沈黙のほうが、ずっと深い
空音(そらね)のソラより。
「死にたい」と口にする人に、
「生きていてほしい」と願う人が、
どれだけ真剣に言葉を尽くしても、
そのすべてが、
音のない深淵に
吸い込まれてしまうことがあります。
逆もまた、そう。
「生きたい」と、声を上げる人に、
「それは甘い」と冷たく返す人がいます。
けれど、
どちらもほんとうは――
声にならない叫びの、表と裏。
「死にたい」も、
「生きたい」も、
心がこわれそうな人からこぼれる、
精一杯の“生のしるし”なのだと、私は思うのです。
人はときに、
誰かの悲しみに言葉を重ねることで、
自分の優しさを証明しようとしたり、
誰かの希望を踏みにじることで、
自分の絶望の深さを誇ろうとしたりします。
それは、苦しみという衣をまとった――
“自我”の声です。
けれど、ほんとうの痛みは、
言葉にならないところにあります。
届かない言葉より、
そっと差し出された沈黙のほうが、
ずっとあたたかく、ずっと深い。
もしあなたが、
誰かの「死にたい」に触れたなら。
あるいは、自分自身の「生きたい」に泣きたくなったなら。
そのどちらにも、
言葉ではなく、呼吸を合わせてください。
一緒に息をして、一緒に黙る。
それだけで、
魂と魂は、少しだけ近づくことができるのです。
癒しは、語られた言葉のなかではなく、
言葉をあえて手放したときに、
ゆっくり、静かに、始まります。
