読書論を読む 笑えればいいじゃないか
顔を横向けると本棚がある、と言うと大袈裟になる。
とにかく顔を横向けると本が積んである。
その輪郭をぼんやりと眺めながら色々空想するのだけれど、今日はエミール・ファゲ『読書術』が目についた。
これを購入した時のことはよく覚えている。
毎度毎度の古本屋で、ぼーっとしているときに、「読書」という字が目にはいった。
またそれ系の本ね、と考えていたのだが、エミール・ファゲとあって珍しいなと思った。
大体がもっと有名だったり華やかだったり、よく知らない日本人が騒ぎ立てていたりするのが読書についての本だ。
それが今はもう忘れられたような学者の名前が貼り付けてあって、忘れ名草的な佇まいに生意気な顔をぶら下げて、本と本との間に挟まっていた。
私は、興味がある、内容に期待する、というよりも「珍しい」という理由で買ったのだった。
読書についての本を読んで、いい思いをした記憶はない。
こういうと読んでくれている人がいたときに、がっかりするかもしれないが、誠実に書こうと思うとそう言わざるを得なくなる。
読書本は碌な物がない。それを言っている私も碌なものではないから、信じる信じないは任せるけれども、読書本というものは結局、その時代から影響されて、どういう立ち位置に居ればよいか、ということを自覚なく語っているものになる。
「この時代はこういうことだから、お前たちはこう読め。それが正解だ」
ということを言っている。
優れた人間がどういうものかが殆ど解析完了していて、優れた人間になるカリキュラムがすでに組まれている、と暗に言っている。
またはショウペンハウエル(ショーペンハウアー)のように、その時代というか、その学的な環境に馴染めなくて、反発的に自説を推奨するものになる。それも反発的な時代的精神というものになる。
カリキュラム内容への反発であって、そういうものがあることへの批判ではない。
「普遍的で古代から変わらぬ絶対の真理、含蓄があり滋味を感じさせ、超絶参考になる!」的なものとされるのは、そういう価値スケール内に読書を封じ込めていること自体から来る。既存のスケール内で読むという前提がそれを変わらぬ真理にしている。
例えば、簡単に言うと
ファゲ ゆっくり読め 既存の知性を身につけろ
ショーペンハウアー 読書は他人の頭で考えることだ 自分で考えろ
アドラー(本を読む本) 階層があるから勤勉に進めば真理に到達できる
のようなもので、これらの根底にあるのは、やはり見ている正解があるということになる。
人間にはある規範があって、それは当然なことだからそれに沿って、またはそれを目指して、あるやり方によって進めるべきだ、ということになる。
それを教えることも学ぶことも自明なものと受け取られているというか、そういう考え方をしていることが省みられることはないように思う。
時代が産んだ思想の人間像はその時代からは疑い得ないようだ。
このとき本は既存の型を教えてくれるものでしかない。またはそれから外れていることを指摘する道具でしかない。
内容ではなくて、そういう型が殆ど無自覚に私たちに沁みつくということが、ある種の効用なのかもしれない。
人間に限界があるとしても、本を読んで何を考えてもいいだろう。
本をきっかけにして、別のことを考えてもいいのだ。
規範がおかしいと思えばそれでもいいし、反対も賛成もしなくてもいい。
ただ、そういう風に考えさせられている、ということには気づいた方がいい様に思う。
そのときにこそ、本を読んで、内容ではなくて、作者を代表する人間の執着や不可視な地点が見えてくる。
この人はある執着によって、こういうものが見えなくなっているということが見えてくる。
それは私のこの文章にも適応されるけれど、とにかく、本を読んで人間が見えてくる。
その人間はいつでも誰でも滑稽なものだ。
必ず何かしらの意味で間違っている。何かに囚われている。
そういう人間の思い込みに納得して、実践するのもいいけれど、その前に笑った方がいい気がする。
私は想像する。
人間はいつか、思考が繋がるだろう。
その時には、今のような個人でいることは出来なくなる。または個人でいることが趣味趣向の世界になる。
一年の内に一か月だけ希望者は個人になったりして、その間は言語的にというか、あるコード的な不自由を体験して、それはちょっとおかしな遊びになる。
そういうときには、本の内容や、求められる規範は変わっている。
ファゲが忘れられた学者になってしまったように、本についても、何かをどう解釈するかも古いものになっている。
これはSFの話ではない。
個人という括り方も、集団という括り方も、言葉ということでそれを支えることも、ある種の人には限界に達している。
この言葉以外で語るものというか、塊があるのだけれど、それは最早既存のやり方では触れられない。それを神秘や内的な意味からの外性として、内的に処理することではどうにもならないところまで来ている。
それを私たちは他の方法で乗り越えるだろう。乗り越えるのだとすればそうするだろう。
そうなるという以上に、そうなる可能性はあっていいと思う。
だから、読書論とかなんだとか、全部が規範的な、確かであるという積み上げによって、今理解されているように思うものが、本当は滑稽なものなのだ。
いつでもそうで、その私が示したSF的なものも先々には滑稽なものになる。
何を言っているんだろう。
とにかく、ファゲは古かったけれど、ファゲを古くしたものも古い。
古いのが悪いわけではないけれど、みな滑稽ではある。
私もそれを引き受けているから、こういう風に言えるということで、読書論を読んでその通りだと思った時には笑えなくなっていることは確からしい。
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