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灯りを消すけど寝ない夜 【ショートショート0081】

金曜の夜。
田代美咲(たしろみさき)は、窓を開けて夜風を入れた。
昼間の熱を含んだ風が、カーテンをふわりと揺らす。
机の上には、彼が好きな白ワインと、煮込んでおいた鶏肉のトマトソース。
週末だけ、彼はここに泊まりにくる。
仕事も、職員会議も、テスト採点も――その時間だけはすべて遠くなる。

チャイムが鳴った。
「おじゃまします」
彼の声を聞くだけで、心が軽くなる。
斎藤悠真(さいとうゆうま)、三十二歳。
広告会社に勤める。
彼の持つ香りは、どんな柔軟剤よりも落ち着く匂いがした。
「雨、降ってた?」
「少しだけ。髪、湿気すごいでしょ」
笑いながら、彼はタオルを受け取る。
その仕草を見て、美咲はふと、今日が特別な夜になる予感を覚えた。

食卓を挟んで向かい合う。
グラスが小さく触れ合う音がして、トマトの香りとワインの酸味が重なった。
「先生ってさ、飲むと優しくなるよね」
「普段は怖いってこと?」
「ううん。真面目すぎて、近づきづらいだけ」
「それ、褒めてないよ」
そんな軽口を交わしながら、笑い合う。
誰かとこんなふうに笑うのは、いつぶりだろう。

食後、彼は食器を片づけてくれた。
洗い物の音と、テレビの小さな笑い声が重なり、静かで穏やかな夜が続く。
気づけば、ソファに並んで座っていた。
美咲は膝に毛布をかけ、悠真は隣でスマホをいじっている。
けれど、画面を見る彼の指先が、時おり、さりげなく美咲の手に触れる。
ほんの少し、重なるだけの指。
それだけで、心臓の奥がじんわりと熱くなる。

「美咲」
名前を呼ぶ声が、少し掠れていた。
「ん?」
返事をするより先に、頬に触れる指の温度。
息が、ゆっくりと混ざる。
視線が合い、彼の瞳に、自分が映っているのが見えた。
「ねえ、先生」
「なに?」
「今日、なんか、雰囲気違う」
「そう?」
「うん。たぶん、ワインのせい」
そう言って、彼は笑った。
その笑顔が近づいて、光が一瞬、遠くなった。

彼の指先が髪をすくい、耳の後ろをなぞる。
その動きに合わせて、美咲の呼吸が浅くなる。
夜の空気が、ふたりの肌をやわらかく包んでいた。
灯りを落とすと、窓の外の街灯の光がカーテンの隙間から差し込み、影だけが揺れていた。
声は出ないのに、心の中では、何度も彼の名前を呼んでいた。

時間の感覚が、少しずつ曖昧になる。
時計の針の音が、遠ざかる。
肌に残る指の温度、髪を撫でた時の息遣い、唇に触れたかすかな風。
どれも現実なのに、夢の続きのようで――
そして、灯りを消す前のあの一瞬だけ、世界がふたりだけになった。


朝。
カーテンの隙間から射し込む光が、シーツを白く照らしている。
目を覚ました美咲の髪を、悠真の指が静かに整える。
「おはよう」
「おはよう。……寝不足でしょ?」
「うん、でも気分はいい」
「そっか」
「でも、ホントは疲れちゃった。激しいだもん」
微笑み合うだけで、言葉はいらなかった。
昨夜のぬくもりが、まだ部屋に漂っていた。

トーストを焼きながら、美咲はふと思う。
この穏やかさを、いつまで続けていけるだろう。
仕事も、責任も、歳月も――全部まとめて受け入れてくれる人なんて、そう多くはいない。
けれど、悠真はそんな彼女の不器用さを笑ってくれる。
「先生って、考えすぎるタイプだよね」
「数学のせいかも」
「じゃあ、たまには感情で解く練習もしなきゃね」
彼の言葉に、美咲は吹き出した。
「何それ。算数っぽく言わないで」
「ほら、先生の笑い方、好きなんだよな」

トーストの香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がる。
ワインの残り香と混ざって、少し甘く、少し切ない。
休日の朝の音――湯を沸かす音、歯磨きの水音、どれもが日常のBGM。
でもそのすべてが、今は幸せの証のように思えた。

「来週も来ていい?」
悠真がコーヒーを飲みながら聞く。
「うん。約束ね」
そう言った後、彼が差し出した指を、美咲はそっと握り返した。
その瞬間、窓の外から冬の光が差し込み、テーブルの上のふたりの影をやわらかく重ねた。

――灯りを消しても、心の中には、まだぬくもりが灯っている。

疲れました

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