「みんな心配してたよ」が、不登校の子を疲れさせる日
久しぶりに学校へ行けた日の夕方。
帰ってきた子に「みんな何て言ってた?」と聞きたくなりますよね。
今日はその質問を、そっとしまっておく話です。
うれしい報告の夜に、子どもは浮かない顔
その夜、担任から電話がかかってきます。
「クラスのみんなが心配して、何度も声をかけてくれたんですよ」
思わず顔がほころびますよね。
忘れられていなかった。
優しい友達に恵まれている。
ところが当の本人は部屋にこもったまま。
「みんな心配してたって。よかったね」と声をかけても、返事は「別に」だけです。
保護者会で3,500の家庭と向き合ってきました。
手元の本音カードは1,000枚を超えます。
その中に、こんな一枚があります。
学校に行った時に友達から心配されるのが逆にいやだった
── 中高生の本音カードより
心配されるのが、いや。
ぜいたくな悩みに聞こえるかもしれません。
でもこの短い言葉の奥に、久しぶりの教室でしか起きない出来事が隠れています。
「いつも通りの自分」で行ったのに
あの朝、子どもは何ヶ月分もの勇気をかき集めて制服を着ています。
目標はたったひとつ。
「いつも通りの自分」で教室に混ざることです。
何事もなかったような顔で席に着く。
普通の生徒のひとりに戻る。
それが本人の作戦でした。
そこへ「心配してたんだよ」「無理しないでね」が次々に届きます。
言葉そのものは温かいものです。
でも心配の言葉は、スポットライトに似ているんですよね。
客席にそっと座りたかったのに、声をかけられるたびに自分だけが照らされる。
「普通の生徒」に戻るつもりだったのに、「休んでいた特別な人」という役を何度も確認させられる。
心配される回数だけ、「きみは普通じゃない」というラベルが貼り直されていくわけです。
善意は本物です。
痛みも本物です。
どちらかが嘘なのではなく、同じ言葉が受け取る側の位置で別の意味になるだけなんですよね。
親には「つながり」、子には「ラベル」
親にとって「みんな心配してたよ」は最高の知らせですよね。
孤立していなかった証拠であり、戻れる場所がある証拠だからです。
喜ぶのは当然です。
その喜びは間違っていません。
友達の優しさも、担任の電話も本物です。
ただ、子どもが同じ言葉から受け取ったのは「自分は心配される側なんだ」という現実のほうでした。
学校へ行けた日ほど、視線のコストが高いんですよね。
みんなの善意を浴びること自体が、あの日いちばんの重労働だったのかもしれません。
だから帰ってきた子がぐったりしていても、それは失敗のサインではありません。
大仕事を終えた印です。
今夜からできる3つのこと
ひとつ。
「みんな何て言ってた?」と聞かないことです。
教室の再現インタビューは、しまったはずのスポットライトをもう一度点けてしまいます。
ふたつ。
いつも通りの夕飯と、学校に関係ない会話です。
行けた日くらい特別な夕飯にしてあげたい。
そう思うのが親心ですよね。
でも「何も特別扱いされない夜」こそが、頑張った子へのいちばんのねぎらいになります。
みっつ。
もし子どもが「心配されるのが逆にいやだった」とこぼしても、「せっかく心配してくれたのに」と正さないことです。
代わりに、こう翻訳して返してあげてください。
心配されるのも、疲れるよね
分かってもらえたと感じた分だけ、次に教室へ向かう足取りは軽くなります。
行けた日の夜に親ができる最大の応援は、拍手ではなく「いつも通り」を続けることです。
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