ネタ帳の整理 大根のはなし?
何を書こうかとぼんやり思う。
幾つか書こうかなと思っているネタはあるけれど、私の性格なのかバランス感覚なのか、ネタのジャンルを連続させたくないような気がしたりする。
それは私から見て連続していないだけで、他の誰かから見ると同じことを言っているのかもしれない。
とにかく、本についてのことを書いたら次は違うもの、身近な思い出について書いたら、少し別の種類のもの、という感じで、気分転換をしたい気がしてくる。
それでnoteにストックしているものとは別のネタを、と考えて思い出した。
私は16年前からネタ帳を作っている。
それが79冊を終えて、今80冊目を書いている。
冊といってもテキストデータだから、1つ1万文字を目安に79万と数千文字溜まっていることになる。
いい機会だから、2010年9月10日から始めたネタを整理してみることにする。
例えば2010年のネタ帳001に書いてあることを幾つか載せてみる。
・小学生は体操の時に「5678」と大声で言う
・「自分自身の考えは正しいし論理破綻していない」とほとんどの人が勘違いしている。賢いとされている人ほどその傾向が強い。だから賢いとされている人ほど滑稽だ
・集中するには選択肢を減らすこと。考えることが多いと集中できない
・レインコートのビニールの匂いが雨と僕とを完全に分離していた。
雨と僕とを分けているのはレインコートではなく、ビニールの匂いなのだ。
草木やアスファルトから生の匂いが立ちのぼる。草木やアスファルトは雨を受け入れて、ビニールの匂いだけが僕を世界から切り離す。世界からの拒絶を感じさせる。なのに何故にこんなにも楽しいのだろう。水族館で遊んでいるみたいだ。
・金持ちの家の息子はツマラナイ。不偏の真理
・世間からズレた選択は実質的には自殺に近い
・ある人にとっては珍しくないものが他の人にとってはどれほど懐かしく尊いか。そのズレを描く。
ex過疎の町の赤子。皆が尊び欲しがり、手に入れるためになんでもするような空気に包まれていく
・外国で死んだ外人が日本の極楽に亡命してくる話
・「○○見ると日本に帰ってきたなぁと思うよな」
「えっ、海外行ってきたの!?」
「行ってないけど」
・雨を見たエネルギーは何処にいくのか。きっと網膜に溜まって、右目が悪くなっていくんだ。左目は右脳に繋がっているらしいから本当はモノを見ていなくて、右目だけが悪くなっていくんだ。三軒隣りのじいさんは雨を見すぎて右目が白くなっちゃったんだ。そのかわりに青い猫が見えるようになったんだ。青い猫は…
・金を得るために、生きていくために創るなら人々が納得するものさえ作ればいい。自分の為に作るなら全力をださなきゃならない
・人(A)が他人を馬鹿にできるのは馬鹿にできるほど愚かな人間がA以外にいるからだ。逆に愚かな人間がいるなければAは偉ぶることができない。他人を馬鹿にする時点でその馬鹿にしている者も愚者だ。馬鹿にされる愚者は自分が馬鹿にされていると気付かず、馬鹿にしている愚者は馬鹿にされている愚者がいるおかけで、自分が愚者だと気付かずに平穏に生きていられることに気付かない。馬鹿にされる愚者は馬鹿にする愚者の教えを有難がり、馬鹿にする愚者は馬鹿にされる愚者なしでは生きていけない。需給関係が成立している
・ある知能の低い男のレントゲン写真に影が写る。男はなんとかその影を消せないかと奮闘する。男が余りに一生懸命なのでいつの間にか周りの知的障害のある友達数人も巻き込まれて皆で影を消すために奮闘する。もう治らない病、余命幾ばくもないのに楽しそうに治療法を探す男たちに心動かされ、普通の人々も協力していく。皆の協力で遂にはレントゲンの影を消すことができた。でも病気は実際にはもう治らない。遂には死の時が近づいてきた。知的障害がある友達の1人が「俺たちの努力は無駄だった」という。死ぬ間際の知能の低い男は「違う。俺たちは病気を治す方法を発見した。誰にも見つけられなかった方法を発見した。世紀の大発見だ。楽しかった。」と言う。知的障害の友達たちが口々に「そうだそうだ」と言って、周りの普通の人々も泣きながら「そうだそうだ」言って泣き笑う。バカな友達みんなが楽しかったという。「君たちは大発見をした。ありがとう」と知能の低い男の母親がいう。
・A君が「電柱の影から宇宙人がこっちを見てるから通報して!」と言った。警察が来てA君を連れて行った
・若いときは善悪がきっちり分かれる。それは彼彼女らの中の実証例の数が少なく、何処かで聞いたような他者の価値観の中で生きているからだ。歳を取るとその人の生き方によって善悪に微妙な支流ができる。たまに強固に凝り固まる人もいる
・なぜグーはチョキに勝ち、パーはチョキに負けるのか。何故グーの方がパーっぽいのか。また何故チョキは異端のようにみえるのか
・登場人物が活き活きとしているということは登場人物の行動や趣向がある程度予測の射程内にあるということである。逆に言えば読者に登場人物の行動や趣向が予測できるような情報を与えるということである。ある程度予想できることによって登場人物が作家に動かされている臭いを消し自分の意思で行動、発言しているように錯覚させることができる
まあ、こういうことが永遠と書かれている。
「そんな偏見を」と思うことも、「囚われているなぁ」と感じることも、「まだ使えるかもね」と考えることもある。
でも、こういうネタは2023年頃から殆ど溜まらなくなっている。
80冊目は2023年9月19日から書き始めて、2026年の4月18日の現在時点でやっと9437文字。
2年7か月掛かってもまだ終わらない。
それまではネタが溜まって溜まって仕方がなかった。
書く前に選別していたほどだ。文字数もなるべく少なくなるようにしていた。
それがだんだんとネタの溜まり方も鈍って、何かを思い付いてもメモもしなくなってきたのかもしれない。
歳をとって感性が鈍ったのとは違うと思っている。
本当のところでは、ネタがネタではなくなって来たというものだろうと思う。
例えば、先に書いたレントゲンのネタは、娯楽小説としては成立しそうだ。
でも、私はそれを書かない。書く必要がない。
レインコートの話も、ある微細な感覚として書く場合もあるのかもしれないけれど、それに焦点を当てて、感性を際立たせて披露する感じで書くことはないだろう。
純文学的なものを読まれる形にして書いていくということが、それがネタとして認識されて何かになっていくということが、必要もないところに立っている気がしている。
ネタがネタになるには、幼さだったり視点の狭さが必要なのかもしれない。ある義務感が要求されているのかもしれない。
それらは今でもあるけれど、見方が変わってきている。
ある発見は発見の様式であると認識されてきている。その様式の一様さや地点に飽き飽きしてもいる。
こういう記事を書いて、何か矛盾しているようだけれども、このようなものは今組みあがってきているもので、こう思わせてやろう、という構えを失っているところから書いている。
本当にその場の感性で、感じながら書く場合には私もそう書くのだけれど、ネタとして認識したものが現れてくる純粋性のようなものが私から零れ落ちてしまった。または剥がれていってしまった気がしている。
極限の地点に住んで、その場所を言葉巧みに説明したり、語ったりし続けて、本当の惑いの中に居て、それが生業になっている人たちがいる。
ベケットとかはそうだったかもしれない。
私はそれすらもある娯楽のように思えてしまっている。
例えば言語の限界や不可能性に言及しながら、究極なものを書いたり認識したりすることすら、ネタの範囲内に思えている。
それなら、「小学生はラジオ体操で5678と大声で言う」とかのほうがずっと面白い。
ネタは財産になると思ってネタ帳を書き始めたけれど、それがネタになるにはネタだと思う人間が必要なのだと気づいた。
ネタだったものがネタではなくなることもある。賞味期限があるのだ。
それは世間の認識でもあるし、また本人がどう感じるかも大切なことで、書けるときに書かなければ、それは脱色されて、ペラペラの大根みたいになってしまう。
私は自分の体に干からびたペラペラの大根が80枚も張り付けてあって、大根だけで体を隠している裸足の私は含み笑いで風に吹かれているような気がしている。
それが妙におかしい。
ネタを活かそう、財産にしようと思っていたはずが、今は無用で滑稽でしかない。ぺらぺらの大根が私の腿や頬、背中やわき腹にぺしぺしと当たる。鬱陶しいようなおかしいような変な気分だ。
そのことが面白いと感じているから、ネタはネタでなくなって、やっと私を笑わせているのかもしれない。
それでもまあ、1つか2つくらい、いやもっと、数個は作品にして成仏させたいような気もする。最近のものはそれほど軽いものばかりでもないだろうと、せめてもの希望を抱く。
ぺらぺらの大根だとしても、重みはあって、少しは減らした方がいいとは考えている。
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