余白よろしく
400字詰めの原稿用紙に、400文字書かれるとしんどい。
その言葉を用いた意味や生まれた過程、思いや背景。そういった空欄を全て埋められると、息が詰まる。
全てを隠してほしいのではなく、多少の余白を残してほしい。私の小さな解釈が滑り込める程の、ちょっとした余白で良い。隅っこからそっと覗いているような程度で良い。
私は考えたい。それについて考えることで、私とそれはお互いに愛を深める。頭が熱くなるような、鼻血が出そうになるような、そんな、あの頃の恋に似た余白が欲しい。
きっと400文字書かれていても、それについて深く掘り下げることはできるのだろうが、それとは少し違う。余白を考える為に、物理的な余白も欲しいのだ。
行間を読む。
というのに似ている気はする。
でもそれとも少し違う。
あぁ、なんだか面倒な女のようになってしまった。
それもこれも
これのせい。
本多哲郎さんの生み出す音楽には、心地の良いメロディと、耳に残っておきながら決して煩わしくない言葉、そこに丁度良い余白が挟まっている。
たまに余白すぎて、考える余地がありすぎて、脳を掻きむしりたくなる時もあるけれど。
なんでこの歌い方なの?
なんでこの声色なの?
なんでこの言葉をここに置いたの?
なんでこの音とこの音を並べたの?重ねたの?
これは私の知ってるあの音楽に似てる?
これはあの人のことを歌ってるように聞こえる?
そんな、与えられた物に対して私の考えを添える余白もあれば、
この文章とこの文章の間には、少し時間が経過している気がするけれど、その時間の経過は何色だろう。なんの匂いだろう。どんな気温だろう。
これとこれの間には、こんな言葉が入るのではなかろうか。
残った余韻に含まれる感情はこれだろうか。
と、それこそ "行間を読む" ような余白もある。
そこにはきっと本多哲郎さんとしての答えがあるのだろうが、ずぶの素人の私にはおそらく聞いたところで半分も理解できないだろう。
「受け取ってくれる方の解釈で良い」
いつだったか、ご本人がそんなような事をどこかの何かで言ってくれていた気がするけれど、それは自分勝手に解釈したいという思想を持つ私にとってはとても優しい思考。
たまに「これはこういう経緯で作ったよ」と解説してくださる事もあるけれど、そこには私の解釈が入り込めるのとは別次元の世界が広がっており、世界を広げるという意味では良いことだなぁと思った。しれっと逃げてきた "本物の解釈" を知ることも悪くない。
が、やっぱり私は受け取った歌を自分の世界に置きたいかな。と。
別の世界はあって良いんだけど、本多哲郎さんから出てきた言葉や音楽がふわふわ漂い、私の中に入ってくる。入ってきたそれはもう私のものなので、誰のものでもない。誰にも触れさせたくない。私の世界に置いておきたい。添削させない。
そんな、わがまま心を再確認させてくれたのも、このアルバムのせい。私は自分勝手なのだ。末っ子だから。
1曲1枚、ポストカード(風のカード)に記された歌詞。そこに添えられたその曲のイメージを持つ写真。
百聞は一見にしかずという言葉があるように、写真を見たらそれがいわゆる "答え" になってしまうのでは…?とビビって、CDが届いてからしばらくはその歌詞カードを見ることができなかった。
何度も聴き、その数えきれない余白に埋もれ、鼻血が出そうなほど頭が熱くなり、そろそろ見てみようかと手に取ってみると、その余白がふわっと軽く、あたたかくなった。その熱で余白の輪郭がじわっと滲むようで。ふむ、余白は埋まらないのか。なるほど。そういうことなのね。いけずやね。
埋まる余白も無くはないけれど、私にとっては余白ではなかった部分が埋まるので、それはもう "解答例" みたいなものだろう。
さすがです。ありがとう。
百聞は一見にしかず。
もちろんそれはそうだと思うが、このアルバムを聴いている間、目から入る情報よりも、耳で聴く情報の方を信じてみたいと思わせてくる。罪な男よ。くぅぅ。
収録曲に1曲ずつ冷静に感想を添えていきたいというのに、結局ふんわりざっくり私事を語るだけ。申し訳ない。
まぁ、それも余白ということにしよう。
自分、不器用ですから。
とにかくこのアルバムは、柔らかくて刺激的。
今まで思い出さなかった事を思い出したりする。考えた事のなかった世界を考えたりする。いつもと違う言葉を紡ぐ。普段手に取らない色を塗る。
誰もが、大きくなかったとしても、自分の生活のちょっとしたスパイスになってくれるような曲を見つけられる気がする。
おぼろ。よろしく。
埋めたいのか埋めたくないのかわからない余白。
私の余白。よろしく。
春の唄人羽のツアー。子の体調不良により直前で行けなくなってしまい、申し訳なかったし悔しかった。ソロツアー。行きたい。行けないと拗ねる。

