ウェルビーイングとは、快ではなく“不快とのつきあい方”である
赤ちゃんは「嬉しいから笑う」よりも、「不快だから泣く」ことの方が多い。
お腹がすいた、眠れない、オムツが気持ち悪い。赤ちゃんのアラートは、いつも「不快」を知らせている。
実家に帰って妹夫婦の子供を見ていて、ふと思った。
「人って、幸せになりたいから動くのではなくて、“不快をなくしたい”から動くんじゃないか?」
僕たちはよく、「もっと幸せに」「もっと快適に」と願うけれど、
本当は「ちょっぴりマシになること」こそが、日々の原動力なのかもしれない。
そんな疑問を出発点に、「ウェルビーイングとは何か?」を考えてみたい。
「幸せになりたい」は、どこかズレている?
ウェルビーイングという言葉が広まって当たり前に耳にするようになった。 それはしばしば、「心身の健康」や「満ち足りた生活」などと訳される。 でも、その響きにはどこか、無理に“ポジティブ”を押しつけられるような居心地の悪さもあって個人的には苦手だ。
WHOやOECDの定義では、「病気でないこと」ではなく、「心・体・社会的にも満たされた状態」とされる。
なるほど、それは理想的かもしれない。 けれど、僕たちの毎日は、そんな理想からはだいぶ離れている。「どうにか今日をやりすごす」「なんとかギリギリで踏ん張る」といった、 “快”というより“ちょっとだけマシ”の積み重ねでできている気さえする。現実はだいぶハードモードだ。
赤ちゃんが教えてくれる「行動の源泉」
ここで妹夫婦の赤ちゃんの話に戻ってみる。彼の行動を観察すると 「嬉しいこと」に反応して動くよりも、「不快」に反応してアクションを起こす。 泣く、身をよじる、声を上げる、表情も体の動きも感情も、すべては「不快をどうにかしてほしい」というサインだ。
このことは、少し調べてみると、心理学や神経科学の文脈でも示唆されていいる。 人間の行動は「快を求める」よりも「不快を避ける」ことが動機になっていることが多いのではないか? という仮説が改めてぷかぷかと浮かび上がってくる。
例えば、スキナーの「負の強化」を取り上げてみると、
赤ちゃんが泣く → オムツを替えてもらう → 不快が除かれる → 「泣けば快が戻る」という学習が行われる。
これは「快を得る」よりも「不快を避ける・除く」ことが強い動機になりうるということにつながる。
そして現代神経科学の「予測処理理論」なども、“ズレをなくす”ことが脳の基本設計であると語っている。例えば、「不快=予測とのズレ(お腹がすいているのにミルクが来ない)」行動や注意は、この「誤差(予測エラー)」を解消するために起こされる。つまり、脳の最優先課題は「快」ではなく「不確実性や誤差の解消(不快の除去)」とも言えるのかもしれない。
「ウェルビーイング=快」ではないとしたら?
こうした視点を踏まえると、ウェルビーイングを「満たされている=快の最大化」と捉えるのは、やや単純すぎるかもしれない。 むしろ、「不快を排除する力」「不快とつきあう力」「不快を表現し受けとめてもらえる環境」 といった要素の中で、プラスがマイナスを少しでも上回っている状態の方が、ウェルビーイングの実感に近いのでは?と個人的には感じる。
嬉しいこともあるけど、つらいこともある。 でも、その揺れの中で自分を見失わず、なんとかバランスをとり続けられる。一日の終わりにちょっぴり今日はいい日だったなと思える。 それが“健やかさ”の正体なんじゃないか。
「ちょっぴりマシ」を大切にするということ
だとすると、ウェルビーイングとは、なにか特別な状態ではない。 「不快ゼロ」でもなければ、「常時ハッピー」でもない。 むしろ、「今日は昨日よりちょっぴりマシ」「この不快にはこう対処してみよう」といった、 小さな変化を味わったり、選択や対処を重ねる力のことなのだと思う。
最後に、僕が個人的に大事にしたいと思うこと。
それは、赤ちゃんのように自分の不快をちゃんと出せるということ。 そして、それを自分自身も、他の誰かもちゃんと受け止めてくれること、その環境があること。
それができる社会や関係性こそ、ほんとうの意味での“ウェルビーイング”を育てるのだと思う。
ふーちょっとだけスッキリした。
これが僕にとっての“ウェルビーイング”な状態の一つなのかもしれない。
