無い本の探し方 古本と舞茸
本が見つからない状態を求めている。
そんなことを考えたりする。
私は本を随分と集めて、絶対に読むべき本というものだけでも数百冊は本棚にある。
積読となると数千冊……。
それをどうするのか、今も決めかねているというか、そういうことを考えないようにしているけれど、それでも本屋に行き、本を探し、よさそうなものを買って来る。売れ残って可哀相なものを連れて来る。
以前よりはめっきり減ったけれど、月に10冊弱は本棚にいざなっている。
そういう本の買い方だから、本屋に行って本があってはまずいのだ。
本は1冊の何かではなく、転がり出した雪玉で、それは心中を縦横無尽に走り回り手が付けられないものになっている。月ごとに力を増して、私の腹を蹴ったり背中を押したりしている始末だ。
だから出版業界には大変申し訳ないけれども、新刊のある本屋には殆ど行かない。大体が古本屋に行く。
今日も本がないといいけどなぁ、と思いながら本棚の前に立って、この時間も好きだから、というかむしろ本棚の前に立つために本屋に行っているのかもしれないから、ぼーっと立っても何かしらの本がこちらを覗いて来る。
売れ残って可哀相な奴は毎週毎月いるけれど、それ以外にも「なんでお前が!?」という美しい顔の少女とか、かつて絶大な力を振るった大魔法使いみたいなおばさんとかが、こちらを睨んでいたりする。
そういうときにぱっと手に取る。
周りに客もいないのに、誰かに取られる前に動き出す、私の手の早さに私自身が驚いたりする。
それでまた、はっと考える。
家にも心中にも巨大な雪玉が転がり暴れているのに、そこへまたこの美女でも老婆でも美男子でもナイスミドルでもなんでもいいが、雪玉を巨大にさせる燃料をくべるのだろうかと。
一度本を戻す。
それで近くに他の客が来たりすると、またさっと手中に収める。
ときにはワザと棚に戻して、他の客が棚前を通るところをこっそりと眺めたりする。
「あの本を手に取らないとは、まだまだな」
などとほくそ笑んで、私はまんまとその本を買ったりするのだ。
私は父と舞茸採りへ行ったことがある。何度もある。
あの楽しさは他にないようなものだけれど、ふっと思う、あれは本屋に本がない状態に似ているのだろう。
いつもあるわけではない舞茸、まあ普通は見つからない舞茸、だからこそ見つけた時には心底嬉しい。舞い上がるほどというのは本当のことだ。
父とはそれほど仲がよいわけではないし、人間の気質として合わないような関係だろう。
それでも舞茸を二人で見つけた時には、やはり楽しいものだ。山の下界にいて関係した父よりも、数少ない山中の舞茸の前での父の顔の方がずっと長くこれからも覚えているだろう。
無いから、無いことが、無いという理由で、私たちに天啓のようにやってくる。
その縮小版を、舞茸の縮小版を私は古本屋で遊んでいるのだろうか。
これで困るのは、ネットで探してある本を買うことに楽しみや意味を求めるのが難しくなっているということだ。
必ずあるのだから買う理由がなくなって来る。
ある本が古本屋にあった時には、無い本があったことになって、そこに無いはずの本というもの自体を買っているのだ。
そうではないときに、その本はいらない。
やはり本自体の価値やその中身を私は殆ど無効化するような地点での読みを始めてしまっている。
これはいかにも転倒しているように思う。
しかし、地面の反対側に転倒してしまえばいいような気持で、私は本と付き合っているのかもしれない。
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