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<Essay>日本で三人目のノーベル文学賞作家は生まれない

 毎年秋になるとノーベル賞の発表がある。日本からは科学・化学分野での受賞や平和賞を受賞する方がいて、このニュースにより国中が祝賀ムードに包まれる。しかし、ノーベル文学賞については、川端康成が1968年に、大江健三郎が1994年にそれぞれ受賞して以来、三島由紀夫や村上春樹が候補になったことはあっても、候補に挙がるような優れた純文学の作家が出現していないことから、長い間にわたり対象外となっている。一方、海外の作家がノーベル文学賞を受賞すると、その作品を翻訳したものが急に売り出されるが、それは瞬間的なもので終わってしまい、すぐに誰も見向きもしなくなってしまう。それは日本の芥川賞や直木賞でも同じようなもので、いつも一瞬の打ち上げ花火で終わってしまうくらい、現在の日本では純文学の認知度はとても低く、また人気がない(経済的利益が少ない)。

 考えてみれば、昔は「日本文学全集」とか「世界文学全集」というのを、大きな出版社でシリーズ化して発売していたが、今ではそんな長大で時間がかかる小説を読む人はあまりいない(読者は老人世代が中心である)ので、ことごとく絶版になり、入手することすら難しくなっている。ましてや「世界の現代文学」などというものは、古典の文学作品以上に読む人はいないので、上述したようにノーベル文学賞発表時の打ち上げ花火で終わっている(一応、書店には文庫本として世界の文学作品が並べられているが、その売れ行きは芳しくないのが実情だ)。

 そして、毎年ノーベル文学賞が発表されるときの恒例行事として、日本のマスコミは「日本の受賞者は?」と言うテーマで報道する。しかし、そもそもノーベル文学賞の対象になるような純文学の作家が日本にはいない。また、出版社は純文学作家の育成をしない、純文学を読む読者がいない、さらに加えて読書をする絶対数が減る現在の出版不況ということを考えれば、どうやっても日本人の二人目のノーベル文学賞作家が出現するわけがない。

 さらに加えて、今や小説といえば、いわゆるライトノベルという中高生向けの軽い読みものが主流となっており、内容も高校生の陳腐な恋愛話や、そうでなければゲームの世界とリンクした和製英語としてのファンタジー(Fantasyとファンタジーは別の意味に使われている)に堕している。そもそも、純文学作品を相手にしよう(出版しよう)という編集者や出版社が現在の日本にほとんどいないのだから、どうしようもない。私が投稿しているnoteにしても、コンテストの対象となる小説の分野は、ライトノベルか推理小説ぐらいしかなく、純文学や前衛的な文学作品を評価する場所が一部の老舗文芸誌を除き存在していないから、新たな才能が出現するチャンスは限りなく制限されている。

 こんな状況では、どうやってもノーベル文学賞をもらう作家が出現することは絶対に不可能なのだから、もう二人目の日本人ノーベル文学賞作家をマスコミが期待することは諦めてもらうしかない。それでも、ノーベル文学賞に固執するのであれば、過去の名作がそうであったように、どの出版社からも「こんな小説は売れない」と断られるような作品を探し出して、赤字覚悟で出版することが第一であり、次が受験勉強なんてつまらないことを学校で教えるのではなく、日本と世界の人類の歴史が築きあげた偉大な文学の財産を味わう習慣を、多くの子供たちに教えることが必要である。

 ここで大切なことは、「印刷された文字を読む」ということだ。それはコンピューター上のものでも良いから、文字を読むことが重要なのだ。それをコンピューターが読み上げるのを聞いたり、映像化されたものを(倍速で)再生して見るだけではまったく意味をなさない。人類の偉大な財産は、文字とそれを記録した文書を読みこなすことで築き上げられてきた。またこうした人類の知的行動は、未来永劫変わることがないことを肝に銘じて、教育関係者と出版関係者は、次の日本人の日本語によるノーベル文学賞作家出現に尽力していただきたい。「こんな小説、絶対に売れない」という作品にこそ、昔から人類の貴重な遺産が含まれていたのだから。


<私が、アマゾンのキンドル及び紙バージョンで販売している、短編小説集です。>


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きーやん(木下裕治) しがない年金生活の一方、健康状態の関係から身体を使う仕事は難しいため、趣味と実益を兼ねてnoteに様々な投稿をしています。皆さまからの私の投稿へのご支援をいただけることは、今後さらに多種多様な投稿を継続していくことにつながりますので、どうぞ宜しくお願いいたします。