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55歳、俺、母になる!?⑧【#創作大賞2025#エンタメ原作部門】


妊婦生活、はじまる


【2日目】

起きた瞬間から、
胃がひっくり返ったような感覚に襲われる。


「……う、嘘だろ……」


這うようにトイレへ行き、
便器にしがみついたまま吐いた。

このまま何も食べられないかもしれない──


そんな諦めがよぎった時…


ふと、テーブルの上に置かれたコンビニの袋に
気づいた。

莉緒が昨日、美弥と食べるつもりで買ったが、
「あげるー」と言って置いていったものだ。

気だるい身体で袋を覗くと、チョコレートクッキーやポップコーン、一番奥に“ポテトチップス”が見えた。


うすしお味……。

見ただけで塩気が鼻をくすぐる。

「……いやいや、こんなもん……吐くに決まって……」
そう思いながらも、なぜか手が伸びていた。


そして、ひとくち。


噛んだ瞬間、油と塩と旨味が脳を直撃した。


「……これは……う、うまい……!」


あんなに吐いていたのに、
不思議と気持ち悪くならない……!



ゆっくりと、1枚、また1枚。
結局、ひと袋、完食していた。

「……まさか……救世主が……お菓子……?」


身体が“これならいける”と認めたその感覚に、
ほんの少し救われた気がした。


このまま他のお菓子も食べれるか…??と試したが
ポテトチップス以外は少しして気持ち悪くなり、
結局吐いてしまった……



【3日目】

水が飲めず、麦茶、炭酸、他にもいろいろ試した。

唯一飲めたのはスポーツドリンク。
「……神かよ……」

だが食べ物はどれも受け付けず、
まともに食べれなかった。


【5日目】

前の日までは神のようだったスポーツドリンクを
口にした瞬間、強烈な吐き気に襲われた。
あんなに頼りにしてたのに……

トイレの床にうずくまり、便器を抱えていた。

「これ、いつまで続くんだ……」

朝からまともに立ててない…

一度、意識が遠のきかけた。


「こんなにつらいのに、病気じゃないなんて…
みんなどうやって耐えてるんだ…?」

【6日目】

一日中吐きっぱなし。
それでも、生まれてくる命のことを思えば、
放り出すわけにはいかない…

莉緒の「今日は何か食べられた?」に
「ポテチは食べれた」とだけ返すと、
「最強じゃんw」と返信が来た。

小さなやりとりが、唯一の救い……

【8日目】

ようやく少し、吐かない時間ができた。
コンビニで梅おにぎりを買ってみた。
……食べられた。

「……これだけで感動すんのか……」

涙が出そうになる。


妊婦向けサイトを読みあさり、
"食べられるものを食べればいい"という言葉に救われる。

【9日目】

朝は、比較的穏やかだった。
吐き気も控えめで、昨夜口にしたおにぎりや
フルーツもどうにか消化されたらしい。

「今日は、いけるかも」そう思った矢先、
昼すぎにまた急な吐き気がぶり返した。

座っても寝ても、
胃の奥から込み上げてくる…

そんな時だった。
玄関のインターホンが鳴った。


「おっさーーん?開けれる?」


莉緒の声だ。


一瞬、出られる気がしなかったけれど――
このままじゃダメだと、ヨロヨロと立ち上がる。

玄関を開けると、
莉緒が袋を両手に持って立っていた。

「ねぇ、顔色やばいんだけど!? 」

「……まぁ……マシなほう……」

「 マシって言葉の意味、知ってる……?」

靴を脱ぎ捨てて上がり込むと、キッチンでスポーツドリンクとゼリーを冷蔵庫に放り込みながら言った。

健一は返す言葉もなく、へたり込んで頷いた。

「心配なんだよ……その身体は、美弥のなの。
だから、おっさんのことも本気で心配してんの」

「……ありがとう」


誰かがそばにいてくれるだけで、
今日の苦しさが少し軽くなった気がした。




***


それからまた、1週間が過ぎた。

嘔吐と倦怠感に耐える日々だった。


食べられるものを探しながら、
寝たきりになる日もあった。



その一方で、重くのしかかっていたのが

「仕事」のことだった。


美弥の有給は、明日で終わる。


つまり、明日からは職場に行かなければならない…


夜、莉緒が持ってきてくれたフライドポテトを
食べたあと、健一は小さく切り出した。

「……仕事、辞めようと思うんだ」


莉緒は食べるの止め、顔を上げる。


「今の状態じゃ……正直、仕事なんて無理だ。
仮に産後戻れても、
理解者がいないと無理させるだけだ……」

莉緒は、静かに健一の決意を受け止めていた。


「……そうだね。私も、もうあそこに戻らなくていいと思う」


部屋にしんと静けさが満ちた。


けれどその沈黙は、
どこか優しく、あたたかかった。



明日を迎えるための、ささやかな覚悟が
少しずつ、ふたりの中で固まっていく。




【⠀次の日  】

朝のラッシュ。

立っているのもやっとの満員電車で、
健一は何度も吐き気をこらえた。



体臭、汗、香水――
全てが混ざり合って胃を締めつける。
息を止め、吊革を掴む手に力が入る。



(…ぐっ…行くだけで……吐きそう……うっ……)



それでも、来た理由はひとつ。
美弥を、あの場所から解放するため。




会社に着いた瞬間、周囲の目が刺すようだった。
ヒソヒソ声が、遠くで響く。


「……やっぱり、あの噂ほんと?」

「不倫彼氏に逃げられたとか……」

「いつまで休むの?」

「これ以上はさすがに迷惑…」



健一は、まっすぐ上司の元へ向かった。

「今日で退職させていただきたいです」


低く、落ち着いた声で伝えた。


上司は驚きつつも思いのほかあっさりと頷いた。


「……本人が辞めたいなら、
無理は言えない。退職届は後日でもいいから」

健一は一瞬、うつむいたが、すぐに顔を上げた。

「いえ、今書きます。これ以上この職場に来るのは…体力的にも精神的にも厳しいです」


用紙を受け取り、無言でペンを走らせる。

その意思に、上司も何も言えなかった。




健一は退職届を差し出し、深く一礼する。


「今まで、お世話になりました」



美弥がここに戻ることは、もうない…

(……美弥、お疲れ様…勝手にすまん…)


***


電車の座席に沈み込むように腰を下ろし、
スマホを取り出した。



まだ気持ち悪さは残っていたが、
ようやく落ち着いた呼吸で、莉緒にメッセージを送った。

《  無事、辞めてきた。退職届もその場で書いた。  》



莉緒からの返信はすぐに届いた。


《  おつかれさま!!おっさん、ありがとね  》



《でも…会社を辞めたことで…これからの生活、かなり不安だ。就活も無理だし、産後もすぐには働けない……》

そんな健一の不安に、
莉緒からすぐ返信が返ってくる。

《それなら……時給が高いわけじゃないんだけど、知り合いがやってる店の手伝いとか、家でできる軽作業とか……
妊婦さんでもできそうな仕事、紹介できるかもしれない …! 》



不安は尽きない。


でも、

頼れる人がいるだけで、世界が少し優しく見えた。




──第⑨話へつづく


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