【小説】運命の猫
恋愛や結婚や子育てはコスパが悪いからしない、なんてネット上にはあふれているけれど、ほんとうだろうか。少なくともぼくのまわりでそんなことを言っている猫はいないし、もしいたとしたら、そいつはいつでも恋愛のできる一軍の猫なんだろう。そんなのがマジョリティだと思うな、ほとんどの若猫はぼくみたいな、中途半端なルックスと、その日のごはんをなんとか確保してるような、やさぐれた猫だぞ。登録してみたマッチングアプリは、うんともすんとも言わないし、世界とは疎遠になる予感しかない。あー、鳴くぞ、いや、泣くぞ、ぼくが泣いたらどうなるものか、と思う。SNSには『犬のエサを運ぶ仕事です』とスクロールが流れてくる。あー、こういうのってほんとうにあるのか。猫の道に反したことはしたくない。せめて自分を誇れる猫でありたい。それだけは守りたい。ぼくだってしあわせになるために生まれたんだから。まるでそれを最後の希望みたいにすがりながら、ぼくはなんとか生きている。
「あ、はい、はい、わかりました。もうすぐだと思います」
とバッグを背負ってスマホで話しながら歩いている猫とすれ違う。このままだとぶつかるぞ、と思い避けようとすると、その猫もおなじ方向に避けようとする。あ、あ、あ、と言い合って、なんど避けてもおなじ方向に行ってしまうので、「あの!」とぼくは大きな声を出した。その猫はびっくりしたようで「え!」と言いながら目を丸くした。電話の相手に「すみません! またあとで!」と頭を下げる。顔をあげた猫はメス猫で、どこか上品な雰囲気が漂っていた。彼女はやっとぼくの目を見て、「すみません」と言った。
「いや、えっと」
ぼくも声をかけたものの、なんと言っていいかわからない。一軍の猫ならきっともっとスマートなことを言えるんだろう。ぼくは自分がまた嫌になって、目を伏せてしまう。伏せたその先に、彼女のスマホ画面が見えた。『犬のエサを運ぶ仕事です』の文字が表示されている。ぼくは咄嗟に「逃げよう!」と言っていた。彼女は「え、あの、なんで?」と困っている。スマホがまた鳴り出す。
「出ないで!」
「え?」
「そのバッグも捨てて!」
「なに? え?」
「いいから! 付いてきて!」
気が付けばぼくは走り出している。彼女が付いてきているのを確認しながら、スピードを上げる。これだけ全力で走ったのはいつ以来だろうか、と考える。飼い主の車に乗って、山に行ったとき。ぼくを置いて、車が去って行ったとき。あの車を追いかけて行ったとき以来か。ああ、忘れてたのに思い出してしまった。あの飼い主は元気だろうか。あの淋しそうな顔が浮かんでくる。あー、やばい、鳴くぞ、いや、泣くぞ、マジで。それを振り払うかのように、ぼくは全力で走る。河川敷の橋の下に来て、ぼくはそこで泣いた。猫なのにわんわんと。ああ、もう、だめだ、猫になれず、犬になってしまったかもしれない。そう思って泣き続けた。
その時間が終わったとき、声が聞こえた。
「だいじょうぶ?」
すっかり忘れていたが、彼女がいる。そうだった、闇バイトから彼女を助けようと思っていたんだった。やっぱりぼくはダメだ、結局自分のことしか考えてない。情けなく思いながら「ごめん」とぼくはつぶやいた。
「ごめんって、なんで謝るの?」
「だってきみ、変な事件に巻き込まれたんだろう? 助けたいと思ったんだけど、なんか自分のことで精一杯で」
と、ぼくは言った。彼女はなぜか小さく笑い出す。
「違うよ、わたし、前の飼い主のところに行こうと思っただけだよ」
「え? 闇バイトに手を出してたんじゃないの?」
「そんなんじゃないよ。前の飼い主はね、新しい犬がきて、けんかになるからって、わたしを手放したんだけど、会いたくなっちゃってね。それで仲介してくれる人に連絡してたの」
そう聞かされて、ぼくはなんてひどいことをしてしまったんだとまたも絶望した。ぼくの人生は絶望でできてるかもしれないと思う。
「ごめん、そうだったのか……」
とにかく謝るしかないので、そう絞り出した。彼女は、首を横に振る。
「でも、行かなくてよかった。だって、今の飼い主すごくいい人で、わたし幸せだし、それに、こんなに全力で走ったの、初めてかもしない! なんか、すごくスッキリした! だから、ありがとうだよ」
晴れ晴れとした笑顔を彼女は浮かべる。ぼくはその瞬間に恋に落ちた。コスパだのタイパだのルックスだの経済力だの、そういうものを考える暇もなく、簡単に。
「きみのことが、すきになってしまった」
そう言った瞬間に振られる予感がした。人生は悲しいものだから。それでもいいくらい、すきがあふれている。
