「読んだ本から受ける創作についての所感」自分のこと。2 『違国日記』
今年の初夏に異国日記を読み始めて、
読んでいると
なんというか………

という槙生の言葉はずっと忘れないだろうなあ
槙生の生きている感覚とか
孤独の捉え方とか
悲しみは共有しないとか、
端々でつよいシンパシーを感じつつも
朝との日々の繰り返しや対話によって
「そういう自分が居る」という事実が、
槙生の感覚に同調してしまう自分自身が、
当たり前に
正しいわけでもなんでもない そりゃそうだ
と突きつけられたりもしていて
♦︎
どうしたって何があったって
生きているものたちはどうしようもなく「個」と「個」でしかなくて
家族とか他人とか一切関係なく
「自分」と「自分でない人・もの」という認識が必要で
理解は示しても、腹の底から感じ取れるわけでは無い混ざり合わなさとか 永遠にわかりあえるはずのないなにかとか
でも結局はそこで選びとるものが今の自分を形取っていて、「選ばない」ことすらも自分の輪郭には必要で、
でも結局「自分」だと思ってるもの。思い込んでるものに形はなくて
「自分のようななにか」以外のものが点と点で繋ぎ合わせて輪郭に見せてるだけなんじゃないか とか、
なんかそんなようなことを
延々と考えてしまう漫画だった
一冊一冊、一話一話、
考え込んじゃって、内容を体に入れるのが時間がかかった
実写映画版が観たくなったので観てみた
その感想はまた別の記事でまとめたい
♦︎

「やめる人とやめない人の違いってなに?」
という問いへの、小説家の槙生の言い分が
私自身がへとへとになってたどりついたものと
ひどく似通っていて
「ああ そうだな 」と静かに思ったし
答え合わせをしたような
そういう気分にもなった
「私は逃げられない」
「呪われて生まれてきた」
「最悪な終わらせ方をした人もいる」
どれも我がごとのように感じられて
全方位から刺されまくって倒れ込みそう しんどい
♦︎
「私にとって描くことは呪いのようなもの」
この辺りの記事で以前書いた
机上の指先のみで、
絵も言葉も写真も映像も音楽も
生成されてしまうAI時代に
「なぜつくるのか」
「なぜうみださないといけないのか」
自身でもずっと考えて私なりの地獄で地を這うようにして出した答えが、
槙生の苦しみと似通っていたことに
決して会えない同志を一方的に見つけたような
それが面映ゆくも嬉しいような
けれど切なく心許ないような
そんなような心地になったり、
したのでした
そんな違国日記の、私の日記
