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フランス東インド会社の栄光と没落。ジョゼフ=フランソワ・デュプレクス(Joseph-François Dupleix)と言う人。

フランス東印度会社の略史、重商主義と植民地主義。インドでも欧州勢覇権争い。

フランス東インド会社が、最初に設立されたのは1664年、ルイ14世の財務総監であったジャン=バティスト・コルベール(Jean-Baptiste Colbert)の手によるものでした。インドやアジアでの貿易覇権を狙っての設立でした。しかし、この組織は、17世紀末に一度倒産しています。その後、ジョン・ロー(John Law de Lauriston)と言うイギリス(スコットランド)人の銀行家がフランスの財政立て直しを行い、その一環として貿易の重要性を考え、東インド会社再設立に大きく関わりました。 彼は金融と貿易によって会社が成り立つ仕込みを考えた様ですがその後、フランスの財政的破綻により、会社は、また倒産の憂き目に遭っています。 投資家の投機的傾向と財政・財務の健全化は上手くマッチングせず、一旦は政策が失敗した様です。投機的傾向が助長される事については、いつの世でも起こり得る事でありながら、その繰り返しは現代の経済体制の枠組みの中においても、リスク回避が適正でないのかも知れません。

再度更に1719年、 会社は再建されました。 逆境にもめげず、会社は再編され、欧州列強と覇権を争いながら、インドのみならず東南アジアでも勢力拡大を試みました。

時代は前後しますが、欧州での重商主義の流れが感じられる最中の1697年、後にフランス東インド会社を指導し、インドにおけるフランスの勢力拡大に尽力するジョゼフ=フランソワ・デュプレクス(Joseph-François Dupleix)がフランス北部のノール県ランドルシーで生まれました。 彼は、ある意味、植民地主義と重商主義の申し子・体現者の様な人物だった、と思われます。

欧州における各国の覇権争いは、インド亜大陸でも同様に展開されました。フランス東インド会社のデュプレクは、軍事的才能に長けた人であり、イギリスのインド亜大陸覇権拡張を何度も阻みました。主に南インド、デカン高原方面で、フランスと適宜軍事的提携関係を結んだインド地方諸勢力と共に、イギリスの勢力拡大に対し、戦いを挑み続けました。

デュプレクスは、また、知略の人であり、かなり個性も強かった様で、フランス本国との間で諍いを起こしていた様です。彼は、第二次カーナティック戦争においてフランスの勢力拡大に尽力しましたが、その強引な手法や多額の戦費支出のため本国のフランス東インド会社との対立を引きを起こしました。 彼は、私財もつぎ込み、戦いを継続した、と言う話もあります。ただし、デュプレクスの人物像については、資料によって評価が分かれるとの事です。

インドでは、フランス軍は兵員の数に置いては、イギリス軍に劣っていました。しかし、1748年のインド南部ポンディシェリー包囲戦において、フランスのデュプレックスがイギリスよりも地元勢力との外交を巧みに梃子にし利用し勝利に繋がった、と言えると思います。地元の勢力と言うのは、 ムガール帝国が地方を治めるるために任命した「ナワブ」と呼ばれる 地域勢力です。「ナワブ」は通常日本語では、「太守」「代官」「藩王」などと訳されます。

ナワブは殆どがイスラム教徒であった様ですが、一部にヒンドゥー教の君主もいた様です。ナワブの戦力的立場の選択は比較的自由であった様です。日本の封建制度下における大名と違い、半分独立した勢力と言う説明もありました。この様な状況下では、ナワブの中には、イギリス側に与(くみ)する勢力もいれば、フランス側に与する勢力もいた分けです。

1748年のポンディシェリー包囲戦において、フランス東インド会社の軍(実質的にはフランス軍)は、地元勢力を巧みに味方に付け、地理的知識、呉越同舟・権謀術数の逆巻く中、地方諸勢力による加勢を巧みに利用した、と言えるでしょう。

1754年、フランス本国政府は戦費支出増大とイギリスとの(外交的)緊張緩和を優先、デュプレクスを解任、本国に強制召還しました。デュプレクスは第二次カーナティック戦争の終結前にインドを離れる事になりました。

第三次カーナティック戦争(1756年~1763年)とプラッシーの戦い(1757年)は、デュプレクスが解任された後、彼の後任者が指揮を執りました。デュプレクスがフランス東インド会社に再雇用される事はありませんでした。本国に戻ったデュプレクスは、東インド会社との間で財政的な問題で争い、失意のうちに1763年に亡くなりました。

この辺りから、イギリスのインド支配は確立して行きます。インドの独立運動は何箇所かで起こり、ガンディーが全体を纏める迄の歴史は長かった、と感じさせられます。欧州での植民地的野望を持つ国家の欧州での覇権争いは、その儘、インドでも反映されていました。

今でも、チェンナイ南のポンティシェリーには、フランス統治時代の香りが強く残っています。40年程前には、Le Club と言う場所で、フランス料理とワインを楽しむ事が出来、地元在住の少人数のフランス語コミュニティーもあった様です。


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