誰もが誰もを助けない世界はどうなっていくのか
今回は少し、僕の考えをお話しさせてください。
テーマは「たすけあい」についてです。
ですが、その言葉の響きがあまりにもきれいすぎるとき、僕はときどき、不安になります。
■ 誰もが救われる社会って、本当にあるのか?
「たすけあいにあふれる社会をつくりましょう」
近年、そうした声を多く目にするようになりました。
困っている人に手を差し伸べること、誰かのために時間を使うこと。
どれも素晴らしい行いで、理想とされる在り方です。
ただ僕は、それが本当にすべての人に等しく開かれているのか、
時折、首をかしげるのです。
なぜなら、「助けるに値する人」と「そうでない人」が、知らぬ間に線引きされてはいないか……。
そう感じてしまう場面があるからです。
■ 数字で見える「理想」と「現実」のずれ
2022年の調査によれば、85.8%の人が「たすけあいは必要だ」と答えています。
また、8割以上の人が「誰かが困っていたら助けたい」と感じているようです。
こうした意識は、とても尊いものだと思います。
ですが実際に「見知らぬ人を助けた経験がある」と答えた人は、18.1%。
「自分が困ったときに助けを求めた」と言える人は、35.6%でした。
つまり、助けたいと願う気持ちと、実際の行動には大きな隔たりがあるのです。
そしてその隔たりには、無視できない理由が潜んでいます。
■ なぜ人は、「助けたいのに助けられない」のか
● 余裕がないという現実
誰かを助けるには、心のゆとりが必要です。
それは時間であれ、経済的なことであれ、精神的なものであれ。
そして現代の多くの人は、他者に心を向ける余裕を持てないほど、疲弊しているように見えます。
助けない理由として最も多かったのは、「自分に余裕がない」(46.1%)という回答でした。
それは決して冷たさの証ではなく、生きるための防衛でもあるのです。
● 「声をかける」ことは、案外こわい
助けたいと思っても、「迷惑だと思われたら」「おかしな人に思われたら」と考えてしまう。
そうした躊躇がある人も、少なくないはずです。
とくに日本では、「相手に配慮しすぎる」文化が、人と人との間に静かな壁を作ってしまうことがあります。
それが“遠慮”という美徳とされることもありますが、
僕はそこに、“沈黙の諦め”が潜んでいるように思えるのです。
● 「社会」と「世間」の間にある溝
家族や友人、いわば「顔の見える関係」には親切でありたいと思う人は多いでしょう。
しかし、「まったく関係のない他人」に対しては、どうでしょうか?
日本ではしばしば、「世間体」や「空気を読む」といった力学が、人々のふるまいを制御します。
その結果、“助けること”が社会的責任や倫理としての行為ではなく、“人間関係の延長”としてのみ成立するように感じます。
●「助け方がわからない」もまた障壁になる
「助けたくても、どうすればいいかわからない」
この気持ちにも、僕はとても共感します。
見ず知らずの誰かに、どのように声をかければいいのか。
関わったあとに責任を問われたら?
その人の問題を引き受けきれなかったら?
そうした不安や緊張が、人を“傍観者”に変えてしまうのです。
■ 「たすけあい」は、“選ばれた人”のものになっていないか
ここまでお話ししたように、「助けたい」と思っていても、
実際に助けるのはとても難しい。
それでも、「もっと助け合おう」と言う声は、なお強く響き続けます。
ただ、僕が気になるのは、
その呼びかけが“ある種の人だけ”に向いてしまっているのではないか、ということです。
感謝をすぐに伝えられる人
迷惑をかけないように気をつけられる人
明るく前向きで、周囲に安心感を与える人
こうした「助けられやすい人」だけが支援の対象にされて、
それ以外の人、
『不器用で、無愛想で、疲れ切って、何も言えない人たち』が、
静かに見捨てられてはいないでしょうか。
■ 「助けて」と言えない人が、確かにいる
僕は、それを声に出しておきたいのです。
・声を出せない人がいます
・過去に断られた経験から、助けを求めることが怖い人がいます
・感謝の言葉を口に出せないまま、心の中でずっと「ありがとう」と唱えている人がいます
そうした人たちは、「たすけあい」の美しい輪の外に置かれてしまっている。
でも、いちばん助けを必要としているのは、そういう人たちかもしれないのです。
一歩踏み込み、もう少し根の深い問題、
“誰が助けられるべき存在とされているのか”
について、お話ししてみようと思います。
■ 「助けられる側に、条件があるとしたら?」
たすけあいに関する論調の中には、たとえばこんな言葉があります。
感謝を伝えられる人は、また助けてもらえる
ポジティブな人は信頼されやすい
先に与える人が、好意を返してもらえる
もちろん、どれも一理あると思います。
でも同時に、僕は思ってしまうのです。
感謝を伝える余裕もない人は?
弱音しか出てこない人は?
同じところで、何度もつまずく人は?
彼らは、助けに値しないのでしょうか。
助けを「受け取る資格」が、誰かに認められた振る舞いによってしか得られないとしたら、
それはもう、“無言の線引き”ではないでしょうか。
■ 「声を出せない人」も、本当はここにいる
助けられるには、
分かりやすく苦しみを表現し、
適切に感謝を伝え、
周囲の共感を得ることが求められる――
そんな空気がもし社会に蔓延してしまったら、
「ヘルプを出すのが苦手な人間」は、どうすればよいのでしょう。
声が出せなければ、いないものとされてしまう。
気づかれなければ、救われることもない。
そんな社会は、たすけあいの仮面をかぶった、切り捨て合いの仕組みです。
■ 無条件に拾える土壌が、私たちには必要だ
本当の「たすけあい」は、選ばない。
声を出せなくても、「気づこうとする」視線
失礼な態度の中に、苦しさを見抜こうとする想像力
無表情な沈黙に、諦めではなく、助けのサインを見出す感受性
そういうまなざしは、
「優しさ」だけで成り立っているのではありません。
もっと、忍耐と、共にあるという覚悟のようなものだと、僕は思っています。
■ たすけあいは、「制度」として仕組まれなければならない
支え合いが、いつまでも“個人の美徳”に任されている限り、
誰かは必ず、こぼれ落ちます。
本当に必要なのは、仕組みです。
文化として、制度として、意志として、
「声が出せない人でも拾い上げられる構造」を、つくっていくこと。
たとえば、
匿名でつながれる支援窓口
感謝や礼儀を前提としない援助の仕組み
返礼を求めない一時避難の場
「助けること」が安全であり、正しく報われるという社会的認識
こうした土壌があって、はじめて、
誰もが「助けて」と言えるようになるのではないでしょうか。
■ 与えることで、人は人でいられる
福岡伸一教授の研究によれば、
人の脳には「他者を助けたい」と願う回路が、そもそも備わっているそうです。
つまり、利他は“善行”ではなく、“生きものとしての自然”なのです。
そうだとしたら、
「助けたくなる相手」だけを選んで与えるのではなく、もっと広く、もっと無造作に、与えることそのものが、世界とのつながりになっていくのではないでしょうか。
■本当に助けが必要な人は、“助けたくなる見た目”なんてしていない
もうひとつだけ、触れておきたいことがあります。
それは、たまに耳にするこんな言葉についてです。
「本当に困ってる人って、助けたくなる雰囲気をしてないよね」
「素直じゃないし、可愛げもないし、なんか感じ悪いし…」
時に、それは“人の本質を突いた正直な観察”として扱われることもあるようです。
でも、僕はその言葉を聞くたびに、胸のどこかが冷たくなるのを感じます。
あえて申し上げます。
それはつまり……、
「助けたくなる人間」しか、助けないという宣言に他なりません。
■ 苦しんでいる人は、いつも“わかりやすく”などいてくれない
人が本当に苦しんでいるとき、
必ずしも「助けて」と分かりやすく言えるとは限りません。
笑うことができなくなって
誰かの言葉に素直に頷けなくなって
時に、他人を突き放すような態度をとってしまって
そういう姿は、確かに「感じが悪く」映るかもしれません。
しかしそれは、「性格が悪い」のではなく、必死に耐えている証拠でもあるのです。
限界まで追い詰められた人が、
なおも誰かに愛される態度を保ち続けられると、
本気で思われますか?
■ “かわいげ”や“素直さ”を、助けの条件にしてはいけない
たしかに、健気な人、明るい人、礼儀正しい人を助けたくなる気持ちは、よくわかります。
涙をこらえながら「助けて」と言える人
つらくても「大丈夫です」と微笑む人
感謝をはっきりと伝えられる人
……でも、そうでない人はどうなるのでしょうか?
苛立っていても
無口でも
怒っていても
感情がうまく出せなくても
その人が「助けを必要としている」ことは、変わりません。
私たちは、その不器用さの中にある苦しみにも、目を向けるべきです。
■ 「助けたくなるかどうか」で選ばないでほしい
「助けたくなる見た目」という言葉は、
助けるかどうかを、助ける側の感情に委ねてしまう危うさを孕んでいます。
たしかに、感情は自然なものです。
でも、支援の判断を感情に任せてしまえば、
“共感できる人だけが助けられ、
共感されにくい人は静かに見捨てられる”
という構造が、あっという間にできてしまう。
そうなれば、「たすけあい」は名ばかりの選別に変わってしまいます。
■ そして、私たち自身もまた、“選ばれる側”になる
人は、いつか必ず弱るときがあります。
体を壊すことも、心を病むこともある。何を言われても返せないほど疲れて、助けてほしいのに、何も伝えられなくなる。
そのときに。
「あの人は助けたくなる雰囲気じゃないから」
そう言われて、すれ違われる未来を、
“仕方のないこと”として受け入れてしまっていいのでしょうか。
■ 本当に必要なのは、“かわいげ”を超えたまなざし
苦しむ人間の姿は、時に不格好です。
面倒にも見えるし、愛想もない。
でも、それでも
いいえ、だからこそ。
そこには、手を伸ばすべき理由があります。
「助けたくなるかどうか」で判断する支援は、
「助けたい人間だけを助ける」支援でしかありません。
それは、選別です。
それは、「助けなかった理由」を、美しく包装するための言葉です。
どうか、それを見逃さないでください。
最後に、僕自身の心からの言葉を、残しておこうと思います。
たとえ、
声が小さくても
不器用でも
感謝が伝えられなくても
苛立ちが態度に出てしまっても
それでも、「助けて」と言える世界であってほしい。
「たすけあい」は、穏やかで愛される人だけの特権ではない。
選ばれた者だけが救われる世界に、僕はいたくないのです。
だから、どうか。
助けられる資格なんて、いらない。
でも、助けてくれ。
そう言えることこそが、
本当の意味での「たすけあい」の始まりなのではないかと、僕は思うのです。
