自分軸ってこういうことだったー「私は、私だった?」ー
他人軸はやめて、自分軸でいましょう!
そんな言葉を見聞きすることがあるだろう。
多くの人は、頭ではわかっている。
そうしたいとも思っている。
でも、具体的には、どうしたら「自分軸」なんだろう。
散歩中にパッと感じたことがあるからシェアしたい。
もうだいぶ前のことになるが、私は、人と話したあとに「一人反省会」をすることがあった。いや、そんなことしたいわけではないのだが、思考が勝手にそちらに走ってしまうのだ。
「あの言い方でよかったかな」
「ちゃんとできていたかな」
「嫌なことを言わなかったかな」
「もっと違う対応をした方がよかったかな」
何か問題が起きたときも同じだった。
誰かが少し冷たくなったり、距離を置いているように感じたりすると、「私、何かしたかな」とまずは自動的に考える。
私はずっと、それを自分を振り返ることだと思っていた。自分の行動を省みることは大切だし、間違っていたら直せばいい。
むしろ、そうやって自分を振り返ることは、良いことだと思っていた節がある。
この間、ふとその癖が一瞬戻ってきたのを感じた。
自分の言動をふと、
「あれでよかったのかな」と考えていたのだ。
でも、そこには、何か違和感があった。
そもそも、誰の基準で「良かった」「悪かった」を決めるんだろう。
何基準の評価なんだろう?
相手が喜んだら、良かった?
嫌われたら、悪かった?
相手が自分を評価してくれたら、
ちゃんとできていた?
距離を置かれたら、何かを間違えた?
考えてみれば不思議だった。
その時、1つのことに明確に気づいてハッとした。
当時、私は公正な「自己評価」をしているつもりだった。でも、その評価に使っていた物差しは、驚くほど自分の外側にあった。
ただの他人基準じゃないか。
相手がどう思うか。
人からどう見えるか。
良い人とはどういう人か。
ちゃんとした人ならどう振る舞うべきか。
どこかで覚えたそんな基準を持ち出して、自分の言動に毎回、○Xをつけていた。
まさに他人軸だ。

それは違う。でも、じゃあどうすれば?
自分軸だったら、どうなるの?
…もっと自分に○をつけられればいいのだろうか?
「私は悪くなかった」
「私はちゃんとできている」
「私は良い人間だ」
そう思えるようになればいいのだろうか。
でも、それも違う。
それでは、Xの代わりに、○をつけているだけだ。
外側の基準で採点していること自体は、何も変わっていない。
そうじゃない。
本当の自分軸にある時のその人は、自分に○Xをつけている人ではない。
見るのは、
「私は、あのとき自分自身でいただろうか」
実はそれだけ。
例えば、誰かに嫌われたとする。
その結果から自分の行動を遡って、
「あの言い方が悪かったかな」
「もっとこうすればよかったかな」
と考えるのではなく、
基準を自分に戻す。
「私は、あのとき自分自身でいただろうか」
あのとき言ったことは、本当に私が言いたかったことだったか。
あの行動は、自分の本音と一致していたか。
怖くて相手に合わせなかったか。
好かれるために、自分ではないものにならなかったか。
そして、
「うん。あのときの私は、100%自分だった」
と言えるなら、それでいい。
それがいい。結果がどうであれ。
好かれることもある。
嫌われることもある。
うまくいくこともある。
距離を置かれることもある。
そう。自分でいることは、誰からも好かれるための方法ではない。100%自分でいたとして、その私を好きな人もいれば、嫌いな人もいる。
それは当たり前のこと。
ただただ、言動が自分と一致していたかどうかを見る。
そこにピュアなプライドを持つことだ。
そうすると、周りの反応や外部の出来事は、自分を評価するための材料ではなくなる。
好かれた。嫌われた。
うまくいった。うまくいかなかった。
それはただ、その結果だったというだけ。
自分に戻って確認することは、一つしかない。
「私は、私だった?」
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