椿の首が落ちる 今昔物語集やボルヘスや
カンタービレ的な。
夏へ向けて空気が濃く色づいてきた。青葉が高くなっていく。
山も庭木も泡のように膨らんで、予測不能な命の盛りを増し増していく。しかし、それらは収束的な結実を知らせるものらしく、皆が同じ歌を精一杯に歌っている。
そういう力が庭の椿を咲かせた。椿は固く濃い緑の葉陰から、ぽっと明かりを灯すように咲いている。ビロードの赤い花弁の中心に粉ふく黄色の蕊を覗かせて、目に色鮮やかに連なっている。
朝に椿を見ているのに、その濃緑の葉叢が闇のように思えてくる。夜道に灯る赤い明りがぽっぽと咲く人の行列で、その明りは若い女がそれぞれ持っている。
そういう灯りの行列は、私の今朝の観察のまえに、すでに枯れ落ちているものが幾つもある。
私はそれを見て、昔鬼に見初められた女がいて、鬼はその女と椿とを取り違えたものだから、椿の首をぼろりと落としていった話を思い出した。
それは女の首が落ちるよりも生々しく、残酷な映像として私の目の裏にまだ残っている。
鬼は女の首が必要で、愛だけのため、執着だけのためではなく、女の首を持ち帰ることに命を懸けて、それを取り違えたものだから鬼の世界で鬼の首も落ちた。
それらがいつの間にか、椿の枯れ花がぼろりと落ちてまだ命のある中に混じって見るかのようだ。
そう想像してみると、地面の落椿たちに赤く血の気が戻って見えてくる。咲く花よりも色鮮やかに生き返してくる。私はそれらをぎょっとして美しく眺めた。
鬼の話が実際にあったのか、どこで読んだのか私は覚えていない。
今昔物語集だろうか。
私にはこういうことが多い。
先日、読書予定を立てて、少し大江健三郎のことを書いた。
大江は引用癖がある。
知識が多いことのあるかもしれないが、引用というものは我田引水的な自説強化か、連想の不可避性であって、実際にはその癒着や吸着は殆ど病的なほうからの発生になる。
説得力のための引用も、それが有効だと信じていることからくる。自説も引用先もその繋がりも。
大江が海外の作家と話して、その引用癖に辟易されたり、驚いたりする人も多かったとどこかで読んだ記憶がある。
そういうことを思い出すと、ボルヘスも連想されてくる。
ボルヘスは大江よりもう少し皺の襞に実感が宿っているかのようではあるけれど、ボルヘスから人々が知の図書館を感じて、その宇宙的な広がりを読むときに、私はボルヘスがやはりランプの灯りをもって、一人地下の小さな図書室へ階段の横板をギイギイ言わせて降りていく映像が浮かぶ。
図書室にいるのでも、宇宙まで飛んでいるのでもなく、知をいろいろに操ったりしているのでもなくて、ボルヘスは階段を下りていく。そのしぐさを見せてくる。
彼らと私の違いは、彼らは引用先がなければならなかったことで、私には引用先が必要ない。それは出版形式に乗っていないということ以上に、病や癖のほうからの問題だろう。
私はぱっと思ったものがそのまま語りになって不自由がない。
それは読者に責任を負っていないということでもありそうだが、文章を読んだ読者のその舌を切り取り料理して、そのまま食わせて悪意がないということかもしれない。よく言えば読者の即興的な想像の広がりに賭けている。
彼らはちゃんと誰かの舌を切ってきて、その音を差し出している。自分のものを差し出さない傾向はあるけれど、しかし、自分の調味料は使っているだろう。
私はだれのものを使っているのかがいよいよわからなくて、それで問題もないところで書いてしまっている。
読むときに、読者は困惑するか、自分の解釈の範囲で読むのだが、私の意図とはずれていく。私はわからないことをそのまま書いているからだろう。
本当のことだけを書いているつもりでいるときにも、それがどこにあるかわからないものになっている。
しかし切った舌を縫い付けなおしているつもりではいる。
大江、ボルヘス、私を引用した者は誰だ?
そいつの首もいつか落ちる。
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