新しい仲間との会話から気づけたこと
今日は新たな仲間とのオンラインでお茶会だった。
そこで出たキーワードからの、自分自身の気づきをメモとして残しておこうと思う。
皆はじめましての方々とのミートアップ。LITAさんのリーディングが好きな人々の集まり。
https://note.com/litanikki/membership
だから、あたたかい人ばかりだろうという安心感があり、リラックスして参加できた。
こういう会は、ついついあれこれ気をまわして、終わるころにはぐったり疲れてしまいがちなのだけれど、今日は真逆だった。身体の中にたまっていた澱が溶けたような、濁りが澄んだような心地がした。
ふんどし回という俗称がついたその時間。
そのふんどしの話題の時に、頭に浮かんだ映像のままをLITAさんが話したので、あらら?同じ映像をLITAさんも見ているの!?となった。これが今日一番の収穫のひとつだった。
最近、オーラやチャクラの色が見えるという方に、「直感を信じて。あとはそれだけ」と言ってもらったり、アカシャを読めるという人から、覚醒までの過渡期にあるようなことを言っていただいたりしていた。でも私は、そこに対してどこかで「本当に?」と、若干理性のブレーキをかけていた。
けれど今日は、そのブレーキを外さざるを得ないような体験をさせられているのね、と、思わず天井を見上げた。
あと、LITAさんからの「境界」についてのアドバイス。
これは本当に、今の自分にとってとても重要だと思っていたことだった。
他者との境界をどう持つか。そこはまさに自分の課題だと感じていたので、その話をもらえたことは、改めて、うまくコントロールする術を身につけなければならないのだなと確認するような時間でもあった。現時点の課題として、しっかりリストアップしておこうと思う。
それから、「やりたいこと」について。
今はたぶん、自分の人生の中でいちばん平和で、穏やかで、安定していて、幸せな時期だと思う。
だからこそ、一体自分は何がやりたいのだろうと、ずっと考えていた。
でも話をする中で、やっぱり私は、何か小さな飲食店のような場を持って、人を迎えて、そこで望む人にホロスコープを見てあげたり、リーディングをしたり、人々が少し心が穏やかに、楽になるような空間を作りたいのだな、ということに思い至った。
たぶん私は、YouTubeやSNSなどで広く多くの人に言葉を届けたいのではなくて、目の前の一人に向き合っていきたいのだと思う。
そうであるなら、やはり他者との境界をしっかり持つことは必須なのだな、と改めて思った。
そして、ここからはもう少しベビーな話。
私は子供の頃。母親に、「お前ほど冷たい人間はいない」と何度か言われてきた。
そのせいで、自分はそんなに冷たいのかなと、自分自身を疑う気持ちをぬぐい切れずにいた。
冷たくないように、他者に優しくあらねばと意識するあまり、加減がわからなくなることにも、密かに悩んでいた。
祖父母からの愛に飢えていたから、母がそうなったのであろうことはわかっていた。
けれど、私に向かって「お前は冷たい」と言うその言葉を、私はずっと、自分の中にもきっと何らかの冷たさがあるに違いない、という意味で受け取っていた。
でも今日、LITAさんの言葉から、別の見方に辿り着くことができた。
「冷たい」という言葉は、「私の欲しい愛をお前は与えてくれない」という意味で、
それは、もっともっと、すべての愛を私に向けてくれ、という要求だったのかもしれないということ。いや、要求というより、渇望だったのだろう。
そして、それは私がどれだけ返しても、どんなふうに表現しても、満たされることのないものだったのだろうと思い至った。そのことに初めて気づくことができた。
私の中に冷たさのせいではなかったのだ、そう思えた。
子どもの頃から、ずっとずっと考え続けてきたこと。
心の奥底で凍ったまま、決して溶けることなく埋葬されていたつらい思いが、
ようやく溶けて、水蒸気になって浄化されたような気がした。
とうの昔に許せないみたいな思いは消化していたし、親に対して今は何とも思ってはいない。
それでも、「冷たい」という言葉だけが、しこりのように残り続けていた。
そのしこりが今日、粉砕された。
解放された。
物心ついてから、たぶん一番辛かったこと。
50年ほど凍っていたしこりが、ようやくほどけた気がする。
ずっと自分の冷たさだと思っていたものは、そうではなかったのかもしれない。
そう思えたことが、今日のいちばん大きな解放だった。
