<書評>『ロリータ』
『ロリータLolita』ウラジミール・ナボコフ Vladimir Nabokov著 大久保康雄訳 河出書房新社 1977年発行 読んだのは1979年の第三版 原著は、パリで1955年発行した後、1958年にアメリカで発行。

いわゆるロリータ・コンプレックス(少女愛)と称される、精神分析学用語の原典となったスキャンダラスな小説である。ジグムント・フロイトによって始まった精神分析学は、ソフォクレスの『エディプス王』によって、エディプス・コンプレックス(マザー・コンプレックス)を見つけ、同じくソフォクレス『エレクトラ』によって、エレクトラ・コンプレックス(ファーザー・コンプクレックス)を見つけた。その後、マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』によって、サディズム(加虐性向)という用語を獲得し、ザッヘル・マゾッホ『毛皮を着たビーナス』によって、マゾヒズム(被虐性向)という用語を獲得したが、それらと同様に文学作品に表現された世界から、ロリータ・コンプレックス(少女愛)という変質者性向が世の中で言語化された。
ところで、一般に「コンプレックス」というと、何か否定すべき弱点のように受け取られているが、原義は文字通りに「複合」ということであり、精神分析学では「複雑・複合化した心理状態」と理解するのが正しい。従って、メディアなどで「○○コンプレックス」というように使用されているのは、精神分析学的には誤用であり、また問題の多い使い方である。そのため、本作品に表現されている「ロリータ・コンプレックス」を精神分析学に沿って私が意訳すれば、「小説『ロリータ』に表現された、少女に対する複合的心理状態が恋愛感情と混同したもの」となる。
従って本稿では、一般に通用している誤用でしかない「ロリコン」という奇妙な言葉を、どこにも使用していないことを予めお知らせする。「ロリータ・コンプレックスって、ロリコンのことでしょ?」という、短絡的な誤解を避けるのがその目的でもある。そして、カタカナにするとどうしても「ロリコン」と言う下品なイメージが付きまとってしまうため、私は、少しばかり上品に聞こえる「少女愛」という用語を使うことにした。
さて、この小説の主人公は、ハンバートハンバートという奇妙な名前を与えられている、ロシアからアメリカにやってきたフランス語に堪能な文筆家である(その背景は、著者ナボコフと酷似している)中年男性だが、彼が少女愛という性向を持つようになったのは、少年時代の身近にいた少女との恋愛及び性体験の失敗に起因しているように、小説は書かれている。彼は自らを変質者と認める一方で、同時に自らの行為を正当化するため、少女とは何か(何歳までか)について、英国やアメリカが規定している未成年の年齢を列挙している。そして、かつて男性は、自分の子供のように年の離れた女性を正式に婚姻した事例を沢山持っており、自分の行為は必ずしも犯罪行為ではないと弁護している。しかし、この「弁護」は、小説の構成としては余計な部分であったという印象が残る。出版当時の世論からは、この部分が必要であったのだろうが、現在の世論では陳腐な理屈にしか読めない。
なお、この未成年あるいは少年少女というイメージからは、神話的なアンドロギュヌス(アルテミス=ダイアナ)という、男女両性具有のイメージが浮かんでくる。そして、ヨーロッパの芸術作品では、このアンドロギュヌスのイメージは随所に見ることができる。しかし、そこまで本作品に対する話(論述先)を拡げてしまうと、小説のテーマから大きく逸脱してしまうと私は考えた。ナボコフは、そこまで大きなテーマを持ってこの小説を書いていないと直観したからだ。そのため、この男女両性具有という神話的イメージには触れずに、純粋に変質者による少女愛という部分を中心に私は論述していきたいと思う。
ところで、最近の日本では、映画などの内容をSNSなどで投稿すると、「ネタバレ」と言って、非常に嫌われる行為とされている。映画でも小説でも、「犯人は誰か」ということがテーマの作品なら、それ相応に「ネタバレ」に注意しなければならないが、これをなんでもかんでもすべてに適用して、「ネタバレするな!」と言われることは、とても残念な流行だと私は思っている。なぜなら、ミステリーのような特殊な場合を除いて、ストーリーとその結末について何も言及しないで、映画評や書評などを行うのは全く不可能だからだ。(そのせいか、「ネタバレ注意!」などという別の流行が生じている。世も末だ。)
話は変わるが、昔ラグビーの試合について、試合終了後の早い時間にブログへアップしたところ、「録画を楽しみにしているので、アップしないで欲しい」と強いクレームを受けたことがある。この時は、その時に参加していたウェブサイトのグループから退会する(同じ土俵に立たない)ことで自分なりに解決したが、現在まで「いったいいつの時点になれば、録画を気にしないで試合結果をアップできるのか?」という疑問が残っている。簡単に言えば、クレームを付けた人が録画を見終った時点がその「いつ」と言う時間になり、その後にようやく試合結果をアップできることになるが、そんな他人が録画を見終わった時間などを知ることはできないし、だいたいいつ録画を見るかなんて、それこそその当人の勝手だから、アップするための基準にするわけにはいかない。それで、この疑問の結論はつかないまま、クレームをつける人を相手にしないという対応に現在は落ち着いている。
横道に逸れてしまった。『ロリータ』に話を戻そう。
そもそも『ロリータ』なんて特殊な小説を読む人は限りなく少ないだろうし、また『ロリータ』という言葉は知っていても、それを題名にした(また、ロリータという言葉の最初となった)小説があることすら、多くの人は知らないと思う。そのため、これを免罪符にするわけではないが、私はこの書評では、物語の要所要所に出てくるポイントを「ネタバレ」して、記していきたいと思う。それこそ「これから読む予定だから、ネタバレしないで欲しい!」という人がいれば、以下の項目はご自分で読まれた後まで、無視することをお勧めする。
さて、その「ネタバレ」としての物語のポイントである。それは、次の項目になるだろう。(1)主人公の少年時代の少女との不成立だった性愛関係、(2)主人公のロリータの母との結婚、(3)ロリータの母の死、(4)ロリータとの全米にわたる逃避行、(5)ロリータの突然の逃亡、(6)ロリータの結婚と妊娠、(7)ロリータの逃亡を助けた劇作家の殺害。
この全体の流れを踏まえて、ナボコフ自らの解説「『ロリータ』について」で、述べているような、「文学の教師というものは、とにかく“作者の意図は何か”とか、さらにひどいものになると、“この作者は何を言わんとしているのか”などといった問題を持ち出したがるものだ。」という、大学教授=文学教師でもあるナボコフが嫌う読み方を、私は敢えてしてみたい。なお、ナボコフは、同じ自らの解説において、当然本作はポルノグラフィーではなく、また「いかなる教訓(モラル)もひきずっていない。」と述べ、「文学作品は、直截に美的悦楽とでも呼ぶべきものを与えてくれる限りにおいてのみ存在する。」と主張している。これを別の言葉で言い換えれば、「芸術的エンターテイメント」だろうか。
また、「ある国や社会階級、あるいは作者自身についての知識を得るために文学作品を読むなどということは子供じみている。」と述べ、あるアメリカの批評家が「『ロリータ』は空想小説(ロマンチックノベル)と私(ナボコフ)との愛の記録である」と評したと揶揄している。それでも、私はナボコフが嫌うフロイト(及びユング)の精神分析学の知識を援用しつつ、このナボコフが作り上げた「芸術的エンターテイメント」を、作者の生活する現代社会の文化人類学的背景をも踏まえて読み解いてみることにした。
まず、冒頭では、ヨーロッパ(ロシア)に生れた主人公が、少年時代に知人の少女との性愛に失敗するエピソードが語られる。精神分析学的に解釈すれば、この「失敗」が、主人公の少女愛へと変換していく原因と理解できる。さらに主人公は、少年時代に失敗した性愛を実現(再現)すべく、大都会パリなど知り合った女性や娼婦との性愛関係を積極的に持っていくが、それは満足すべきものとはならなかった。その理由は、理想的な「ロリータ」=「少年時代に出会った少女」ではなかったからだ。その後、成り行きで結婚していた女とヨーロッパという土地を捨て、主人公はアメリカへ逃亡する。
ここから主人公の人生は大きく動き出す。彼が勤務する大学の知人から紹介された下宿先は、未亡人と少女が生活する家だった。ここで主人公は、ようやく「ロリータ」と巡り合うことになる。主人公はロリータをなんてしても手に入れたいのだが、母親の手前それができない状況が続く。その一方で母親は主人公との再婚を熱望し、主人公は「ロリータ」を手に入れる戦略としてこれに従う。この結果、ロリータと主人公との関係は、母親の下宿人から義父になった。そう、法的には「ロリータ」を手に入れることになったのだ。しかし、ここから主人公とロリータとの関係は、一層複雑化する。それは、少女愛の対象としてのロリータと、義父として対する娘としてのロリータである。
ところが突然、主人公にとって邪魔なロリータの母親が事故死してしまう。主人公は、もしかすると「自分が殺害したのではないか」という妄想に捉われるが、これは明らかに事故死であった。しかし、この結果主人公は、念願のロリータを少女愛の対象として手に入れることになる。その変質者としての行為を隠微することを兼ねて、主人公とロリータはアメリカ中を死んだ妻(母)の使っていた車で旅する(奇妙な三角関係は、妻が車になることで継続する)のだが、旅をするうちにロリータは成長していき、気づいたときにはもう少女(「ロリータ」)ではなくなっている。
また、ロリータの成長に合わせて、下宿した街から遠くにある寄宿制の女子校に入れて、主人公は父親としての役割も演じるのだが、その姿は「演じる」ということよりも、そのまま父と娘とのごく普通にあるドラマのように描かれている。そこに変質者として性愛が絡んでいるとは言え、主人公とロリータとの日々の関係は、多感な年頃の娘をもてあます、旧世代の典型的な父親とその反抗的な娘の姿そのものになっていく。またそこには、アメリカ人の妻(母)を亡くした義父と一人娘との微笑ましい成長物語の趣さえも、読み取れる。この時点で、「ロリータ」は既に普通の思春期の少女に成長し、主人公の勝手なイメージからは逸脱している。
こうして物語はその後、女子校でテニスと演劇を熱心に学ぶ、思春期の娘を持つ義父の悩みへと変わって行く。その悩みの対象は、思春期の娘が同年代の異性と交際することになるが、主人公は、これを通常の父親以上に厳格にロリータへ禁じてしまう。それは、父親としてよりも恋人としての嫉妬心が大きく支配しているものに見えた。しかし、現実の父親の娘に対する同様の禁止行為にも、こうした精神状態(我が娘を他の男に盗られる)があるのではないか?精神分析学には、エディプスコンプレックスというのがあり、娘にとって最初の「彼氏」は父親とされている。また、父親にとって娘は「自分が所有する女」であるから、それを他人に盗られることは許しがたいという心理が働く。それは、異常でも変質性向でもなく、人が人であることの自然な心理状態と見なされている。
本作における主人公とロリータの関係には、このエディプスコンプレックスも大きく関与していると私は見ている。そして、このエディプスコンプレックスを乗り越えていくことが、そのまま思春期の少女の心の成長となるのだが、それを好ましく思えないのは、実際の父親でも主人公でも同様だろう。さらに、主人公はロリータを現実的な「恋人」にさえしているのだから、主人公がロリータを盗られたくないという気持ち、またロリータが父親から逃れたいというは、なおさら強いものとなるだろう。
もちろん、主人公は自分が変態性欲者であることは自覚している。またロリータ自身も自らの忌避すべき体験の意味を認識している。しかし、主人公には贖罪とそれと同じくらいの激しい恋愛感情があるのに対して、典型的なアメリカの無教養な田舎娘であるロリータは、意外とあっけらかんとして主人公に付き従っているが、一方で現在の環境から常に逃げたいと考えている。それは、変態性欲者から逃亡するというよりも、義父(保護者)から逃げるという行為にかなり近いものと読み取れた。ロリータは、変質者の手を逃れるよりも義父の強い関渉から逃げたいという、思春期特有の反応をより強く見せているように描かれている。
そのロリータの逃亡を実現するための手助けとなったのは、女子校で演劇を指導していた劇作家である。主人公が知らないうちに、劇作家は主人公とロリータの乗る車を追跡し、ついにチャンスを見つけてロリータを逃亡させる。主人公は、追跡者がいることに気づいているが、もしかするとこれは幻覚かもしれないという心理を見せるなど、この不安定な状況を継続させたいという現実逃避意識も強まっている。主人公は、義父あるいは恋人さらに変質犯罪者というあらゆる役割から、どんどんと浮遊していき、最後にはどれが本当の自分なのかわからなくなっているようだ。
そうして、ロリータが逃亡した後、主人公は必至にアメリカ中を探し回るが見つからない。その間、新しい女が出来て同居するが、彼女はロリータの代わりには決してならない。主人公の少年時代からのコンプレックスは、ロリータの少女時代によってのみ昇華されるものだったのだ。そうした中で突然ロリータから、アラスカで夫と暮らすための資金を無心する手紙が来る。主人公は、車を飛ばして、昔ロリータをドライブした道をデジャブのように移動した後、妊娠しているロリータとその夫に会う。主人公は、ロリータの夫をピストルで殺害するつもりだったが、会った瞬間にそうした気持ちは失せる。そして、ロリータの無心した以上の金を渡すとともに、逃亡のいきさつを知る。この結果、主人公の殺害対象は劇作家に向かうのだ。
なぜ、殺害対象が劇作家に向かったのか?それは、ロリータの夫には自らの男としての負けを認めたからであり、その一方で、ロリータを奪った張本人あるいは、ロリータが自らの思春期を終えて社会に出ることをさせた者として劇作家を認識し、同時に主人公と同質の変質者としての資質を持つ者として劇作家を認識したからではないだろうか。そのため、主人公は自らの少年時代から続くコンプレックスを最終的に昇華するためには、ロリータを得ただけでは十分ではなく、それを消滅する必要があったため、自分と同質の人間である劇作家を殺さねばならなかったのだろう。つまり、劇作家を殺すことは自分のコンプレックスも殺すことにつながったのだ。
この最後の殺害及び主人公が警察に捕まる情景は、まるで陳腐なハリウッド映画のように描いているが、それは、ナボコフの作家としての力量による失敗ではないと思う。ナボコフは、わざと陳腐なハリウッド映画のように、あるいは安手の探偵小説のように、荒々しい暴力シーンと警察からの無謀な逃亡を描いたのだ。それは、ロシアからアメリカに移住せざると得なかった、自らの運命に対する深い韜晦とロシア語ではなく英語で表現せざるを得ないことに対する皮肉が、複雑に混ざったものだと私は見ている。(なお、ロリータの母の車も、この追跡シーンで最終的に壊れてしまう。奇妙な三角関係はここで完全に終息する。)
最後に、この『ロリータ』は、ナボコフが述べるように「直截に美的悦楽とでも呼ぶべきものを与えてくれる限りにおいてのみ存在する。」ものとなっているだろうかということについて、私の意見を述べたい。私の意見は、「否」ということになる。翻訳で読んだので十分にナボコフの意図を読み取れているわけではないが、作品中に多く出てくる多様な知識を踏まえた比喩や洒落は、どうもこの作品にはプラスになっているようには読めなかった。たしかにこうした高級な知識を援用することで、陳腐なポルノグラフィーとなることは避けられているが、一方で文学作品としての価値を上げているようには思えなかった。そして何よりも、「変質者と被害者の少女」という関係が、「父親と反抗的な思春期の少女」という関係とほとんど同じような内容に変化していることからは、そこに文学的な要素を見つけるのは難しかった(もちろん、ただ売れることだけを考えた出版には向いているとは思うが)。
結局、この文学作品は文学作品としては失敗作である。その一方で、それまでタブーとされてきた題材を扱ったという歴史的価値はあるだろう。さらに、精神分析学に「ロリータ・コンプレックス」と言う概念を認識させる貴重な資料になったことは、永遠に残る功績である。しかし、それだけだと言っては、ナボコフに失礼になるだろうか。なお、この『ロリータ』をスタンリー・キューブリックが映画化しているが、私は未見である。また、観たいという気持ちにならないでいる。今、原作を読んでみて益々観たいという気持ちが遠のいてしまった。どうも私には、こうした題材との相性は良くないようだ。
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