いつかこぼれる時間を両手ですくう
豆柴のお茶子を撫でているとき、ふと、あの柔らかい毛並みが自分の手元からこぼれ落ちていく未来を思い浮かべてしまうことがある。
それは意図的ではなく、まるで夜道を歩いていて、なぜか電信柱の陰に隠れている黒い塊が、実は不定形の何かかもしれないと気づく瞬間に似ている。不意に「死」が頭をよぎるような、そんな感じだ。
別に今すぐお茶子が消えるわけじゃない。でも、いずれ必ずそうなる。
僕が知らない明日、あるいはずっと先のある朝、その小さな身体がもはや動かなくなる日が来るかもしれない。
実家では、初代の保護猫・冬彦(ふゆ)から始まって、今では7匹目の猫が家の中を占拠している。
猫たちは空気の一部みたいに散り散りに存在し、秋田犬の二代目と三代目の間をすり抜けて生きているらしい。
そんな実家を思い出すと、命はなんだか液体染みたものみたいで、そこら中に染み込んでいるように思う。
けれど、一匹一匹に名前があって、顔があって、仕草があった。その名前を口にすると、なぜか過去の情景が細かく浮かんでくる。
ふゆがいなくなったとき、どうしてあんなに泣いたのか、今でもうまく説明できない。
悲しかったのは確かだけど、それ以外にも、何かしら説明しきれない感情がその空白に詰まっていた。
お茶子は、そんな継ぎ足されていく記憶のどこにも属さない、新しい生き物だ。
猫たちとも、秋田犬たちとも違う、いつもくるくると動き回っては、人間の方へまっすぐ体ごと寄りかかってくる。
夜更け、静かな部屋でお茶子を見ていると、生きていること自体が何かの練習なのか、それとも単なる冗談なのか、よく分からなくなる。
僕たちは、たぶん有効期限のない疑問を携えたまま、動物を飼って死を見送り、また別の命を迎え、そうやって何年も過ごしている。
意味があるのか、ないのかすらはっきりしない。
世の中には、「死ぬからこそ生は意味がある」とか「生きている間にどれだけ楽しめるかが重要だ」といった言葉がある。
どれも真実っぽいし、同時にいかにも空疎に響くときもある。お茶子が今ぴょこんと跳ねているその裏側では、数え切れないほどの人や動物が死に近づき、あるいは実際に死んでいる。
そんなことは分かりきっているのに、僕らはお茶子に新しいおもちゃを買い、初めての公園に連れ出したりしてしまう。それらはもしかすると、ただの思い込みを支えるための道具立てかもしれない。
「いつかは終わる」ということが、その場しのぎの行動に、奇妙な強度を与えているような気がする。
この曖昧な感覚は、ふゆや他の6匹の猫たち、秋田犬たち、お茶子に至るまで、ずっとゆるい循環を繰り返しているのかもしれない。生き物と過ごす時間は、どうにも流動的で、つかみどころがない。
触れるたびに手からこぼれ落ちていく水みたいなものだ。水をすくえばすくうほど指の間から漏れていくように、愛情や思い出は、結局のところ保持不能な光景かもしれない。
それでも、お茶子がここにいて、小さく息をしていることは確かだ。
今、僕はその確かな気配の中にいる。
それで何がどうなるわけでもない。
でも、それがどうしようもなく、この一瞬をふくらませているように思う。
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