✨【掌編小説】終点
日曜日の昼。
電車は静かに揺れていた。
車窓から光が降り注ぎ、開いた窓からさわやかな風が車内を吹き抜けていく。
親子連れやユニフォームの学生たち、買い物帰りの人々が次々と乗り降りしていく。
端っこのシートに、ひとりの男が座っている。
くたびれたスーツ、靴は少し泥で汚れている。
手にはスマートフォンを握ったまま、そのまま眠ってしまったようだ。
電車は走り、駅に止まり、また走る。
男はずっと、眠っていた。
日曜日の朝、横山正樹は寝坊した。
ようやくとれた休みだった。
ローンを組んで買ったばかりの家に、
小さな庭と、まだ新品の匂いが残るリビング。
約束していた。
妻と、二歳になる息子と、朝から公園に行くのだと。
「パパとくるくるすべりするう。」
そう言って、息子ははしゃいでいた。
「しー--っ、もう少し寝かせてあげよう」
ぼやけた頭に聞こえる妻の声。
ようやく起き上がると、
妻と息子はすでに支度を終えていた。
帽子をかぶり、小さなリュックを背負った息子が、
玄関でパタパタと跳ねて、自分でベビーカーを出そうとしている。
正樹は急いで顔を洗い、タオルで拭いていると
スマートフォンが鳴った。
職場からだ。
「横山さん、お休みのところすみません、実は・・・」
「すぐ終わる、すぐ追いかけるから先に行っててくれ。」
もうベビーカーに乗ってスタンバっている息子を見て、ごめんのゼスチャーをしながら、正樹は妻と息子を送り出した。
電話を終え、急いで家を飛び出す。
途中、遠くから救急車のサイレンが聞こえた。
何か嫌な胸騒ぎがして、駆け足になる。
角を曲がると、そこに人だかりがあった。
血のにおい。救急隊員の叫び声。
鼓動が身体を突き抜ける。
そこには、ぐしゃりとつぶれたベビーカーがあった。
男は、全速力で走っていた。
叫びながら、腕を振り払おうとする。
警官に止められる。
道には、小さな靴が転がっていた。
高齢者が運転する車が、歩道に突っ込んだ。
慌ててブレーキを踏んでいるつもりで、アクセルを踏み続けた。
たった数分の間で。
それだけで、正樹はひとりになった。
電車はホームに滑り込み、扉が開く。
また別の人々が乗り、別の人々が降りる。
笑い声、電車のアナウンス、カバンの擦れる音。
男は端っこでずっと、眠っている。
誰も、男に気を留めることはない。
それからの横山正樹は、ひたすら働いた。
休みの日が、日曜日がこわかった。
何も考えず働けば、生きているふりをすることができる。
眠らず、休まず、
ひたすらに働いたのだ。誰も帰らぬあの家のために。
終点が近づく。
陽は傾き、車内に長い影が落ちる。
男は、まだ眠っている。
誰も声をかけない。
終点の駅で、乗客は降りていく。
最後の乗客が降り、駅員が車両に入ってきた。
「お客さま、終点ですよ。」
駅員が男の肩にそっと手を置いた瞬間、
男はずるりと身体を滑らせ、手からスマートフォンが落ちた。
カタン、と小さな音。
スマートフォンの画面が光っている。
動画が再生されていた。
小さなケーキに、小さなろうそくが2本。
笑う母親と、一生懸命ほっぺをふくらませる男の子。
カメラはすこし揺れながら、ふたりを見守るように追っている。
同じシーンが繰り返し流れている。
何度も、何度も、何度も。
「 終点ですよ、お客さん? 」
横山正樹は、ずっと眠っている。

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