会社を「生命」として考えてみる
木村石鹸的な自律型組織について
最近、生命科学や生物学の考え方を、会社や組織にも当てはめられないだろうか、と考えています。こういう考え方はよくあるもので、あまり安易にメタファーに使うのはかなり危険なことだとも思います。でも、それでも何かヒントはあるように思えるのです。
人体は、ものすごく複雑なシステムです。数え切れないほどの細胞があり、それぞれが異なる役割を担っています。細胞同士は情報をやり取りし、必要に応じて活性化したり、活動を抑えたり、古くなったものを分解したりする。外部から異物が入れば免疫系が反応し、傷ついたところがあれば修復が始まります。
それなのに、全身の細胞へ逐一指示を出している社長のような存在はいません。脳はありますが、脳がすべてを直接管理しているわけではない。細胞は周囲の状況を感知し、受け取った信号を解釈し、それぞれの場所で必要な働きをしています。腸や免疫系、ホルモンなども脳に影響を与えているので、単純な上意下達の仕組みでもありません。
全体としては統合されている。でも、個々の単位にはかなりの自律性がある。これって、自律型組織を考えるうえで、ものすごく示唆的なのではないかと思うのです。
自律型組織は、好き勝手に動く組織ではない
「自律型組織」というと、上司が指示をせず、社員が自由に好きなことをする組織だと思われることがあります。
でも、生物を見れば、それが違うことはすぐに分かります。
細胞は自律的ですが、好き勝手に振る舞っているわけではありません。周囲の細胞から信号を受け取り、自分の役割や置かれた状況に応じて動いています。必要なときには活動し、必要がなくなれば活動を止める。全体との関係のなかで、自分の働きを調整しています。
逆に、周囲からの信号を無視し、自分だけが際限なく増殖しようとすると、それはがん細胞に近づいていきます。
つまり、自律とは「他者や全体から切り離されること」ではありません。
自律とは、全体との関係を理解したうえで、自分の場所から状況を感知し、自分で考え、判断することです。
会社でも同じだと思います。自律型組織に必要なのは、命令をなくすことではありません。現場の一人ひとりが、
「いま何が起きているのか」
「お客さんは何に困っているのか」
「自分たちは何を大切にするのか」
「この状況で、自分は何をすべきなのか」
を考えられることです。
経営者がすべきことも、すべての答えを出すことではないのでしょう。
何を目指すのか。何を大切にするのか。どこまでなら自分で決めてよいのか。困ったときには誰と相談できるのか。
そうした判断の土台と、情報が流れる環境をつくることのほうが重要です。
活性化とは、ずっと頑張らせることではない
生命科学には「細胞の活性化」という言葉があります。
これを会社に置き換えると、社員のモチベーションを高め、常に活発に働いてもらうことのように聞こえます。
でも、生物における活性化は、いつでも最大出力で働くことではありません。必要な刺激を受けた細胞が、必要な場所で、必要な期間だけ働くことです。
免疫細胞が常に全力で活動していたら、身体は持ちません。過剰な免疫反応は、正常な細胞まで傷つけます。活動したあとは反応を鎮め、回復する必要があります。会社も同じです。
いつも高い目標を掲げ、常に新しいことへ挑戦し、全員が高い熱量で走り続ける。それを「活性化した組織」と呼びたくなるのですが、本当にそうでしょうか。
会議も、プロジェクトも、目標も、キャンペーンも増え続ける。みんな忙しそうにはしている。でも、何をやめるかは決まらない。疲れていても、「熱量が足りない」「当事者意識が足りない」と言われる。
これは活性化というより、組織が慢性的な炎症を起こしている状態かもしれません。
良い組織は、いつでも活発な組織ではない。
必要なときに動けること。そして、動く必要がないときには休めること。活動を終えたら、きちんと鎮静化し、回復できること。そのリズムまで含めて、組織の健康なのだと思います。
組織にもオートファジーが必要なのではないか
細胞には、オートファジーという仕組みがあります。細胞内部の古くなったものや壊れたものを分解し、その材料を再利用する仕組みです。単にゴミを捨てるのではなく、分解して、次に使える資源へ戻していく。
会社にも、これと似た働きが必要なのではないでしょうか。会社では、新しいことを始める話は比較的歓迎されます。新商品をつくる。新しい制度を導入する。会議を増やす。プロジェクトを立ち上げる。ルールを追加する。
ところが、やめることは難しい。
一度始めた会議は、目的が曖昧になっても続きます。一度つくった制度は、現実に合わなくなっても残ります。売れなくなった商品や、意味を失った報告書も、「昔からやっているから」という理由で維持されます。
組織には、放っておくといろいろなものが蓄積していきます。そして、蓄積されたものを維持するために、人と時間が使われる。新しいことを始める余白がなくなっていきます。
組織的なオートファジーとは、何でも捨てることではありません。
古い仕事や制度をいったん分解し、そのなかにある知識、経験、人材、関係性を、次の仕事へ戻していくことです。
うまくいかなかった商品にも、技術や知見は残っています。終了した事業にも、お客さんとの関係や、そこで育った人がいます。失敗した取り組みにも、次の判断に使える経験があります。
形を守るのではなく、中にあるものを次へ生かす。そう考えると、「やめること」は失敗ではなく、組織が自分自身を更新するための大切な働きになります。
組織のリソソームはどこにあるのか
オートファジーによって運ばれてきた不要物を、実際に分解する役割を担うのがリソソームです。これを組織に当てはめてみると、興味深い問いが生まれます。
自分たちの会社には、「終わらせる仕組み」があるだろうか。
新しいことを提案する会議はあっても、古い仕事をやめるための会議はあるでしょうか。新規事業の責任者はいても、終了した事業の資源を次へ移す責任者はいるでしょうか。退職や異動、失敗や対立を、誰かを責めるだけで終わらせず、経験として消化する仕組みはあるでしょうか。
始めることだけでなく、終えることにも技術が必要です。
雑に終わらせれば、人が傷ついたり、取引先との関係が壊れたり、知識が失われたりします。だからこそ、不要になったものを安全に分解し、使えるものを循環に戻す機能が必要になる。
木村石鹸のような歴史の長い会社では、続けてきたものを大切にすることと、古くなった形を手放すことの両方が必要です。
伝統とは、昔の形をそのまま保存することではない。
変えてはいけないものと、変えなければならないものを見分けながら、受け継いでいくことではないでしょうか。
心理的安全性は、組織の免疫センサーである
組織における免疫システムとは何か。法務、監査、品質管理、コンプライアンスといった部門が思い浮かびます。もちろん、それらも重要です。でも、それだけではありません。
現場で働く人が感じる「何かおかしい」という小さな違和感。お客さんから寄せられる苦情。製造現場で見つかったわずかな変化。数字にはまだ表れていない兆候。そうしたものも、組織にとっての重要な免疫センサーです。
問題は、センサーが異常を感知しても、それを口にできなければ免疫が働かないということです。
上司に言うと怒られる。面倒な人だと思われる。以前に指摘した人が不利益を受けた。どうせ何も変わらない。
そんな風土があると、異常は感知されていても、組織のなかを情報が流れません。問題が表面化したときには、すでに大きな病変になっていることもあります。
この意味で、心理的安全性は単に「仲良く働ける環境」ではありません。
組織の免疫システムを正常に働かせるための条件です。
ただし、免疫は強ければ強いほどよいわけでもありません。
小さな失敗に過剰反応し、犯人を探し、ルールを増やし、再発防止の書類を積み上げる。そんな組織では、免疫が正常な活動まで攻撃し始めます。
新しい提案や異論を唱える人を「組織に合わない人」として排除するなら、それは自己免疫疾患のような状態かもしれません。
健全な免疫システムは、問題を知らせた人を攻撃するのではなく、問題そのものに反応します。そして、問題に対応したあとは、炎症をきちんと収束させます。
文化は、理念として書かれた言葉ではない
会社の文化を、生物における遺伝情報にたとえることもできます。
ただし、会社案内に書かれた理念が、そのまま文化なのではありません。
本当の文化は、日々の意思決定のなかに現れます。
何に予算を使うのか。誰が評価されるのか。失敗したときにどう扱われるのか。短期的な利益と、お客さんへの誠実さが衝突したとき、どちらを選ぶのか。経営者がいない場所で、社員がどう判断するのか。
そうした選択が繰り返されることで、文化は受け継がれていきます。
社長が「挑戦を大切にする」と言っていても、失敗した人が厳しく責められるなら、その会社の文化は「挑戦するな」です。
「お客さんを大切にする」と言いながら、売上だけで人を評価しているなら、組織が実際に発している信号は「売上を優先しろ」です。
文化は、経営者が語った言葉ではなく、組織が日常的に選び続けているものです。
自律型組織では、細かな指示の代わりに、この文化が判断の基準になります。だからこそ、経営者の言葉と、制度と、実際の行動が一致していることが重要になります。
会社は何のために生き残るのか
生命にとって、生き残ることや子孫を残すことは、根源的な働きに見えます。では、会社も「生き残ること」を目的にしてよいのでしょうか。
僕は、生き残ることは大切だと思います。
会社がなくなれば、商品をつくることも、お客さんに価値を届けることも、働く人の生活を支えることもできません。利益を出し、資金を残し、次の世代へ会社をつなぐことは、経営にとって欠かせない仕事です。
でも、生き残ること自体が究極の目的になると、少し危うい。
自分の存続だけを優先して、周囲から資源を奪い続ける細胞は、がん細胞に似てきます。がん細胞は増殖する能力だけを見れば、非常に強い。しかし、身体全体を壊し、最後には自分も生きられなくなります。
会社も、自社の売上と利益だけを最大化しようとすれば、お客さん、社員、取引先、地域、環境を疲弊させる可能性があります。また、組織全体だけでなく、部門や役職も自己保存を始めます。
本来の役割がなくなっても、自分たちの部署を残そうとする。必要のなくなった制度でも、それを管理する仕事があるから維持する。会社の目的より、自分の地位や権限を守ることが優先される。
部分が自分の存続だけを求め始めると、全体が弱くなっていきます。
だから、会社にとって「続くこと」は目的であると同時に、条件でもあるのだと思います。
価値を生み続けるために、会社は続かなければならない。
お客さんや社会にとって存在する意味を失ったのに、会社という形だけを守り続けるのではない。時代に合わせて自分自身を変えながら、存在価値を再生産していく。
「会社を残す」のではなく、「この会社が担ってきた価値を、次の時代にも残す」。そう捉えたほうが、長寿企業のあり方に近い気がします。
木村石鹸的な自律型組織とは
木村石鹸的な自律型組織を、この生命の比喩から考えると、次のような姿が見えてきます。
それは、トップがすべてを把握し、正しい命令を出し続ける組織ではありません。
現場の一人ひとりが、自分の近くで起きている変化を感知できる。必要な情報が流れ、違和感を口にできる。何を大切にする会社なのかを共有し、その原則に照らして自分で判断できる。
必要なときには、人やチームが活性化する。でも、いつまでも走らせ続けない。疲労や不調も、本人の気合の問題ではなく、組織から発せられるシグナルとして受け取る。
新しいものを生み出すだけでなく、役割を終えた仕事や制度を手放す。失敗を隠したり廃棄したりせず、分解して次の学びに変える。
異論や違和感を、組織への攻撃として排除しない。それを、組織が健康を保つための免疫反応として受け止める。
そして、自社だけの生存を目的にしない。お客さん、社員、取引先、地域、社会との関係のなかで、自分たちが果たす役割を考える。
このような組織では、経営者は司令官というより、循環を整える人になるのでしょう。
情報は流れているか。どこかに負荷が集中していないか。活動を止められなくなっていないか。現場のセンサーは働いているか。古いものを分解できているか。文化として語っていることと、実際の評価や資源配分が矛盾していないか。
個々の仕事へ命令を出すよりも、組織全体が自ら調整できる条件を整える。経営とは、組織を意のままに動かすことではなく、組織が自分で考え、自分で変化し、自分で回復できる環境をつくることなのかもしれません。
完成された組織ではなく、更新し続ける組織へ
生きた身体は、完成していません。
毎日、細胞が生まれ、働き、壊れ、入れ替わっています。外部環境の変化に反応し、傷つけば修復し、ときには均衡を崩しながら、また新しい均衡をつくります。
組織も、完成形を目指す必要はないのだと思います。
正しい組織図をつくれば完成するわけでも、理想的な制度を導入すれば終わるわけでもありません。人も環境も事業も変わり続ける以上、組織も自分自身を更新し続ける必要があります。
自律型組織とは、誰も管理しない組織ではない。
問題が起きない組織でもない。
問題を自ら感知し、必要な場所が動き、過剰な反応を鎮め、古くなったものを分解し、そこから得たものを次の活動へ戻せる組織。
言い換えれば、自分で代謝し、自分で回復し、自分で変わっていける組織です。
木村石鹸という会社を、単に長く残すのではない。
木村石鹸が大切にしてきたものを、その時代にふさわしい形へ変えながら、次へ手渡していく。
そのために必要なのは、強い指示命令系統よりも、一人ひとりの感覚と判断が生かされ、それらが全体としてつながる仕組みなのではないか。
人体のように、完璧ではなくても、日々壊れ、直し、入れ替わりながら、それでも全体として生き続ける。
そんな会社のあり方を、僕たちは目指しているのかもしれません。
