虹のかけらと空模様<ショートショート>
ここ数日の空はどんよりとした灰色の雲に覆われて、すっきりしない天気が続いていた。今朝もまた日差しはなく、それでいて雨も降らない。湿気を多く含んだ重い空気と暗い雲ばかりが、ただただ居座っていた。
「今日も天気悪いなあ。せっかくの夏休みじゃのに」
縁側に座って空を仰いだ勇太が、足をぷらぷらさせながらぼやいた。お盆の時期に合わせ、家族でこの曾祖母の家に遊びに来るのをそれは楽しみにしていたのだ。
大きな町で生まれ育ち、物心ついた時には電子機器が側にあった勇太にとって、田舎の風景はとても興味を引かれるものだった。家の中だと携帯電話さえ圏外になる山奥だ。雄大な自然は町で目にしているのとはまるでスケールが違っていて、いつも新鮮な驚きを与えてくれた。その思い出は常に、燦燦と輝く夏の太陽とセットだったのに。
「勇太や、遊びに行かんので」
むくれた顔の勇太に、曾祖母が作業の手を止めて訊いた。曾祖母は庭の小さな畑を世話している最中だ。
縁側と畑との距離はほど近く、農作業や野菜の成長ぶり、畑にやってくる生き物たちを観察するのも嫌いではない。しかし勇太はまだ小学四年生で、ずっとじっとしたままだと、やっぱり飽きてしまう。
「おれも外、行きたい。でもなあ。晴れてないと、なんかつまらんし……」
雨さえ降らなければ、外に出ることはできる。けれど、どんよりとした雲の下で遊んでみても、何となく興が乘らないのだった。
道路わきの草花が町のものよりずいぶん大きく、大人の背丈を優に超えているのを見たときは仰天したし、近くの小川で泳いだり、銛で魚を突いたりしたときはとても楽しかった。山々がとても近くに見え、蝉がやかましく鳴く。今はもうやっていないお店の脇の自販機から、賞味期限が切れた缶ジュースが出てきて大笑いしたこともあった。そんな勇太の思い出は、山々の緑が、流れる川の水が、空気さえもが輝いているような晴れ晴れとした夏の日だったからこそ、より楽しく心躍るものとして記憶に残っているのではないか。お日さまが顔を出していないと、辺りはどうにも薄暗く、うら寂しく感じてしまう。
「ちょっと待ちよりや。ええもん持ってきちゃろ」
そんな勇太を見かねたのか、曾祖母が家の中に戻って何かを探し始めた。 『ええもん』とは何なのだろう。背の低い年代物の手元箪笥を開け閉めする背中を眺めながら、勇太は色々な想像を巡らせる。小さな引き出しに入っていて子供が喜びそうなものというと、たとえば昔のおもちゃなどだろうか。教科書に『昔の人の遊び』として写真が載っているような。
「おお、あったわい」
探しものを終えた曾祖母が、ゆっくりとした足取りで勇太のもとにやってきた。こぶし大の、小さなビンを持っている。
「それ何なん?」
「これはな、お空に撒く肥料じゃよ」
勇太は差し出されたビンをしげしげと眺めた。曾祖母の皴だらけの手に収まる、透明のビン。中には白い粉のようなものがちょっぴり入っている。スティックシュガーを一本開けて、中身を移したくらいの量だ。でもその粉は砂糖の粒より細かくて、角度を変えるとキラキラと輝いて見える。
「そんなん、見たことも聞いたこともないよ」
この不思議な白い粉が肥料だというのはわからないでもない。勇太も曾祖母が畑に色々撒いているのは知っている。けれど『空に撒く』とは一体どういうことだろう。肥料といえば普通は地面に撒くものだ。
「まあ、見より」
曾祖母はまた庭に出る。ビンのふたを開けて白い粉を右の手のひらに移すと、その粉を本当に空に向けて撒き始めた。右手を高くあげて肥料を振り撒く様子は、ボールを放り投げたり、力士が塩を撒いたりするのに似ている。そうして高く投げられた白い粉は、落ちてくる気配もなくそのまま消えていった、ように見えた。風に飛ばされたのか、本当に空に届いたのかは、わからない。
「これでよかろ。勇太や、雨降ってくるけん家の中におりや」
「うん」
空はまだ特段の変化もなく、厚い雲に覆われたままだ。しかし、いつも穏やかで優しい曾祖母がウソをついているようにも思えない。勇太はひとまず居間に戻り、持ってきておいた携帯ゲーム機で暇をつぶすことにした。
三十分ほど経ったろうか。屋根が引っ切り無しに打たれるザアザアという音で雨が降り出したのに気付いた。堰を切ったような強い雨だ。ちょうどゲームにさえ飽き始めていたのもあって、勇太は目を丸くして驚いた。
「ばあちゃんの言うた通りじゃ、すごい」
降りしきる雨は周りの雑音を押し流してしまったようで、雨音は確かにうるさいのに、どうしてか曇っていただけのときより静かに感じられた。静かな時間はそのまましばらく続いたが、昼をまわり、三時のおやつを食べ終わった頃には雨はすっかり止んで、何日かぶりとなる夏の青空が戻ってきていた。すっきりと晴れわたった空が清々しい。
日が差してきた、と分かったとたんに勇太は縁側に駆けていく。待ちに待った青い空を見上げてみると、空には美しい虹がかかっていた。
「虹じゃ、お山のほうに虹が出とる!」
今にも外に飛びださんと身を乗り出す勇太のところに、曾祖母がまたゆっくりと歩いてきた。さっき空になった、あの小さなビンを持って。
「あ、ばあちゃん! 見てみ、雨止んで虹が出とるよ」
「おお、ほんまじゃ。きれいに出とるのう」
しみじみと虹を見上げる曾祖母の傍らで、勇太も少しのあいだ虹を眺めた。ふと考えてみると、この曾祖母のことをほとんど何も知らない。年に一度か二度くらいしか会わないから当然ではあるが、記憶の中の曾祖母はいつも穏やかな笑顔を浮かべるばかりだ。曾祖母にも大事な思い出があって、虹というものに特別な感情を抱いていたりするのだろうか。
「そしたら、外行こか」
勇太は思わず目をぱちくりさせた。そのくらい意外だった。曾祖母の方から外に連れ出してくれるのは、いつ以来になるだろう。
「外? ばあちゃんと一緒に? どこ行くんで」
「お山の上じゃ。虹の根元に行くんよ」
虹の根本。そんなの本当にあるんじゃろか。でも、ばあちゃんが言うならもしかしたら――もし間近で虹の根本など見られたなら、きっとすごい迫力だろう。大はしゃぎで靴を履き玄関から飛び出たところで、勇太はふと後ろを振り返った。体は丈夫そうとはいえ、曾祖母の歩みは十歳の勇太に比べればとても遅い。
『お山』といっても地元の人がそう呼んでいるだけで、実際は小高い丘くらいのところだ。少し古いながら階段も遊歩道も整備されている。ひとりで遊びに行くときはいつも全力で階段を駆け上がるから、家からてっぺんまで行っても十分もかからない。けれど曾祖母と一緒だとそうもいかない。歩調を合わせて、勇太もゆっくり歩くことにした。
近くを流れる川のせせらぎが聞こえる。石垣の隙間から顔をのぞかせる草花を撫でてやる。古い遊歩道は緑に囲まれている。その木々の間を蝉が飛んでいく。道のわきに咲く小さな花に目をうばわれる。遊歩道を上りきった先は広場になっていて、土の地面には浅い水たまりができていた。水たまりに映る曾祖母の表情は、やっぱりやさしい。
「あれ、虹もう消えてしもとる」
歩くのに夢中になっているうちに、虹は消えていた。
がっかりし、うなだれる勇太の手に、曾祖母が持っていたビンを握らせる。
「地面、よう見とうみ」
そう促され、視線を足元から少し遠くへ移してみる。すると濡れた土の上で、何か細かなものがキラキラしているのが見えた。よくよく周囲をうかがうと、ところどころ同じように輝いている。日差しを受けて輝いているのは、どうやら白い粉のようだ。
しゃがみ込んで白い粉をつまみ上げる。粉はそよ風に吹かれただけで飛んでいき、やがて消えた。勇太は慌てて粉を手のひらで掬ってはビンの中に入れていったものの、ほんのちょっぴりの量を集めるのがやっとだった。
「ばあちゃんが撒いとったん、この粉じゃったん? これ何の粉なん?」
「こりゃの、虹のかけらじゃ」
不思議な粉をしげしげと見つめる勇太に、曾祖母がゆっくりと話しはじめた。昔話でも聞かせるように、ゆっくりと。
「虹が消える時に、小さなかけらが地面に落ちるんじゃ。そのかけらも、すぐ採りにこんと消えて無いなってしまうけんの」
「これ撒いて、何で雨が降ったん?」
「お空がどんよりしとる時はな、元気がなくなっとるんじゃ。雨、降らせたり、雲を晴らしたりできんなる。虹のかけらはお空を元気にする、肥料なんじゃ」
「ほうなんじゃ、ばあちゃんは何でも知っとるなあ。また今度、これ貸してや」
勇太が、虹のかけらの入ったビンを曾祖母に返そうとする。しかし曾祖母は差し出した手をやさしく握って、首を横に振った。
「返さんでかまん。それは勇太が持っとうき」
「でも、ばあちゃん大事にしとったし」
「ばあちゃんもな、小っさい頃、ばあちゃんのばあちゃんに教わって、そのビンをもろたんじゃ。ほじゃけん、今度は勇太にあげらい」
思っていたよりもずいぶん昔から、このビンと虹のかけらは受け継がれてきたものらしい。
「うん。ありがとう、ばあちゃん」
歴史あるこの小ビンを、次は自分が受け継いでいく。勇太はそれがただ単純に、うれしかった。
◇
結局、勇太が曾祖母と一緒に外出したのはそれが最後になった。中身を使ってしまうと思い出まで消えて無くなりそうだからと、あのビンは引き出しの奥に仕舞ったままで、ずいぶん長いあいだ忘れてしまっていた。今また虹のかけらの存在を思い出したのは、あの時の光景が脳裏に浮かんだからだ。
「雨かなあ」
お盆休み、息子夫婦が孫を連れて遊びに来ていた。まだ小さな孫娘が、出窓からどんより曇った空を眺めながら、つまらなそうにつぶやく。まるで昔の自分のように。
勇太は引き出しの奥からビンを取り出して、孫娘にも虹のかけらを見せてやることにした。
あの夏の日、曾祖母が自分にそうしてくれたように。
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