女の子をいいなって思うたび、なぜか柑橘の香りがする
プールサイドに並んだバスタオルが、夏の光を受けて白く光っていた。
中学二年の夏。
体育の授業が終わり、クラスメイトたちが次々と更衣室へ向かう中、僕は自分の席で水着を脱ぎ、制服に着替えていた。
前の席では、髪の長い女子がバスタオルで濡れた髪を拭いている。
その時だった。
レモン、いや、オレンジ、それともみかん——うまく言葉にできない、爽やかな香りがふわりと鼻をくすぐった。
プールの塩素臭に慣れていた僕の感覚に、それはあまりにも鮮烈だった。
「香水つけたの?」
思わず声をかけていた。
前の席の子は振り返り、少し呆れたような顔で答えた。
「香水なんてオバサン臭いのつけないよ」
そう言って、また髪を拭き続ける。
バスタオルに包まれた細い腕、うなじに張り付いた髪、その仕草のひとつひとつが、なぜかとても眩しく見えた。
女の子って、こんなふうに綺麗なんだ。
それが、僕の中で何かが変わった瞬間だった。
それから、不思議なことが起こるようになった。
授業中、窓際の席に座る女子が髪を耳にかける。
その何気ない動作に見とれていると、どこからともなくあの柑橘系の香りが漂ってくる。
誰かがシャンプーを変えたのか、それとも香りつきの消しゴムでも使っているのか。
周りを見回しても、香りの出どころは分からない。
ただ、その香りを感じた翌日、僕の体には小さな変化が起きていた。
喉仏が、ほんの少しだけ引っ込んでいる気がした。
下腹部の、男である証も、心なしか小さくなったように感じた。
気のせいかもしれない。でも確かに、何かが変わり始めていた。
電車に揺られて塾へ向かう日。
隣に立った背広姿の男性から、甘ったるい香りが漂ってきた。
後に知ることになるムスクの香り。
当時の僕はただ、「女を誘ってるみたいで嫌だな」と思った。
鼻をつく重たい匂いに、小さく顔をしかめる。
その感覚は、あの柑橘系の香りとは正反対だった。
夏のプール授業。
スクール水着姿の女子たちが水辺ではしゃいでいる。
濡れた肌、水滴を弾く髪、プールサイドを走る素足。
その光景を眺めていると、またあの香りがした。
真夏のプールサイド、塩素の匂いしかないはずの場所で。
その日の夕方、デオドラントシートで首筋を拭く女子を見かけた。
汗を気にして、こまめに体を拭く姿。
女の子って、こんなに綺麗好きなんだ。そう思った瞬間、また香りが鼻をかすめた。
翌朝、鏡を見る。
股間の膨らみが、また少し小さくなっていた。
勉強は得意だった。
授業を真面目に聞かなくても、テストで点は取れる。
だから授業中は、いつも窓の外や教室の風景をぼんやりと眺めていた。
女子の横顔、制服のリボン、スカートの裾、上履きのかかと。
見ているだけで、胸の奥が温かくなる。
そしてその度に、柑橘の香りが訪れた。
高校は県内有数の難関校に合格した。
そこでも授業は余裕だった。
むしろ、観察する対象が増えたことが嬉しかった。
高校生になると、薄くメイクをしてくる子も多い。
リップの色、アイラインの引き方、頬の紅み。
女の子たちの変化を見ているだけで、時間はいくらでも過ぎていった。
高校に入ってすぐ、スーパーで品出しのアルバイトを始めた。
放課後、制服のまま店に向かい、商品を棚に並べる。
単純作業だったが、小遣いにはなった。
中学の時、プールで見たスクール水着の記憶が、ずっと心に残っていた。
あの、体のラインを包み込む紺色の布地。
あれを、自分も着てみたい。
ネット通販で注文したスクール水着が届いたのは、梅雨の晴れ間の日だった。
部屋の鍵をかけ、制服を脱いで、おそるおそる腕を通す。
鏡に映った自分は、思ったより似合っていた。
股間の膨らみは、もうずいぶん小さくなっていた。
スクール水着を着る度に、それはさらに目立たなくなっていった。
友達とカラオケに行く。
ファミレスでだべる。
そんな何気ない日常の中で、女の子たちの私服を見る機会が増えた。
ワンピース、スカート、カーディガン。
色とりどりの服を着こなす同級生たち。
いいな、と思う。
自分も着てみたい、と思う。
そうすると、柑橘の香りが漂ってくる。
アルバイトで貯めたお金で、通販サイトを開く。
スカート、ブラウス、ニーソックス。
カートに入れる手が震えた。
最初は部屋で着るだけだった。
でもそれだけでは、もう満たされなくなっていた。
メイクの仕方を動画で学んだ。
ファンデーション、アイシャドウ、リップ。
鏡の中の自分が、少しずつ変わっていく。
休日、女の子の格好で外に出た。
誰も僕を男だとは見なかった。
高校三年の秋。
柑橘の香りは、もう外から漂ってくるものではなくなっていた。
それは僕自身から、自然に発せられるようになっていた。
胸には小さな膨らみができ、ブラジャーなしでは制服が着られなくなった。
腰回りはふくよかになり、お腹から腰にかけてくびれが生まれた。
体毛は全て消え、脚はどこまでも滑らかだった。
股間にあったはずのものは、跡形もなく消えていた。
鏡を見る。
そこに映っているのは、完全な女の子だった。
卒業式の朝。
制服のブレザーを羽織りながら、窓の外を見た。
春の光が、街路樹の若葉を照らしている。
どこからか、懐かしい香りがした。
レモンでも、オレンジでも、みかんでもない。
あの日、プールサイドで初めて感じた、名前のつけられない香り。
それは今、確かに僕自身から薫っていた。
胸元に手を当てる。
心臓の鼓動が、静かに響いている。
これから先、僕はどうなっていくのだろう。
その答えは、まだ風の中に溶けている。
ただひとつ確かなのは、あの日感じた「女の子って、綺麗だな」という想いが、今も胸の奥で、柑橘の香りとともに、静かに息づいているということだけだった。

