タイトルは『ジュリア』(1977年)です。当時の私には、歴史や政治の背景を十分理解できていたとは言えないかもしれません。それでも、激動の時代を生きた二人の女性の崇高な絆の物語に、深く胸を打たれたことだけははっきり覚えています。

《スタッフ》
◎監督:フレッド・ジンネマン
◎脚本:アルヴィン・サージェント
◎原作:リリアン・ヘルマン
◎音楽:ジョルジュ・ドルリュー
◎撮影:ダグラス・スローカム
《キャスト》
◎リリアン・ヘルマン:ジェーン・フォンダ
◎ジュリア:ヴァネッサ・レッドグレイヴ
◎ダシール・ハメット:ジェイソン・ロバーズ
◎ヨハン:マクシミリアン・シェル

物語は、劇作家リリアン・ヘルマンが恋人である作家ダシール・ハメットの海辺の家で戯曲の執筆に行き詰まるところから始まります。

筆が進まず苛立つリリアンに、ハメットは気分転換にヨーロッパへ行くことを勧めます。その旅の中で、リリアンは幼なじみの親友ジュリアとの思い出を回想し始めるのです。

裕福な家庭に生まれたジュリアは、美しく聡明で強い正義感を持つ女性でした。恵まれた生活を送りながらも社会の不平等に疑問を抱き、弱い立場の人々に深い共感を示す。その姿は、リリアンにとって憧れにも似た存在でした。

やがて二人はそれぞれの道を歩みます。リリアンは作家を志し、ジュリアは医学を学ぶためオックスフォードへ進み、さらにフロイトのもとで学ぶためウィーンへ渡ります。しかし1930年代、ヨーロッパにはナチズムとファシズムの影が広がり、ジュリアは反ナチス運動の地下活動に身を投じていくのです。

やがて再会したジュリアは、ナチスの弾圧によって片足を失いながらも地下活動を続けていました。リリアンは彼女の頼みを受け、政治活動資金をベルリンへ運ぶ危険な旅を引き受けます。

そしてベルリンのカフェで、二人は再び向かい合うのです。そこには劇的な演出はありません。ただ短い会話と、互いを見つめる静かな時間があるだけです。しかしその沈黙の中に、二人が歩んできた人生の重みと、時代の影が確かに流れています。

ジュリアはすでに、普通の人生には戻れない場所に立っていました。ナチスに抵抗する地下運動の中で、彼女はすべてを失う覚悟をしていたのです。

その後ジュリアはナチスによって殺されてしまいます。リリアンは彼女の娘の行方を探しますが、結局その存在を確かめることはできませんでした。

やがてリリアンはこう言われます。「ジュリア?そんな人は知らない。」まるで彼女の存在そのものが歴史の闇の中に消えてしまったかのように…。

この映画をめぐっては、長いあいだ議論が続いています。ジュリアという人物は本当に実在したのか。ある研究者は、別の実在の反ナチ運動家の人生がモデルではないかとも指摘しています。しかし真実は今もはっきりしていません。

リリアン・ヘルマンの回想録『ペンティメント』のタイトルは、古い絵画の上に塗られた絵の具が時間の経過とともに透け、最初に描かれた線が浮かび上がる現象を意味する言葉です。人生もまた同じように、新しい選択を重ねても過去の思いや感情は消えない。時間が経つと、再び静かに姿を現すという意味が込められています。

ジュリアという女性は、ヘルマンの人生のキャンバスに浮かび上がった一本の線だったのかもしれません。

それが実在の人物だったのか、それとも記憶の中で形を変えた存在だったのか。その曖昧さを抱えたまま、『ジュリア』という映画はひとつの友情の神話として静かに語られていきます。

しかしこの映画が私の心を打つ理由は、史実の真偽とは別のところにある気がします。リリアンは作家として生きる人間でした。言葉で世界を見つめ、記録する人です。一方ジュリアは、自ら歴史の中へ踏み込み、理想のために行動する人間でした。

もしかするとリリアンにとってジュリアは、友情以上の存在だったのかもしれません。自分にはできないことをしている人への憧憬。その思いが、彼女の中で特別な形の愛へと変わっていったのではないでしょうか。

しかし同時に、この物語にはもう一つの影も感じられます。地下運動という世界は、理想だけで成り立つものではありません。資金や情報、さまざまな思惑が交錯する現実の世界でもあります。劇中でハメットが「結局は金が目的なんだ」と語る場面がありますが、その言葉はどこか冷ややかな現実を示しているようにも聞こえます。

裕福な家庭に生まれ、理想に燃えて地下運動に身を投じたジュリアは、もしかするとその純粋さゆえに組織に利用されていた可能性もあるのではないか。そんな複雑な想像も、ふと頭をよぎるのです。

映画の中で印象的な場面の一つに、リリアンがダシール・ハメットの弟を殴りつけるシーンがあります。

彼は兄のおかげで豊かな暮らしをしていながら、どこか退廃的で無責任な人物として描かれています。その男が軽い調子で、リリアンに向かって「ジュリアとは同性愛の関係だったのではないか」と言うのです。

その瞬間、リリアンは思わず彼を殴りつけます。この場面は、単に噂を否定する怒りというよりも二人の関係を安易な言葉で説明されることへの拒絶だったように思えます。

リリアンにとってジュリアは、ただの友人という言葉では言い尽くせない存在でした。恋人という関係とも違う、しかし人生のどこか深い場所で結びついている特別な存在だったのではないでしょうか。

自分にはできないことをしている人への憧憬。理想のために生きる人への尊敬。そうした感情が重なり合い、ジュリアという存在はリリアンの中で特別な意味を持つようになっていたのかもしれません。だからこそ、その関係を下世話な噂話のように語られることは、リリアンにとって耐えがたいことだったのでしょう。

あの怒りは、友情や恋愛といった単純な言葉では説明できない二人の絆を守ろうとする、本能的な反発だったように感じられるのです。

そして映画のラスト。ジュリアの存在を証明するものは何も残っていません。遺体も消えてしまいます。それでも彼女は、リリアンの記憶の中で生き続けています。

ジュリアは帰ってこない。娘の行方も分からない。ただリリアンの心の中には、理想のために生きた一人の女性の姿が残り続けているのです。

それは救いというより、どこか静かな諦めに近いものかもしれません。しかしその諦めの中にこそ、二人の友情の重さがあるように思えるのです。

歴史の中から消えたかもしれない一人の女性。しかし誰かの記憶の中に生き続けるかぎり、その人生は完全には失われないのかもしれません。

何度観ても胸を打たれる映画があります。私にとって『ジュリア』は、まさにそういう作品なのです。

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詩音悠(しおね ゆう) よろしければ応援お願いします!

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