55歳、俺、母になる!?⑲完結【#創作大賞2025#エンタメ原作部門】
目を閉じた――
その先に、聞き覚えのある声が耳に届いた。
「母さん!父さんの目が!……動いた!」
「健一さん!わかりますか?
先生すぐ呼んできますからね!」
涙ぐむ由美と、
混乱している息子の幸輝の声が重なる。
慌ただしい足音とともに、病室のドアが開いた。
「……え、何?どうしたの?」
今度は娘の恵里が、不安そうに顔をのぞかせた。
──健一は、自分が戻ってきたことを知った。
***
その後、健一は順調に回復していった。
もちろん、楽な道のりではなかった。
途中で『もう無理だ』と思うほど、
リハビリはきつかった。
だが――
(あのときよりは、まだマシだ)
いつまで続くか分からず、吐き続けたつわり時期。
12時間痛みに耐えた出産。
産後の身体中の痛みの中、寝不足で
泣き止まない赤ん坊と夜を越えたあの日々……
眠れる今は、まだ幸せだ。
回復しないはずがない。
健一は自分にそう言い聞かせ、必死に励んだ。
そのおかげで、
予定よりも早く、身体は回復していった。
***
復職の日も、自然と迎えることができた。
長期で休んでいたせいで、もとの部署には戻れなかったが、不思議と、今の自分には合っている気がした。
新しく配属されたのは、人事部だった。
「課長ー、営業部の橋本さん、お子さんの申請書出てます」
部下が書類を持ってきた。
「育休申請はどうなってる?」
「まだ出てないです」
「……そうか」
健一は、少しだけ考えてから、立ち上がった。
「よし。とりあえず面談に行ってくる」
「頑張ってください!」
そのとき、入口の方で声がした。
「高橋課長……すみません……」
見ると、営業部の山崎が、顔色を悪くして立っていた。
「どうした?大丈夫か?」
「つわりがきつくて……でも、外回り行けって言われて……どうしたらいいか、もう……」
「とりあえず座りなさい」
健一は、支えながら椅子を差し出した。
「大丈夫。俺も一緒に話すから。
無理せず、休んでいきなさい」
その後、健一が交えた面談は、
体験談かと思うほどリアルな説明に、
男性社員たちの表情も少しずつ変わっていった。
“課長、なんでそんなに詳しいんですか?”と笑われることもあったが、気づけば健一の話は社内で広まり、つわりや育児に悩む女性社員たちが、相談に来るようになっていた。
かつて見下していた「育休」も、
今は俺が勧める側だ。
職場の空気も、変わりはじめている。
(……確かに、面白くなってきたかもな)
ふと、あの南国シャツの男の声が頭をよぎる。
健一は、肩の力を抜いて笑った。
***
急に、ふと──
「ゆうべんとう」の味が恋しくなった。
どうしても、もう一度食べたくなった。
そして気がつくと、
健一は電車を乗り継ぎ、あの町へ向かっていた。
(優真は元気にしてるだろうか……莉緒は……美弥は、どうしてるかな)
バスを乗り換えていると、
隣に立った女性に目が止まった。
(あ、あのときの……!)
優真の泣き声でバスの空気が張り詰めていた、あの日。
「花丸シール」をくれた、女性だ。
声をかけたい気持ちがこみ上げるが、
今の自分の姿では接点がない。
(あのときは、助けてくれてありがとう)
心の中で静かに礼を言った。
だが、女性は顔色が悪く、どこか苦しそうだった。
鞄の端に、
マタニティマークが揺れているのが目に入った。
(もしかして、つわりか……)
かつての自分と重なり、健一は胸がざわついた。
ちょうど、目の前の優先席がひとつ空いた。
(よかった……)
だが、すぐに若い男性がスマホを見ながら、
何も言わずに座り込んでしまう。
健一は、思わず口を開いた。
「君。そこ、この方に譲ってやってくれないか。
マーク、見えるだろ?」
男性は不満そうに眉をひそめたが、
ため息をつき、しぶしぶ席を立った。
女性は、涙をにじませながら
「ありがとうございます……」と小さな声で礼を言った。
その瞬間、健一は思い出す。
あの夜道。
泣き続ける優真を抱きながら、
心が折れかけていたとき――
彼女がかけてくれた、
たった一言の優しさで、救われたことを。
「無理しないでくださいね」
健一は、あの日自分がもらった言葉を、
そのまま返した。
胸の奥で、何かがそっとほどけていくのを感じた。
***
店の前まで来ると、急に緊張が込み上げてきた。
(美弥がいる)
ガラス越しに、
店頭で忙しそうに接客する美弥の姿が見えた。
(向こうは俺のこと、知らないんだよな)
どう接していいのか、分からなかった。
悩んでるうちに、順番が回ってきた。
「いらっしゃいませ」
顔を上げると、美弥が笑顔を向けている。
思わず俯き、返事もできずに固まってしまった。
その時──
「ママー!」
「こら、お客さんいるから向こう行くよ!」
莉緒が、小さい子供を後から追いかけてくる。
あのとき腕の中にいた子が、
もうあんなに走っている。
その成長に、胸がいっぱいになる。
そんな健一を、美弥が心配そうに見た。
「大丈夫ですか……?」
「……大丈夫です」
そう答えながら、
目を上げると、美弥と視線が重なった。
美弥は、はっと息を呑み、動きを止めた。
「あ、 あの……もしかして……!」
美弥の声が震えた。
言葉はそこで止まったが、
その目にすべてが表れていた。
健一は、ゆっくりと頷いた。
美弥は手で口を覆い、
慌てて莉緒を呼びに行った。
「莉緒!ちょっと、来て!」
呼ばれた莉緒が、優真を抱えて駆け寄る。
「え? 何? どうしたの?」
莉緒は健一を見つめた。
一瞬、目が揺れ――
やがて、すべてを悟った表情になった。
「……おっさん?ほんとに……?」
自然と、笑いがこぼれた。
優真も不思議そうな顔でこちらを見ている。
小さな手に触れると、あの日々が蘇る。
今度は俺も、誰かの支えになろう。
そう思いながら、そっとその手を握った──
完。
