『杜子春』に学ぶ、SNS社会の「手のひら返し」と人間のエゴ
芥川龍之介の「杜子春」について読んだ感想と考えを述べていきたいと思う。
私がこの本を読んでまず思ったことは、人間のエゴが鮮烈に描写されていたということだ。
お金持ちになったらたくさんの人がたかり金がなくなったら興味をなくしたように消え去る。
あるいは、他人事のように見る。
よって現代の社会でも通ずるところがたくさんあると私は感じてしまった。
というのも、なにかやらかしたら今まで面白い人だと思い仲良くしていたのにやらかしたというレッテルによって冷めた目で見られるまたは、相手にされなくなる。
まさしく人間のエゴイズムの形ではないのか。
それが杜子春の話では時代や時代は変われども話は違えど現代にも似たエゴが宿っているということではないのか。
杜子春は、それに呆れ返りまた目先の欲望のためにお金をたんまり使うが2度目にその本質を理解して人間を辞めて仙人になりたいと言った。
しかし、仙人になるための最終試練で、杜子春はすべてを覆す行動に出る。地獄の凄惨な苦難に満ち溢れ、どれだけ痛ぶられても耐え抜いた彼だったが、目の前で化け物に苦しめられる実の親の姿を見たとき、やはりその「親の愛」には敵わなかったのだ。母親の無償の愛に触れた瞬間、杜子春は仙人との約束を破り、思わず「お母さん」と叫んでしまう。試練は失敗に終わった。だが、仙人もそれをすべて分かって試練を与えていたことが、物語の終盤で判明する。仙人は言った。「もしお前が黙っていたら、命を絶つつもりだった」と。私はこの言葉を、物理的な死ではなく、「お前(杜子春)の人間としての心を殺すつもりだった」という意味だと解釈した。
もし、あのまま声を上げず、冷徹に親の苦しみを見捨てていたら、杜子春は人間を辞めた「冷酷な化物」になっていただろう。自分の欲望やプライドのためではなく、「大切な人を想う優しさ」を持って人間らしい暮らしをせよ。あるいは、社会的にも経済的にも豊かになったとしても、人を思う気持ちは忘れるな。
これこそが、時代を超えて芥川龍之介がこの作品に込めた、現代の私たちへの最大のメッセージではないだろうか。
