帝がゾッコン|第零章 美希の綴り(プロローグ)
第零章 美希の綴り(壱)
かつて、妃は「暇つぶしの相手」として――
王は、「ただの旅の客人」として、出会ったという。
今となっては、その出会いのかたちは、取るに足らないことだったのかもしれない。
けれど、その数奇な邂逅がひとつの時代を築き、新たな歴史の扉を開いたことを、私はこの目で確かに見届けた。
一つの大陸に、幾つもの国が並び立ち、興っては滅びるを繰り返した、
後に「五代十国」と呼ばれることになる、激動の時代。
剣こそが言葉を凌ぎ、忠義は旗の色に従い、昨日の盟友が今日の敵となるのが常であった。
そんな乱世にあって、我が国、嘉衡が他国と一線を画すことができたのは、
かつて誰も試みたことのない“九天体制”という統治のかたちにあった。
旧来の秩序を覆した未曾有の政は、やがて人々にこう語られる――
「あれこそが、乱世の終わりを告げる嘉衡の盛世であった」と。
けれど、その盛世をただひとりの才覚で語り尽くすには、あまりに浅はかであろう。
それは、王の傍らにいたこの国を語るうえで、決して切り離すことのできない、もうひとりの存在。
第零章 美希の綴り(弐)
私の知る限り、後宮には当初、三人の妃が入内していた。
最年長の賢妃・采は、先の王の兄君、魯王の御息女にして、
玉座が新たな主を迎えた折、後宮へと最初に迎えられた妃であった。
当時、後宮にほとんど関心を示さなかった王に対しても、深く踏み込まず、かといって疎まれもせず――
その寄り添い方は、“賢妃”と封じられるだけあり、
実に見事な立ち回りであったと、人づてに聞いた。
王と年も近く、落ち着いた物腰の人で、
ひと足先に“大人”になった姉のような雰囲気があったのを、私もよく覚えている。
徳妃・珍理は、嘉衡の相門世家、賀律氏の出で、その王への恋慕は、誰の目にも明らかであった。
喜怒哀楽をあけすけにぶつけ、
“愛しの陛下”への一途すぎる情が、しばしば後宮の火種となっていた。
……あくまで私の私見だが、珍理妃のことは、今思い出しても、胸のあたりがざわつく。
貴人・夏蘭は、三妃のうち最年少で、愛嬌たっぷりに人懐っこく振る舞う、可愛らしい妃だった。
実家は絹を扱う大商家で、王とは即位前からの縁があったらしい。
「ぜひうちの娘を」と働きかけたのは、どうやら向こうからだったそうだ。
それから忘れもしないのは、王が夏蘭妃について語ったひとことだ。
「顔の良さってのは、一回で飽きるな」
美人は三日で飽きるとも言うけれど、
一回で飽きられる妃というのも、なかなか気の毒な話だ。
そのとき、私は何も言わず、ただ茶を注いでいた。
♦︎
もちろん、帳を共にする夜が設けられることもあったようだが、それはあくまで、“務め”のひとつとして消化されていたにすぎないだろう。
相手に不満を抱いている様子はなかったが、どこか物足りなげで、興を惹かれているようには見えなかった――そう、聞いている。
実際、その頃の後宮では、誰ひとりとして“次”に進めてはいなかったのだから。
第零章 美希の綴り(参)
そしてある時、ひとりの女が後宮に召された。
名は落霞。
しかし、その素性は多くが謎に包まれていた。
他の三妃とは異なり、王がただ一人、私的に迎え入れた女性だった。
位は与えられず、正式な妃の列にも加えられなかったが、なぜか宮だけは与えられていた。
そして王は、ことあるごとに落霞のもとを訪れるのであった。
お手つきのない女のもとへ、幾度となく足を運ばれるという異例の振る舞いは、やがて後宮中の関心をさらい、噂が噂を呼ぶこととなる。
妬心が密かに芽吹き、あえて彼女に近づこうとする者もいれば、反対にその在りように惹かれ、慕う者さえ現れていった。
更には、あの得体の知れない“変人ぶり”を、
本気で気味悪がっていた者もいたようで、
「魍魎妃」などと、陰で呼ぶ者もあった。
そんな噂や感情の揺れが、
後宮という大海に落ちた一滴の露となり――
やがて、宮中のあちこちに波紋のように広がっていった。
♦︎
落霞の登場から幾ばくかの歳月が流れた頃、さらにもう一人の妃が召された。
その名や歩みについては、正史にも詳らかに記され多くのものが知るはずだ、ここで改めて語るまでもない。
けれどその一方で、この記録は、後宮の制度から外れた一人の妃を、最も近くで見つめ、共に季節を過ごした侍女によるただの覚え書きにすぎない。
なので今これを読んでいる誰かがいれば、これは公の記録ではなく、ささやかな記憶であることを、どうか分かってほしい。
第零章 美希の綴り(四)
はたして、私は彼女にとって"いちばんの友"であったのだろうか。
もっとも、それは一二を争うような話しではないのかもしれない。ただ、羨ましく思ったことが、なかったと言えば嘘になる。
王と落霞の間にあったものは、私の手では触れられない種類のものだった。呼び名はなんでもいい。
そういえば、まだ落霞と知り合って間もない頃、
私が彼女の侍女になってすぐのある日、ふとこんなことを尋ねたことがある。
陛下という方は、あなたにとってどんな存在なのか――と。
彼女は目を細めて、にやりと笑うと、
愉快そうに肩をすくめて、こう言ったのだ。
「あこがれ」
あの時の落霞が、冗談めかすように口にしたその一言の意味を、
私は恋だか愛だか、どうせそんな類のものだろうと察したつもりでいた。
……そんな自分の未熟さが、今ではどこか懐かしい。
♦︎
あの日、若き王が擁立てられ、“即席の王”と囁かれながら、
国の形すら定まりきっていなかった、あの時代。
はじまりは、ただの暇つぶしだったにもかかわらず、「妃」という定めの枠をも超えていったのは、後にも先にも、落霞、彼女ただ一人だっただろう。
即位から、いったい幾度、季節を巡った時だったか。
夏の名残が残る中、梢の葉がわずかに赤みを帯びはじめていたのを今でもはっきりと思い出せる。
下賜の知らせが綴られた巻子を、私が彼女に渡すと、
内容に目を通した彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
竜胆があしらわれた金色の簪をわずかに揺らしながら、
振り返った落霞は、どこか呆れたように、けれど、心の底から嬉しそうに微笑んでみせた。
なんの前触れもなく、王は、それまで“ただの暇つぶし”だった存在に、
恬妃という名を贈ったのだ。
気まぐれか、戯れか、それとも、何かを彼女に思った末のことだったのか。
たとえそれが、歴史に刻まれぬ名であったとしても。
限られた誰かの心に、留まり続けることを願って。
今、ここに記し、遺す。
尚書台記録司女官 美希
※尚書台(国家の中枢文書機関)に仕える、記録・政務文書などを起草・管理する中心機関。
あとがき
プロローグをお読みいただきありがとうございます!
そして長文お疲れ様でした笑
本作のヒロイン"落霞"という名前の由来は、
唐代の名詩『滕王閣序』の一節で、
「落霞与孤鶩斉飛(落霞と孤鶩、ともに飛ぶ)」(広がる夕焼けにひとり空をゆく水鳥)という、美しさと孤独が交錯する情景を意味しているところから起用しましたッ...!!
追記:2025年5月12日、公開済みだったプロローグ、
本日ようやく改稿を終えました。
追記:2025年5月15日、仮タイトル"帝にゾッコン"から、正式タイトル"帝がゾッコン"と決定しました👏
