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人って変われる〜気を使いすぎて消耗していた私の話

人って変われると思うんです。
それは、今まで受講してくださった皆さんをみていてもそうだし、私自身もそう。


まずは前置き

今日、朝からお掃除をしていて、ふと若い時の自分を思い出しました。
20代前半で、結婚し、それまで住んでいたロンドンから東京へ引越し、そしてそのまま義両親と義妹と同居を始めました。

私の実家は、子供の頃から、いつでも整理整頓をしなさいと教えられ、鞄を数日同じところに置いておくだけで、「この鞄、いつまで、ここで何してんの?」と片付けることを促される感じでした。いつ誰がきてもいいように、母は埃ひとつないような(実際にはありましたよ。笑)綺麗好きで、ご近所の方がいらっしゃっても、「ここは、料亭か?」と笑っているような環境でした。
これは、父の実家がそばにあって、母が留守の間でも、お構いなしに祖母や叔母がうちの家に入ってくることがあった(昔の田舎の話です)ので、母もその時に小言を言われないようにしていたのもあったと思います。だから、母も、どんどん綺麗にしなければという思いがあった。小言に負けたくなかったんだと思います。

おっとっと。話を戻します。
そして、私の嫁ぎ先は、どちらかというと、使いたいものが手を伸ばしたらそこにある状態を好む環境。散らかっているのがデフォルトでした。
義母は「綺麗だと落ち着かないよね。」が口癖の人だったので、義実家のみんなの落ち着く環境、それは片付いていない部屋。

やだ、両極端!

思い込みを作るまで

さて、ここからが今日の本題です。

若くして結婚し、環境がガラッと変わったことで、それまで自由気ままに暮らしていた私は、自分の性格の「気を使う」がマックスに刺激され、もうわけがわからない方向の気の使い方へと進んでしまったんです。

夜寝る前に、子供が散らかしたおもちゃを全部片付けて寝るというのが習慣だった私は、「綺麗好きね」義両親に笑われたことがありました。

でも、息子はアトピーで喘息あり。埃をどうにかしたい。
その頃、義妹はまだ学生、義両親は現役で働いている。
ということで、昼間は私とまだ赤ちゃんだった息子だけ。

みんなが留守の間に、人知れず掃除をします。そして、またみんなが散らかしていた状態に戻します。読みかけの本、出しっぱなしの耳かき棒、積み重なっている新聞。テーブルをふき、乾かし、一冊一冊の本の埃を払い、手をつける前の状態と同じように乱雑に重ねます。

掃除しているのを見られてしまったら、「綺麗好きね〜」と笑われてしまう。「綺麗なお家に住んでる人もいるけど、片付けすぎると人っけがないようで落ち着かないのよね〜」と言われてしまう。だから、誰もいない時に、こっそりわからないように。

そして、掃除ができていなことを「嫌だ」「気持ちが悪い」と思うようになりました。

思い込みと、気使いと

さてさて、同居をする前の私は、実家こそ綺麗ではあったけど、そんなに片付けが上手だったわけでもないし、20代前半の一般的な清潔感。お部屋に脱いだ洋服がそのままのこともあるし、「週末一気に片付けよう」くらいの感覚だったのが、息子のアレルギーも相まって、「掃除されていない」ことへの嫌悪感が立派に出来上がってしまいました。

でも、人それぞれという倫理観も大切にしたい。そして、人に嫌な思いをさせたくない。

心があっちへこっちへ、自分が「どうあることが心地よいのか」という、今となっては一番大切にしていることなんて、感じる隙間もありませんでした。

「綺麗でなければいけない」と、「人に嫌な思いをさせたくない」を「人それぞれ」といういい感じの言葉でバランスをとっている状態。「正しさ」に振り回されて、自分の心は置いてけぼり。そして、それを愚痴るということさえ、「正しさ」という、形のないものに阻まれ、心の中はもうパンパン。

誰もいない時でないと、掃除してはいけないという思い込み。
「私が掃除をしているのをみたら、義両親は居心地悪く思ってしまうかも知らない」などという、どこから来たのかさえわからないような思い込みまでありました。

気使いの悪循環

今の私がその時の私に声をかけるなら、「息子のアレルギーが気になるから、掃除したいんです」と言ってもいいんだよという言葉だったり、「義両親がどう思うかは聞いてみないとわからないよ」という言葉だったりだと思うんです。

これって、今、私が受講生の方のお悩みを聞いている時に出る言葉に似ています。

  • 義母は、自分が片付けられないことに劣等感を持っていたかも知れない。

  • 誰かが掃除をしていることなんて、気が付かないかも知れない。

  • 誰かの行動に、どんな風に思うかなんて、聞いてみないとわからない。

マインドフルネスを学ぶと、とってもよくわかるのですが、自分以外の人のことなんて、聞いてみないとわからないんです。なんなら、本人さえ、自分の気持ちがわからない時だってある。それが、どうしてか、「きっとそう思うだろう」という思考に繋がってしまうのだから、面白いものです。

誰かの思いや、反応を、推し量ればはかるほど、どんどん思考が重なり、今ここの相手さえ置き去りにしてしまいます。それなのに、推しはかっている当の本人には、まるで事実のことのように思えてしまい、益々気を使ったり、推しはかるようになってしまうんです。

まさに「悪循環」ですね。

私がどう変わったか

自分らしくいるとはどういうことか。
自分が自分でいることを許すとはどういうことか。

それらに気づくきっかけは、たくさんの体験の積み重ねだったと思います。その中でも大きかったのは、やっぱり「心からホッとしてしまった」体験です。ホッとしたのではなく、ホッとしてしまったんです。

エサレンのトレーニングの最後の日、あるワークでホッとしてしまったんです。もうこれは、自分で頑張らないでいいんだ、ホッとしていいんだという思いが、体から湧き上がったことがあったんです。思考なんて介入できない、圧倒的な体験。

その体験が、それまでヨガで学んできたこと、テーラワーダのお寺で体験してきたこと、それらが全部手放されてしまい、そして手放したからこそ、統合されるという体験となりました。

言葉にすると、なんのことやら…なんですが、圧倒的な体験は、言葉では言い表せないものだと思うんです。

そして、そんな体験をしてもなお、一朝一夕で人の癖は変わりません。
その体験を目印に、また一つづつ体験をさらに重ねていくことで、ありのままでいいということを信じ、それでいられるようになってくるのだと思うのです。


今の私

今の私は、「これやったら気になる?」ということは、聞きます。推しはかるのではなく、自分がわからない、感じられないことは、そのまま聞きます(笑)。

シンプルだけど、聞いてみないとわからないんだものという思いがあるので、素直に聞きます。
そして、自分が大切にしたい思いややりたいことがあったら、それを相手に伝えます。

なるべく拗らせる前がいい。

思いって募らせてしまうと、拗れてしまって、どう伝えたらいいのかわからなくなったり、「どうやったら相手に負担なく伝わるかな…」などと余計な思考が混じって、伝わりづらくなってしまうから、なるべく自分の思いが募ってしまう前の、シンプルな状態の間に伝えるようにしています。

そして、そういった経験をなん度も繰り返す間に、伝えても大丈夫という信頼が育まれています。
相手を信頼しているかどうか、というより、「自分を伝えていい」という伝えるということへの信頼です。

そうすることで、無駄なエネルギーの消費になるような「気使い」がへり、その分相手への「リスペクト」を大切にするようになりました。

相手はリスペクト(尊重)されることで、「自分を大切にしてもらっている」という感覚が自然と伝わり、コミュニケーションが随分と円滑です。

自分の中の思い込みに気づいていくことから、人って大きく変わると思うのです。私は今、したい時にしたいように掃除してます。笑

なんなら、雑巾掛けが気分転換になるくらいです。掃除一つに心を消耗していた若い頃の私よ、よく頑張ったね。えらいえらい。
そして、こんなだと、心がすり減っちゃうよと、大きく舵を切った私、ありがとう。

誰だって、変われる。どんな風にだって変われる。
そう思うのです。

あれれれ。今日はとっても長くなってしまいました。久しぶりに自分語りなどしてしまいました。
最後までお読みいただきありがとうございました。


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