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山は、その名を知っていた。

帰省

特急列車が山あいに差しかかると、車窓の緑が急に濃くなった。
桐生美月はイヤホンを外し、窓に額を寄せた。
谷を縫う川が、光をはじいて白く光っている。
八月の午後、蝉の声はまだ聞こえないが、窓ガラス越しの熱気だけで、故郷の夏がどういうものかは思い出せた。

膝の上のバッグには、着替えと、日焼け止めと、小さなポーチに入った化粧品が入っている。
ファンデーションのケースを指先で確かめてから、美月は窓に映る自分の輪郭を見た。
この二年、都内の高校で数学と情報を教えながら、自分の顔がどう変わっていくかを、鏡よりも先に生徒たちの視線で知るようになった。
今ではもう、誰も振り返らない。それが答えだった。

トンネルを抜けるたびに、風景は少しずつ知っているものに変わっていく。
棚田の緑、錆びた案山子、川沿いの茶畑。
どれも子どもの頃から変わらない景色だったが、それを見る自分の目だけが、確実に違っていた。
窓に映る半透明の自分の顔と、外を流れる田園風景が重なり合う。
どちらが本当の自分なのか、美月にはときどきわからなくなる。

在来線に乗り換え、さらにバスに揺られること四十分。
終点で降りると、迎えに来ていた母が小さく手を上げた。
挨拶は「暑かったでしょう」の一言だけで、母はそれ以上何も言わなかった。
荷物をトランクに入れる母の背中は、記憶よりも小さく見えた。
車を発進させても、母はしばらくラジオの音量を調整するふりをしていた。
何かを言おうとして、結局言わずに済ませる、そういう間だった。

窓の外を流れる景色を眺めながら、美月は助手席のシートに深く体を預けた。
都内の湿った熱気とは違う、青草の匂いの混じった風が、開けた窓から流れ込んでくる。
信号のない道を、車は何度も曲がった。
角を曲がるたびに、記憶の中の風景と、目の前の風景がずれていくのを感じた。
同じ場所のはずなのに、自分がもう、あの頃の自分ではないからだろう。

実家は谷の奥、山の斜面にへばりつくようにして建っている。
玄関を入ると、古い畳と線香の匂いがした。
祖母の仏壇には、去年より少し埃が積もっている。
美月は線香をあげ、手を合わせてから、二階の自分の部屋に荷物を運んだ。
学生時代のポスターも、机の傷も、そのままだった。
窓を開けると、隣家の屋根の向こうに、山の稜線が見えた。
時間だけが、この部屋の外で進んでいた。

夕食の席で、父は新聞から顔を上げなかった。
母が「美月、お風呂先に入る?」と聞いたとき、父の箸が一瞬止まったのを、美月は見逃さなかった。
名前を呼ばれることに慣れていないのは、父の方だった。
それでも、何も言われないことのほうが、まだ楽だった。
食卓には、いつもより一品多く、美月の好きだった茄子の煮浸しが並んでいた。
誰も、それについて何も言わなかった。

夜、窓を開けると、遠くで川の音がした。
山の稜線が、月明かりに黒々と浮かんでいる。
虫の声が、都会のそれとはまるで違う密度で部屋に満ちてきた。
美月はしばらくその輪郭を目で追ってから、布団に横になった。
眠る前、ふと思い出したのは、子どもの頃、あの山の奥で出会った、人でも獣でもない何かのことだった。
あの記憶だけは、これまで誰にも話したことがなかった。


山の記憶

翌朝、蝉の声で目が覚めた。
母はもう畑に出ていて、父の姿もない。
美月は台所で麦茶を飲み、そのまま裏口から外に出た。
玄関先の百日紅が、真っ赤な花をつけていた。

家の裏手からまっすぐ続く畦道を歩き、竹林を抜けると、山への入り口がある。
子どもの頃はよく、友達と虫取りに来たものだった。
今は誰も入らないのか、道の両側から草が伸び、足元を覆っている。
蜘蛛の巣を払いながら進むうち、シャツの背中が早くも汗ばんできた。

登っていくうちに、記憶がひとつずつ戻ってきた。
この岩を過ぎたら分かれ道がある。
左に行けば沢に出る。
かつては当たり前のように駆け上がっていた斜面も、今は息が上がる。
立ち止まって振り返ると、木々の間から、故郷の集落が箱庭のように見下ろせた。
屋根瓦の連なりが、記憶よりずいぶん少なくなっている気がした。

木々の匂いは、都会のどんな香水よりも濃く、体の奥まで入り込んでくるようだった。
土の湿り気、朽ちた葉の匂い、遠くで鳴くヒグラシの声。
それらすべてが、二十年近く積もった記憶の底から、静かに立ち上がってくる。
美月は歩きながら、自分の呼吸のリズムが、いつしか山の音に合わせて変わっていることに気づいた。

沢のほとりで一度足を止め、美月は水の流れに手を浸した。
冷たさが指先から腕へと上ってくる。
その冷たさに紛れて、もうひとつの記憶が浮かんできた。

――あの日も、こうして水に手を浸していた。
七歳のとき、水面に映る自分の顔がどうしても好きになれなくて、長いこと石を投げていたことを思い出した。
丸い顔、坊主に近い短い髪、着せられたシャツ。
石を投げるたびに、映った顔が崩れて消える。
それが、幼い自分にできる唯一の抵抗だった。
誰にも言ったことのない記憶だった。

すると、対岸の茂みが揺れて、誰かが立っていた。
人のようで、人ではなかった。
輪郭は霧のように定まらず、声は水音に溶けていた。
あれは何だったのか、大人になった今もわからない。
ただ、怖くはなかったことだけは覚えている。
あのとき、その気配は、崩れた自分の顔を、拾い集めてくれたような気がした。
しばらくそこに座り込んでいると、気配はいつの間にか消え、母の呼ぶ声で我に返ったのだった。
あの日以来、誰にも話さず、自分の中だけにしまっていた記憶だった。

美月は立ち上がり、沢を渡った。
対岸の茂みをかき分けると、記憶の中とまったく同じ形の空き地があった。
木々が輪になって、そこだけ光が落ちている。
まるで、ここだけ時間が止まっているようだった。

風もないのに、木の葉が一斉に揺れた。
美月は息を止め、その場に立ち尽くした。


境の精

霧のようなものが、空き地の中央にゆっくりと立ち上がった。
輪郭は人の形をしているが、性別を感じさせるものが何もない。
長い髪は白いようで、光の加減では透き通って見えた。
着ているものは布とも霧ともつかず、動くたびに輪郭がわずかにほどけては、また結び直された。

近づいてよく見ると、その姿は瞬きのたびに少しずつ違って見えた。
ある瞬間は少年のようで、次の瞬間には老人のようでもあり、また別の瞬間には、性別を感じさせるものが何もない、ただの光の集まりのようにも見えた。
定まらないことこそが、この存在の本質なのだと、美月は直感的に理解した。

「大きくなった」

声は、水が石の上を流れるときの音に似ていた。
美月はその声に、二十年近く前の記憶が正しかったことを知った。
膝の力が抜けそうになるのを、かろうじてこらえた。

「境を、見ていた」

精霊はそう言って、あたりの木々を見渡した。
それから、美月の方に視線を戻した。
目という器官があるのかどうかもわからないのに、見られている、という感覚だけが確かにあった。
空気そのものが、こちらの輪郭をなぞっているようだった。

美月は迷ったすえ、正直に打ち明けることにした。
子どもの頃からずっと感じていた違和のこと。
名前を変えたこと。
ホルモンの治療を続けていること。
教室では女性の教師として通っていること。
それでも、まだ完全ではないこと。
早く、美しい、完全な女性になりたいこと。
言葉にすると、自分の声がひどく小さく聞こえた。
長年、誰にも面と向かって言ったことのない言葉だった。

精霊はしばらく黙っていた。
木々のざわめきだけが、答えの代わりのように空き地を満たした。
長い沈黙のあいだ、美月は自分の呼吸の音だけを聞いていた。

「わたしが見ているのは、人と、山の境だけではない」

やがて精霊は言った。

「役目と、自分の境も、見ている」

その言葉の意味を、美月はすぐには理解できなかった。
精霊は続けた。山の手入れを手伝ってほしい、と。
倒れた木を片づけ、詰まった水路を整えること。
人の手が入らなくなった境を、もう一度結び直すこと。
その代わりに、美月の中にある「違和の正体」を、言葉にする手伝いをする、と約束した。

「望むなら、姿を変えることもできる」

精霊は最後にそう言った。
それがどういう意味を持つのか、美月には測りかねた。
ただ、その言葉が嘘には聞こえなかった。
すぐに答えを求められているわけではないことも、なぜか伝わってきた。

翌日から手伝う、と美月は答えた。
精霊は何も言わず、輪郭をほどくようにして、木々の間に溶けて消えた。
あとには、木の葉の匂いだけが残った。
美月はしばらくその場に立ち尽くしてから、来た道を戻った。
下り坂を歩きながら、これから始まることの重さを、まだうまく測れずにいた。


頼まれごと

家に戻ると、母が縁側で豆の筋を取っていた。
美月は隣に座り、しばらく黙って手伝った。
指先が莢を割る音だけが、しばらく続いた。
母は何も聞かなかったが、山の方角を一度だけ見た。

「あそこ、昔から変なところだから」

それだけ言って、母はまた豆に視線を戻した。
美月は、母がどこまで知っているのか、聞かなかった。
子どもの頃、山で迷子になりかけたとき、母が青ざめた顔で迎えに来たことを思い出した。
あのときも、母は多くを語らなかった。

昼過ぎ、集落の集会所から電話があった。
夏祭りの世話役をしている久保田が、直接家まで訪ねてきた。
祭りで神社に奉納する舞のことで、相談があるという。
玄関先に立った久保田は、帽子を取り、額の汗を拭きながら、言いにくそうに切り出した。

「若い娘さんが、もう村におらんでな」

少子化はこの村でも進み、舞を奉納できる年頃の女性がいなくなって、もう三年、形だけの奉納で済ませているのだという。
美月なら、と久保田は言いかけて、言葉を選ぶように少し黙った。

「見た目も、ちゃんとしとるし」

その言い方に、美月は何かを飲み込んだ。
見た目が、という言葉の裏にあるものを、考えないようにした。
それでも、頼まれごとを断る理由は見つからなかった。
神社の舞台に立つ自分の姿を、想像してみた。
悪くない、と思った。
むしろ、自分でも驚くほど、心のどこかが動いた。

久保田は続けて、稽古は幸子さんに頼んである、日程は追って知らせる、と一方的に決めて帰っていった。
玄関先に取り残された美月は、しばらくその後ろ姿を見送っていた。
頼まれごと、というより、押しつけに近い頼み方だったが、不思議と嫌な気はしなかった。

久保田が帰ったあと、母は少し驚いた顔をしていたが、反対はしなかった。
むしろ、台所に立つ後ろ姿が、いつもより少しだけ軽く見えた。
父は畑から戻ってきても、その話を聞いても、何も言わなかった。
ただ、夕食の間じゅう、いつもより長く美月の方を見ていた。
箸を止めて考え込むような仕草を、美月は横目で捉えていた。

その晩、寝る前に携帯を開くと、都内の病院から診察の予約確認メールが届いていた。
日程は、九月の第二週。
帰省を終えて仕事に戻ってすぐの日だった。
美月は画面をしばらく見つめてから、静かに閉じた。

窓の外では、虫の声が絶え間なく続いていた。
舞のこと、精霊との約束のこと、九月の診察のこと。
いくつもの予定が、まるで別々の川のように、これから自分の中で合流していくのだろうと、美月はぼんやり考えた。
どれも急かされているわけではないのに、どれも確実に近づいてきている。
その感覚は、恐れよりも、静かな覚悟に近いものだった。


祖母の声

翌日は雨で、山には入れなかった。
美月は仏壇の前に座り、祖母の遺影を見つめた。
祖母は三年前に亡くなっていた。
生前、美月の変化を、どこまで理解していたのかはわからない。ただ、最後に会ったとき、祖母は皺だらけの手で美月の手を握り、こう言った。

「隆一でも、美月でも、うちの孫だで」

その言葉の意味を、当時の美月は素直に受け取れなかった。
名前をまだ変える前のことで、優しさのつもりで言われた「隆一でも」という部分が、棘のように残っていた。
それでも今、雨音を聞きながら思い返すと、祖母なりに精一杯、境目を越えようとしてくれていたのだと、少しだけわかる気がした。
あの不器用な言い方こそが、祖母にできる精一杯の受け入れ方だったのだろう。

昼過ぎ、母が茶を淹れて隣に座った。
二人で並んで雨を眺めるのは、久しぶりだった。
軒先から落ちる雨だれが、飛び石の上で小さく跳ねている。

「お母さん、怖かったんだよ」

母がぽつりと言った。美月が名前を変えると告げたときのことを、話しているのだとわかった。

「何が怖いって、うまく言えないんだけど。あんたが遠くに行っちゃう気がして」

美月は何も言わず、湯呑みを両手で包んだ。
母の声は、責めるような響きではなかった。
ただ、長いあいだ言えずにいたことを、ようやく置いた、という感じだった。

「今は?」

美月が聞くと、母は少し考えてから答えた。

「今は、ちゃんとここにいるじゃない。それでいいんだと思うようにしてる」

それ以上、二人とも何も言わなかった。
ただ、雨脚が弱まるまで、湯呑みの湯気だけを見つめていた。
仏壇の祖母の遺影が、その様子を静かに見下ろしていた。


二年前

雨の日は、思い出すことが多い。
二年前の冬、家庭裁判所の待合室で名前の変更許可を待っていたときも、こんな雨だった。
申立書を出すまでに、診断書を何枚も揃え、面談を何度も重ねた。
医師に「性同一性障害」という診断名を告げられた日、美月はその言葉を、安堵と重さの両方で受け止めたことを覚えている。
ようやく名前がついた、という安堵と、これから先の長い道のりを思う重さと。

両親に打ち明けたのは、診断が出てからさらに半年後だった。
この家の居間で、正座をして切り出した。
父は何も言わずに席を立ち、そのまま外に出て行った。
母は俯いたまま、長いこと黙っていた。
あの夜のことを、美月は今も鮮明に覚えている。
責められたわけではなかったが、受け入れられたわけでもなかった。
ただ、宙ぶらりんのまま、時間だけが過ぎていった。

ホルモン治療を始めてから、体の変化は少しずつ、しかし確実に訪れた。
声変わりが逆回しに戻っていくような感覚。
指先の骨格の印象が変わっていく感覚。
鏡を見るたびに、自分の顔が、記憶の中の理想に少しずつ近づいていくのがわかった。
それでも、完全には至らない部分があることも、同じくらいはっきりとわかっていた。

家庭裁判所の許可が下り、「桐生美月」という名前が正式なものになった日、美月は一人で近所の神社に寄り、手を合わせた。
誰かに祝ってほしかったわけではない。
ただ、自分自身に対して、ひとつの区切りをつけたかった。
あの日の帰り道の空の色を、今でもよく覚えている。


学校で

雨音を聞きながら、美月はふと、都内での日々を思い出していた。
名前を変えて最初の年、職員室で自己紹介をしたときの、あの静けさをよく覚えている。
誰も大げさに騒がず、誰も腫れ物に触るような態度も取らなかった。
ただ、淡々と「桐生先生」と呼ばれるようになった。
それだけのことが、当時の美月には奇跡のように思えた。

女子トイレを使うようになったときも、女子更衣室で着替えるようになったときも、表立って苦情を言う同僚はいなかった。
市の対応も早く、書類上の扱いは、実際の生活に少し遅れて追いついてきた。
ホルモン治療を始めてから体つきが変わり、声の高さが変わり、生徒たちが「先生」と呼ぶときの響きも、いつの間にか変わっていた。
今では、誰もが疑いもなく、美月を女性の教師として見ている。

それでも、戸籍だけは、まだ男のままだった。
役所の書類を書くたびに、その一文字だけが、自分の生活とずれた場所に取り残されているのを感じた。
教室では完成された女性として見られているのに、書類の上では、まだ何も終わっていない。
その落差を、誰にも説明したことはなかった。
説明しても、うまく伝わる気がしなかった。

数学の授業で、境界値問題を解説するとき、美月はいつも、少しだけ自分のことを思い出す。
ある値がどちらの領域に属するかは、決め方ひとつで変わる。
境界線というものは、初めからそこにあるのではなく、誰かが線を引くことで、初めて生まれるのだ。
生徒たちにそんな話をしたことは一度もないが、黒板に等号や不等号を書くたびに、その考えだけは、いつも頭の隅にあった。

情報の授業で、二進法の「0と1のあいだには何もない」という説明をしたときも、ある生徒が「じゃあ0.5は?」と聞いてきたことがあった。
美月は少し笑って、「それはまた別の話」と答えたが、内心では、その質問の鋭さに驚いていた。
世界は、いつも綺麗に二つに分けられるわけではない。
その曖昧さのなかで、多くのものが、実際には生きている。


倒木

雨が上がると、山の手入れは、思っていたより体を使う仕事だった。
精霊は姿を見せたり見せなかったりしたが、いつも近くにいる気配だけは感じられた。

倒れた木の枝を鋸で切り、まとめて運ぶ。
慣れない作業に、手のひらにまめができ、それが破れ、また硬くなっていった。
汗が背中を伝い、シャツが肌に張りつく。
休憩のたびに沢の水で顔を洗うと、水面に映る自分の顔が、少しずつ違って見えた。
日に焼けて、以前より意志の強そうな顔になっている気がした。

三日目、大きな倒木を切り分けているとき、精霊がすぐそばの岩に腰掛けているのに気づいた。
手伝う様子はなく、ただ見ていた。
木漏れ日が、精霊の輪郭を透かして地面に落ちていた。

「痛いか」

まめの潰れた手のひらを見て、精霊が聞いた。
美月は首を振った。痛みよりも、体を動かしている間だけ、頭の中が静かになることのほうが、大事だった。
教室で生徒に囲まれているときも、家族と食卓を囲んでいるときも、頭のどこかで常に鳴り続けていた小さな警報が、ここでは止んでいた。

「体は、噓をつかない」

精霊はそう言うと、また黙った。
その言葉が、誰の体のことを指しているのか、美月にはわからなかった。
ただ、鋸を握る自分の手を、しばらく見つめた。
指の関節、日焼けの跡、まめの位置。
それは紛れもなく、この十年、自分の意志で少しずつ変えてきた体だった。

作業を終えて山を下りる途中、集落の老人とすれ違った。
老人は懐かしそうに目を細め、「おお、隆一くんか」と、昔の名前を呼んだ。
美月は足を止め、小さく会釈だけをして、そのまま通り過ぎた。
握った鋸の柄に、力がこもった。
振り返らずに歩き続けたが、耳の奥では、その呼び声がしばらく反響していた。


夕立

作業を始めて一週間ほど経ったある日、突然の夕立に見舞われた。
空が急に暗くなり、大粒の雨が木々の葉を叩き始めた。
美月は慌てて道具をまとめたが、逃げ場を探すうちに、あっという間にずぶ濡れになった。

雷鳴が谷にこだまし、木々が大きく揺れた。
心細さに足がすくみそうになったとき、精霊がすぐそばに立っているのに気づいた。
傘になるわけでも、雨を止めるわけでもなく、ただ隣に立って、同じように雨に打たれていた。

「怖いか」

精霊が聞いた。
美月は首を振りかけて、それから素直にうなずいた。
子どもの頃から、大きな音が苦手だった。
認めてしまうと、少しだけ肩の力が抜けた。

「怖いままでいい。逃げずにいれば、それでいい」

その言葉に、どこか救われる気がした。
逃げないこと、その場に留まること。
それだけが、今の自分にできる、唯一のことのように思えた。

雨はしばらくして上がり、洗われた木々の緑が、いっそう濃く輝いて見えた。
美月は濡れた服のまま、しばらくその光を眺めていた。
隣にいたはずの精霊は、いつの間にか、いつものように輪郭を薄めて消えていた。


水路

水路の泥をさらう作業は、倒木の片づけよりも根気のいる仕事だった。
腰まで水に浸かり、堆積した泥を一すくいずつ運び出す。
何十年も詰まったままだった箇所を掘り返すと、下から古い石組みが現れた。
かつてこの村の誰かが、丁寧に積んだものだった。

「これは、誰が」

美月が聞くと、精霊は水路の先を見つめたまま答えた。

「境を守る者は、いつも、名もない」

その言葉に、美月はしばらく手を止めた。
石組みを積んだ人の名前は、もう誰も覚えていない。
それでも、水は今もその石の上を流れ続けている。
役目を果たした形だけが残り、名前は消えていく。
それが悪いことなのか、美しいことなのか、美月にはまだ判断がつかなかった。

作業を進めるうち、日が傾き、蜻蛉が水面をかすめて飛ぶようになった。
美月は泥だらけの手を止め、しばらく水の流れを眺めた。
堰き止められていたものが流れ出す音は、思っていたより静かだった。
夕暮れの光が水面に反射し、無数の小さな光の粒となって、あたり一面に散らばっていた。

「違和の正体を、知りたいか」

不意に聞かれ、美月はうなずいた。

「境が、動いているだけだ」

精霊は言った。

「体という境、名という境、役目という境。おまえの中では、それが、まだ結ばれ直されていない。石を積むように、少しずつ、結び直していくしかない」

「石は、動かないように見えて、少しずつ位置を変える。水も、同じ場所を流れているようで、昨日の水と今日の水は、違うものだ」

精霊はそう続けた。

「おまえの体も、名も、役目も、同じだ。止まっているように見えて、いつも動いている。動くことを、怖がらなくていい」

わかるようで、わからない言葉だった。
それでも、その夜、布団の中で美月はその言葉を何度も繰り返した。
境が動いている。
ただ、それだけのことだと思うと、これまで抱えてきた重さが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
作業を終えると、水路には清らかな水がよみがえった。
せせらぎの音が、以前より高くなった気がした。
翌朝、その音を聞きながら目を覚ましたとき、美月は久しぶりに、夢を見なかったことに気づいた。


名を呼ぶ声

村の商店で買い物をしていると、店主の老婆が大きな声で「隆一ちゃん、久しぶりだねえ」と呼びかけた。
店内にいた数人の客が、一斉にこちらを見た。
美月は微笑みを崩さず、「美月です」とだけ、静かに答えた。
老婆は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに「ああ、そうだったね」と笑って流した。
悪気がないことはわかっていた。
それでも、家に帰るまでの道のりが、いつもより長く感じられた。

帰り道、幼なじみの由紀とばったり会った。
由紀はもう二人の子どもの母親で、自転車の前と後ろに子どもを乗せていた。
一瞬、驚いた顔をしたが、由紀はすぐに「美月ちゃん、久しぶり」と、迷いなく名前を呼んだ。
その自然さに、美月のほうが驚いた。

「聞いてたから。母さんから」

由紀は事もなげに言い、子どもたちを紹介した。
上の子は人見知りをして自転車の陰に隠れ、下の子はきょとんとした顔で美月を見上げていた。
立ち話は五分ほどで終わったが、別れ際、由紀は「祭り、見に行くね」と笑った。
その笑顔に他意はなく、ただの近況報告のようだった。
それだけのことが、この数日で一番、胸に染みた出来事だった。

夕食の席で、母は「美月」と呼ぶようになっていたが、父はまだ、名前を呼ばずに済む言い方ばかりを選んでいた。
「お前」「そっち」「おい」。
父なりの距離の取り方なのだと、美月は思うようにしていた。
それでも、箸を持つ手が、ときどき止まった。
父の視線が、テレビと美月のあいだを、何度も行き来していた。

ある晩、風呂上がりに縁側に座っていると、父が珍しく隣に腰を下ろした。
何か言いかけては、結局何も言わずに、缶ビールを一口飲んだ。
二人のあいだに、蚊取り線香の煙だけが揺れていた。

「祭り、頑張れよ」

父はそれだけ言うと、立ち上がって家の中に戻っていった。
名前は、呼ばれなかった。
それでも、その一言が、これまでで一番、名前を呼ばれたのに近い感触を残した。
美月は縁側にひとり残り、しばらく星空を見上げていた。


父の背中

翌日の昼、美月は父が一人で農機具小屋を片付けているのを見かけた。
声をかけようか迷ったが、結局、黙って手伝うことにした。
父は驚いた顔をしたが、何も言わずに、隣で鍬を渡してきた。

しばらく無言のまま、二人で古い農具を整理した。
錆びた鎌、割れた柄、埃をかぶった肥料袋。
父の手は、記憶にあるよりも節くれ立っていた。
時が経ったのは、自分だけではないのだと、美月は思った。

「昔、お前が小さい頃さ」

不意に、父が口を開いた。

「山に迷い込んで、半日戻ってこんかったことがあったろう」

美月は覚えていた。
あの日、対岸で気配に出会った日のことだった。

「あんとき、探しに行って、お前が沢のそばに座ってるのを見つけてな。呼んでも返事せんで、じっと水を見てた。あの目を、今でもたまに思い出す」

父はそれ以上、多くを語らなかった。
ただ、鍬を壁に立てかけると、「まあ、元気ならいいわ」と言って、小屋を出て行った。
その背中を、美月はしばらく見送った。
認めるとも、拒むとも言わない、あの背中だけが、父にできる精一杯の言葉なのかもしれないと思った。


電話

夜、部屋の片付けをしていると、都内の同僚から電話がかかってきた。
二学期の授業準備の件で、確認したいことがあるという。
事務的な話が終わったあと、同僚はふと、「田舎、どう?」と聞いてきた。

「祭りの舞を頼まれて、練習してる」

美月がそう答えると、電話の向こうで小さく笑う声がした。
「桐生先生が巫女さん。想像つかないな、いいけど」。
その気軽な言い方に、美月も自然と頬が緩んだ。
都内では当たり前になっている呼び名と扱いが、ここではまだ、誰もが手探りで確かめている最中だということを、あらためて思った。

電話を切ったあと、美月はしばらく携帯の画面を見つめていた。
ふたつの生活が、同じ自分の中に同時にあることが、不思議な感覚だった。
教壇に立つ自分と、扇を手に稽古をする自分。
どちらも噓ではなく、どちらも本当だった。
ただ、その二つをつなぐ線が、まだうまく見えないだけなのだと思った。

窓の外では、虫の声がいつもより高く響いていた。
美月は電気を消し、しばらく暗闇の中で、その声に耳を澄ませていた。

舞の稽古

神社の舞は、代々村の女性たちが受け継いできたものだった。
指導役は、もう八十を超える宮司の妻、幸子だった。
境内の隅、拝殿の裏手で、扇を持った幸子が最初の型を見せてくれた。

「見て覚えるもんだよ、これは」

幸子はそう言って、ゆっくりと腕を上げた。
動きは水が流れるように滑らかで、次の瞬間には風のように鋭くなった。
美月はその型を、何度も繰り返しなぞった。
膝が笑い、腕が上がらなくなっても、幸子は急かさなかった。

「体が、覚えるまで待つんだよ」

夕暮れの境内で、蝉の声に混じって扇の音だけが響いた。
汗だくになりながら振りを重ねるうち、美月はふと、自分の体が、これまでとは違う目的のために動いていることに気づいた。
人に見せるためではなく、何かに届けるための動き。
奉納、という言葉の意味が、少しずつわかってきた。

稽古の合間、幸子は若い頃、自分もこの舞を奉納したのだと話してくれた。

「あたしの頃は、これが女に生まれた証しみたいに言われてね。今はもう、そんなこと誰も言わないさ。ただ、村のために舞う人がいる。それだけで、十分ありがたいんだよ」

その言葉に、美月は救われる思いがした。
証しではなく、役目として舞う。
それなら、自分にもできる気がした。

稽古の日を重ねるうち、型は次第に体に馴染んでいった。
最初はぎこちなかった扇の返しも、今では自然な流れの一部になっている。
幸子は時折、太鼓の代わりに自分の手拍子でリズムを取りながら、細かい所作を直してくれた。
「そこ、もう少しゆっくり」「目線はまっすぐ」。
指摘はいつも簡潔で、無駄がなかった。

蜩の声が響き始める夕暮れどき、拝殿の屋根の向こうに、赤く染まった空が広がっていた。
美月はその空を背に、何度も同じ型を繰り返した。
汗が額を伝い、顎の先から滴り落ちても、不思議と苦にならなかった。

稽古の帰り道、幸子がぽつりと言った。

「あんたの舞、いいよ。無理に女らしくしようとしてない」

その言葉に、美月は何も返せなかった。
ただ、胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。
西日が境内の石畳を橙色に染め、二人の影を長く伸ばしていた。


幸子の家

稽古の帰り、幸子に誘われて、社務所の隣にある古い家に立ち寄った。
畳の匂いのする居間に通され、麦茶を出された。
壁には、白黒の写真が何枚も飾られていた。

「これが、うちの母。これが、あたし。これが、あたしの娘」

幸子は写真を指しながら、順に説明してくれた。
どの写真も、同じ緋袴姿の若い女性が、同じ神社の境内で扇を構えている。
時代ごとに髪型や写真の質感は違うが、扇を持つ手の角度だけは、不思議なほど揃っていた。

「娘は、今は町で働いてる。孫は、まだ小さくてね」

幸子の声には、寂しさと誇らしさが半々に混じっていた。
この村で舞を継ぐ者が、もう自分の血縁の中にはいないという事実を、幸子は静かに受け止めているようだった。

「だから、あんたに頼めて、良かったと思ってるよ」

その言葉に、美月は写真の列に自分が加わることを、少しだけ想像した。
血のつながりはなくても、この村で舞う女性の列に、自分の一枚が並ぶのかもしれない。
そう思うと、不思議な落ち着きが胸に広がった。

帰り際、幸子は美月の手を取り、まめだらけの手のひらをじっと見た。

「いい手だね。よく働く手だ」

それだけ言って、幸子は笑った。
美月はその笑顔を、しばらく忘れられなかった。

家を出るとき、幸子は玄関先までついてきて、「無理はしないでいいからね」と、もう一度念を押した。
境内へと続く道を歩きながら、美月は振り返った。
幸子は戸口に立ったまま、こちらを見送っていた。
老いた背中が、夕闇の中に小さく浮かんでいた。
あの写真の列に連なる、最後の一人としての姿だった。


水音

夕方、母が「少し歩こう」と誘ってきた。
二人で連れ立って、川沿いの道を歩いた。
子どもの頃、よく二人で歩いた道だった。
母は先を歩き、美月はその半歩後ろを歩いた。

「あんたが小さい頃、ここでよく石投げしてたよね」

母が不意に言った。
美月は、あの沢での記憶を思い出した。
母は知っていたのだろうか、それとも、ただの偶然の記憶なのか、聞くことはできなかった。

「あの頃から、あんたは、ちょっと違う目をしてた気がする」

母は川面を見つめたまま言った。
「違う目、って言うと変だけど。何かを、いつも探してるみたいな目」

美月は何も答えなかった。
ただ、その言葉が、これまで誰からも言われたことのない種類の言葉であることに、気づいていた。
責めるでも、慰めるでもなく、ただ観察してきたことを、静かに差し出してくれている。
それだけで、十分だった。

川面には、夕日が長く伸びて映っていた。
二人はしばらく無言のまま、水の流れを見ていた。
やがて母が「戻ろうか」と言い、二人は来た道を引き返した。
帰り道、母の歩調は、行きよりも少しだけゆっくりだった。


子どもたち

境内で舞の稽古をしていると、いつからか、小さな見物人たちが集まるようになった。
近所の子どもたちが数人、拝殿の階段に座り込んで、飽きもせず稽古を眺めている。

「おねえちゃん、それ何の踊り?」

一番小さな女の子が聞いてきた。美月は扇を止め、「神様に、村の無事を伝える踊りだよ」と答えた。
女の子は「ふうん」とうなずくと、隣の子と何やら小声で話し始めた。
大人たちのような複雑な視線は、そこにはなかった。
ただ、扇を持つ美月の姿を、素直に「おねえちゃん」として見ているだけだった。

ある日、由紀の上の子が、恐る恐る近づいてきて、扇を触らせてほしいとせがんだ。
美月がしゃがんで扇を渡すと、子どもは慎重な手つきでそれを開き、真似をして振ってみせた。
危なっかしい仕草に、周りの子どもたちがどっと笑った。

その笑い声を聞きながら、美月はふと、境界というものが、まだこの子たちの中には存在しないのだと気づいた。
役目も、名前も、体の形も、この子たちにとっては、ただ目の前にある「おねえちゃん」以上の意味を持たない。
その屈託のなさが、これまでの緊張を、少しだけ和らげてくれた。


幻の光

祭りの三日前、美月は最後の水路の手入れを終えたあと、精霊にもう一度呼ばれた。
空き地に着くと、いつもと空気が違っていた。
光が、少しだけ濃く見えた。
木々の輪の中心に、細かい水滴が漂っているようだった。

「見せておこう」

精霊がそう言うと、周囲の空間が、水面のように揺らいだ。
美月の前に、ゆっくりと像が結ばれていく。

それは、断片的な光景だった。
見知らぬ部屋で、鏡の前に立つ自分。
輪郭が今よりもなめらかで、迷いのない仕草で髪をとかしている。
次の瞬間には、砂浜を歩く後ろ姿。
風にワンピースの裾がなびいている。
誰かと笑い合う声。
顔ははっきりしないのに、その笑い方だけが、確かに自分のものだとわかった。
教室らしき場所で、生徒たちに囲まれて笑っている場面も、一瞬だけ見えた。
台所に立ち、母と並んで何かを煮ている場面もあった。
この山の空き地に、また夏になって立っている自分の姿も、一瞬だけ映った。
そのときの自分は、今よりも少しだけ、肩の力が抜けているように見えた。

像は長くは続かなかった。
霧のように薄れ、やがて消えた。
美月は気づくと、頬が濡れていた。
声を出さずに、しばらくその場に立ち尽くした。
悲しいのか、嬉しいのか、自分でもわからなかった。
ただ、涙だけが、止まらずに流れ続けた。

「あれは、まだ、確かなものではない」

精霊が静かに言った。

「境を越えた先に、何があるかは、おまえ自身が結ぶことだ」

美月は涙を拭い、深く息を吸った。
まだ何も確定していない。
それでも、その不確かさが、これまでのように怖いものには感じられなかった。
むしろ、自分の手でこれから形づくっていけるのだという実感が、静かな熱として体の中に残った。

帰り道、村の集会所の前を通ると、数人の男たちが立ち話をしているのが聞こえた。

「男が巫女装束着て舞うなんて、聞いたことねえ」

「久保田さんも、何を考えとるんだか」

声は美月に気づくと、ぴたりと止んだ。
美月は立ち止まらず、そのまま前を通り過ぎた。
背中に視線が刺さるのを感じながら、足取りだけは変えなかった。
家に着いてから、その言葉を誰にも話さなかった。
ただ、その夜は少し長く、鏡の前に座っていた。


陰口

祭りの前々日、母が買い物から帰ってくると、いつもより表情が硬かった。
理由を聞いても、しばらくは何も言わなかったが、夕食の後片付けをしながら、ぽつりとこぼした。

「集会所の帰りに、何人かに言われてね。あんたのこと」

美月は手を止めた。母は続けた。

「昔の名前がどうとか、男が舞うのはおかしいとか。好き勝手言うから、言い返してやった」

母は珍しく、少し怒った口調だった。

「うちの娘の何が悪いのって。あんたが山の手入れ、毎日どれだけ頑張ってるか、知りもしないくせに」

美月は何も言えなかった。
母がそこまで自分を庇ってくれるとは、思っていなかった。
皿を洗う母の背中を見つめながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。

「ありがとう」

やっとそれだけ言うと、母は振り返らずに、「当たり前でしょう」とだけ答えた。
その素っ気なさの中に、これまで積み重ねてきた時間の答えが、確かに込められている気がした。


祭りの朝

祭り当日、村は朝から普段とは違う音に満ちていた。
軽トラックが屋台の資材を運び、子どもたちが提灯の位置を確かめながら走り回っている。
神社の境内では、氏子たちが幟を立て、拝殿の前に注連縄を張り替えていた。
蝉の声に、金槌の音や、屋台の骨組みを組む声が重なった。

美月は朝一番で山に入り、精霊に最後の礼を言うつもりだったが、空き地には誰の気配もなかった。
木々だけが、いつもと変わらず静かに立っていた。
何も言われないまま帰路につくことに、少しだけ寂しさを覚えたが、それもまた境のひとつなのだろうと思い直した。

神社の階段では、地元の中学生たちが法被を着て、祭りの案内係の練習をしていた。
慣れない手つきで団扇太鼓を叩く音が、境内じゅうに響いていた。
屋台の準備をする大人たちの間を、金魚すくいの水槽を運ぶ軽トラックが慎重に通り抜けていく。
美月はその光景を、しばらく境内の隅から眺めていた。

昼過ぎ、母が朝から漬けていた胡瓜の浅漬けを、近所に配って回った。
美月も一緒について回り、久しぶりに顔を合わせる人たちと、短い立ち話を重ねた。
名前を間違える人もいれば、迷わず「美月ちゃん」と呼ぶ人もいた。
そのどちらにも、以前ほど心を乱されなくなっている自分に、美月は気づいた。

夕方、社務所に向かう道すがら、久保田に呼び止められた。

「今日は、無理せんでいいからな。何かあったら、すぐ言うんだぞ」

その言葉に、美月は素直に頭を下げた。
見た目の話ばかりだった最初の依頼とは、少し違う響きがあった。
境内では、幸子が最後の確認をするように、扇と装束を並べて待っていた。
西日を受けたその白い装束が、ひときわ眩しく見えた。


祭りの夜

祭り当日の夕方、社務所の奥の一室で、美月は幸子に手伝ってもらいながら装束を身につけた。
白い小袖に緋袴。
襟元を整える幸子の指先が、驚くほど丁寧だった。
鏡の中の自分は、これまで見たどの自分よりも、静かな顔をしていた。

帯を結び終えた幸子が、最後に髪飾りを挿してくれた。
鏡越しに目が合うと、幸子は何も言わず、ただ小さく微笑んだ。
その微笑みだけで、これまでの稽古の日々すべてが報われるような気がした。

境内には、すでに提灯の灯りが揺れていた。
太鼓の音が遠くから響き、参道には村人たちが集まり始めている。
屋台から漂う醤油の焦げる匂い、子どもたちの歓声、風鈴の音。美月は舞台の脇で、扇を胸の前で構えたまま、深く息を吸った。

昼間聞こえた男たちの声が、頭の隅をよぎった。
それでも、体はもう覚えていた。
稽古で重ねた何十回もの動きが、迷いを押し流していくのがわかった。
幸子が舞台の袖から、小さくうなずいてくれた。

太鼓が鳴った。
美月は舞台に上がり、扇を開いた。

最初の一振りで、境内の空気が変わったのを感じた。
灯りが揺れ、蝉の声が遠のき、ただ自分の呼吸と、太鼓の音だけが残った。
腕を上げるたびに、袖が風をはらんで大きくうねった。
足の運びは水のように、扇の返しは風のように。
幸子の教えてくれた型が、体の中から自然にあふれ出てくるようだった。

観客の中に、父の姿があった。
腕を組んだまま、微動だにせず、こちらを見ていた。
母は口元を押さえ、目を潤ませていた。
久保田は、何度もうなずいていた。
昼間、陰口を言っていた男たちの姿も、いつの間にか静まり返っていた。
由紀は、子どもたちの肩を抱きながら、目を輝かせてこちらを見ていた。

舞の中盤、風もないのに提灯の灯りが一斉に揺れた瞬間があった。
それが偶然なのか、それとも別の何かの気配なのか、美月には確かめる術もなかったが、体の芯が一段と軽くなったような感覚があった。
扇を大きく返すたびに、汗が飛び散り、灯りの光を受けて一瞬だけ輝いた。

腕を大きく広げる型に入ったとき、美月はふと、境内の隅、鳥居の陰に立つ、輪郭の定まらない誰かの気配を感じた。
目を凝らす余裕はなかったが、その気配は最後まで、静かにそこに留まっていた。
見届け人のように、あるいは、ただの通りすがりのように。

最後の型を終え、扇を静かに閉じたとき、境内は一瞬、しんと静まり返った。
それから、誰からともなく、小さなどよめきが広がった。
美しい、若い女性の見事な舞だった、と誰もが口々に言った。
拍手が波のように広がり、子どもたちが真似をして扇を振る仕草をした。

舞台を降りると、父が近づいてきた。
何か言おうとして、結局、言葉にならなかったのか、ただ小さくうなずいた。
それから、ぽつりと言った。

「……似合ってた」

それだけだった。
それだけで、十分だった。母は何も言わず、ただ美月の手をきつく握った。


境界を越えて

奉納を終え、社務所の奥の一室に戻ると、美月は一人になった。
祭りの喧騒が、遠く壁の向こうから聞こえてくる。
太鼓の音、子どもたちの笑い声、花火の音がときおり混じった。
装束を脱ぐ前に、少しだけ息を整えた。

小袖を脱ぎ、鏡の前に立ったとき、美月は自分の体の輪郭に、違和感を覚えた。
目を凝らし、確かめる。
舞台に上がる前まではあったはずのものが、そこにはなかった。
ただ、静かに、寄り添うようにして、消えていた。

驚きはあった。
それでも、恐怖ではなかった。
むしろ、長いあいだ止めていた息を、ようやく吐き出せたような感覚だった。
美月は鏡の前で、しばらくじっと自分を見つめ続けた。
約束は、果たされたのだと思った。
手のひらで、自分の体を確かめるように、ゆっくりとなぞった。
これまで長い時間をかけて向き合ってきた違和感が、そこにはもう見当たらなかった。

社務所の外から、幸子の声がした。「大丈夫かい」。
美月は少し間を置いてから、「大丈夫です」と答えた。
声は思っていたより落ち着いていた。

装束をたたみながら、美月は窓の外の花火を見た。
小さな打ち上げ花火が、山の稜線の上で開いては消えていく。
その光の残像を、しばらく目に焼きつけた。
ひとつ、またひとつと開く光を数えながら、これまでの数週間のことを、順に思い返した。

その夜は誰にも言わず、装束をきちんとたたんで持ち帰った。
布団に入っても、なかなか眠れなかった。
天井を見つめながら、これから始まることの重さと軽さを、同時に感じていた。
窓の外では、祭りの後片付けをする声が、遅くまで続いていた。

何度も寝返りを打ちながら、美月は自分の体に手を当てた。
ここまでの道のりで、病院の待合室で過ごした時間、注射の痛み、鏡と向き合った無数の夜のことを、順番に思い出した。
そのすべてが、今この瞬間につながっているのだと思うと、不思議な感慨があった。
魔法のような一夜で全てが変わったのではなく、これまで積み重ねてきた小さな一歩一歩の、その延長線上に、今夜のことがあるのだと、美月は静かに感じていた。


山へ、また

翌朝、まだ暗いうちに、美月は目を覚ました。
誰にも気づかれないよう、そっと家を出た。手には、丁寧にたたんだ巫女装束を抱えていた。

山道を登る間、東の空が少しずつ白んでいった。
木々の間を抜ける光が、昨日までとは違う色に見えた。
空き地に着くと、朝霧がまだ地面を這うように残っていて、その中央に、精霊が立っていた。

美月は装束に着替え、扇を胸の前で持ったまま、深く頭を下げた。
言葉は多く必要なかった。ありがとうございました、とだけ言った。

「境は、結ばれた」

精霊は静かに言った。

「これで、終わりではない」

「わかっています」

美月は答えた。
体は変わっても、村の人々の呼び方が、家族との時間が、これから先の医療のことが、すべてが一瞬で終わるわけではないことは、この数週間でよくわかっていた。
それでも、ひとつの境が、確かに結び直されたことも、また確かだった。

「来年の夏も、来ます」

美月がそう言うと、精霊の輪郭が、朝の光にわずかにほどけた。
応えるように、木々の葉が一斉に揺れ、沢の音が少し高くなった。
返事なのかどうかは、わからなかった。
ただ、拒まれてはいないことだけは伝わってきた。

数日後、美月は都内に戻る支度をした。
荷物をまとめていると、母が部屋に顔を出し、「これ、持っていきなさい」と、あの夏祭りの日に配った浅漬けと同じ味のものを、瓶ごと差し出した。
美月は礼を言い、鞄の隙間に丁寧に詰めた。

玄関先で、母が「気をつけてね」とだけ言い、父は少し離れたところで、黙って頭を下げた。
名前は、まだ呼ばれなかった。
それでも、その頭の下げ方には、以前にはなかった何かが混じっていた。
バス停まで送ってくれた母は、バスが来るまでの間、隣に黙って立っていた。
何を話すでもなく、ただ二人で同じ方向を見ていた、その時間だけで十分だった。

駅までの道すがら、山を振り返ると、稜線が朝靄に霞んで見えた。
バッグの内ポケットには、都内の病院で予約を取った紹介状の控えが入っている。
次の診察の日付を、指先でそっと確かめた。
九月の第二週。もう、遠い先の話ではなかった。

電車が動き出すと、車窓に山影がゆっくりと流れていった。
美月はその輪郭が見えなくなるまで、目で追い続けた。
あの山は、これから先も、そこにあり続けるのだろう。戻れる場所として。


十月

九月の診察を終え、十月に入った頃、美月は職員室の窓から、色づき始めた街路樹を眺めていた。
担当医から説明された今後の手続きについて、まだ誰にも話していない。
ただ、鞄の中には、次回の予約票が入っている。

放課後、教室の黒板を消しながら、ふと山の水路の音を思い出した。
あの静かなせせらぎの音は、今もどこかで続いているはずだった。
窓の外の欅並木が、風に揺れている。

机の上には、母から届いた小包があった。開けると、あの日と同じ胡瓜の浅漬けの瓶と、短い手紙が一枚入っていた。
「また来年、待ってるから」とだけ、書かれていた。
美月はその一文を、しばらく指でなぞった。

手紙の下には、もう一枚、小さな写真が挟まっていた。祭りの夜、舞台の上で扇を構える自分の姿だった。
誰が撮ったのかは書かれていなかったが、裏には父の字で、短く「よく撮れた」とだけあった。
美月はその写真を、しばらく窓の光にかざしてから、そっと手帳の間に挟んだ。

職員室の窓から、夕暮れの街並みを見渡す。
ビルの向こうに山は見えないが、水路を流れる水の音だけは、耳の奥に、まだ確かに残っていた。

夏が、また来る。



夏祭りの夜。扇を返すたびに、灯りが揺れた。誰も知らない約束が、ひとつ結ばれた夜のこと。

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