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忘れない日のこと

 あれから2年近くが経った。去年の一月に再びnoteを書き始めた日のことだ。まったく接点の無かったところからの、決して前向きとはいえない理由からの、ひとたびの邂逅。そんな偶然めいた必然の出会いが、ぽつり、と心に火を灯してくれた。もう少し、頑張ってみようかと。
 結果は同じとなるかもしれない。けれど、せっかくこうして表現の場があるのだ。気まぐれに雑記を書き留めて、あぁ今日も何も起こらなかったな、なんて自嘲めいた諦めを裏付ける使い方をしていたんじゃ、本当に何も起こらないまま終わる。ま、実際のところ中身は大したことないかもしれないが、できないやらない言い訳を止めて、せめて前よりもっと。毎日更新は決意のあらわれ……いやそんな大それたものでなく、修行の積み直しだ。意味はこれからいくらでもつけられる。数カ月に一度まで減っていた頻度は去年の出会いをきっかけに週に一度になり、今年に入って毎日になった。それだけのことと思われても、それだけのことでも何かの力になると信じている。

 同じくらいのラインを走っていた奴等が先に結果を出していったり、少しばかり存在が遠くなっていったりするのを眺めていると、焦燥よりも不安の方がつのる。自分では無理なのかと。環境のハンデは超えられないものなのかと。頑張る意味はあるのかと。投げ出さないまでも、続けるのが惰性になってしまいそうなとき、あの邂逅を思い出さねばならない。引き合わされた経緯を今一度噛みしめなくちゃいけない。必然が深い悲しみの末の出来事なら、そこに背を向けるような真似もできまい、自分を裏切るだけでなく。たとえ今は、その悲しみが遠くなっていたとしても。
 本当は不幸だの悲劇だのなんて出来事は誰の身にも起きないのが、しあわせな時間が続くのがいちばんいいのだと思う。誰も悲しまないでいられるのなら。しかしだ。お互いに大きなトラブルもなく、順調に日々を過ごしていたのなら、出会うこともなかったろう。少なくともその時の私に彼女ほどの力はなかった。もし存在を知り得ないままだったら、私はそれまでと同じように気まぐれに記事を書き、緩やかに腐っていったのではないかと、そんな想像が脳裏を過る。

 まだまだ憂いを滲ませるのは早すぎる。気温の上がり下がりと一緒で、気分にも波はあるさ。けれど不必要に落ち込む理由にはならない。道の先に何もないというなら、その道の果ての無をこの目でとらえに行こうじゃないか。きっと新著のいいネタになる。こんなところで「よくやった気」になってる場合じゃない――私はまだ、何者でもないのだから。



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