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【#この駅が好き】人生のターミナル、上野駅

(2330文字)
「投稿コンテスト『#この駅が好き』を開催します」
このタイトルを見て、すぐに思い浮かんだのは、東京の北の玄関口、上野駅だ。

ボクが子供の頃、昭和の国鉄上野駅には、東北・上越・北陸方面に向かう色とりどりのヘッドマークを掲げた特急列車や、夜の闇を駆け抜ける寝台列車が発着していた。子供達にとってはまさに憧れの地で、遠く終着駅に向かって走り出す前のひと時をホームで過ごす列車たちを見ているだけで、見ず知らずの街に想いを馳せることができた。
山形県に母の実家があったボクは、夏休みになるとこの上野駅から列車に乗り込んだ。といっても、先に挙げたような華々しい特急列車などではなく、乗るのはいつも繁忙期に増発される臨時の急行列車、しかも自由席だった。
発車の1時間以上前には既に長蛇の列ができていて、ホームには半年、一年ぶりに故郷へ帰る人々の熱気が溢れていた。その間を鉄の重い台車に積まれれた段ボール箱が走り抜け、荷物車に乗せられていく。その車輪の音、駅員同士の声、何かを注意する笛の音、ひっきりなしに流れる構内放送。
「間もなく18番線に山形行き急行ざおう51号が入線します。白線の内側に下がってお待ちください」
するとブォーンという低音で空気を振るわせながら、電気機関車に押された青い臨時急行用の客車が、赤いテールランプを灯して入ってくる。ホームに新聞紙を敷いて座っていた人たちも立ち上がり、俄かに殺気立つ。みんな山形までの長旅に席を確保したいのだ。
子供の頃のボクは小さな体で大人たちの間をすり抜けて、母と妹と座る席を確保した。少々反則だが、今はもう時効だろう。座れない人たちはデッキに新聞紙を敷いて座ったり、多い時は客車内の通路にもずらっと並んで座っていた。
ボクは席を確保すると、発車までの時間を確認して車両を降り、ホームの先端に走る。牽引する電気機関車を見るためだ。
青い電気機関車の前に来ると、ホームに響いていたブォーンという音が間近で響く。駅員と運転士が何かを渡しながら、その音に負けないように大声で話している。
運転士が格好良かった。これからこの大きな電気機関車を運転して山形へ向かうのだ。きっと、こうして明日は青森、明日は大阪というように日本中を回っているのだろう。ボクも大人になったら運転士になりたいと思った。
しかし、後で知ったのだが、この運転士は山形まで運転はせず、栃木で交代する。管轄というものがあると知った時、ボクの運転士への夢は呆気なく終わった。
ボクは買ってもらった安いコンパクトカメラで電気機関車の写真を撮って座席に戻る。背もたれが固定されたボックスシート。6時間を超える旅はトンネルを数えながら過ごした。

国鉄の上野駅といえば、やはり中央改札のコンコースだろう。高い天井は無骨なトラス状の鉄骨で組まれ、猪熊弦一郎の壁画「自由」が圧倒的な存在感で行き交う人々を見つめる。
その下には、おそらく10以上の改札があったと思う。全てに駅員が座り、ひっきりなしにカチカチという鋏の音が響いていた。
その上の発車案内は今のように電光掲示板ではなく木の板だった。縦長の木の板は路線によって決められた色に塗られ、そこに「特急やまびこ 盛岡行き 13:43発 14番線」などと書かれている。それが蛍光灯に照らされていた。そしてその列車が発車すると、駅員が改札の上に板を渡して上に乗り案内の板を変えるのだ。今考えると改札の仕事は常に忙しかったと思う。
中央コンコースから地下に降りるとジメジメした地下街があり、安い食堂が並んでいた。水を流す側溝にはタバコの吸い殻などが落ちていて、なかなか流れていかない汚れが溜まっていた。ビールケースが高く詰まれ、日常と旅という非日常の間の空間を仕切っているようだった。
当時はまだ、雪で閉ざされる東北や上越方面からの出稼ぎ労働者も多かった。故郷で待つ子供にお土産を買ったお父さんたちもここで食事をしただろう。もしかしたら、稼いだお金を博打に費やしてしまい、故郷にも帰れずにここで苦いビールを飲んでいた人もいたかもしれない。
上野駅にはそうした人たちの悲喜交々を反映してか、どこか陰のような暗さもあった。

埼玉県に住んでいたボクたち家族は、上野動物園や不忍池の夏祭りに出かけた時も上野駅を利用した。その場合は東武伊勢崎線から直通の地下鉄日比谷線。国鉄の非日常と違って、そこは日常の延長だった。
それでも、地下鉄の駅から地上に出て、アメ横の入り口にある玩具屋から猿のおもちゃのシンバルの音やゼンマイの音が聞こえてくるとワクワクした。
動物園や上野公園、不忍池で一日を過ごし、少し早めに取る夕食はいつも聚楽台だった。ずらっと並んだ食品サンプルにはとんかつ、ハンバーグ、スパゲティからホットケーキ、パフェまでなんでもあった。今なら珍しくもないファミリーレストラン的なラインナップだが、当時はそんな場所は家の近くにはなく、非日常的一日の締めくくりにふさわしい場所だった。ボクたち兄妹は決まってお子様ランチを頼んだ。そしてケチャップライスの上に刺さっていた日の丸の旗を大事に持って帰るのだ。

今の上野駅はすっかり綺麗になった。あの頃のような暗さはどこにもない。そしてボクが宮城県に引っ越した後に、聚楽台の入っている建物も解体されたという。もちろん、地下の食堂もないし、中央改札には電光掲示板の下にずらっと自動改札が並んでいる。あの頃の駅員さんたちはどうしたのだろう。JRに変わる時にたくさんの職員が職を失ったと聞いた。今ではストライキという言葉も聞かなくなった。
それでも上野駅は今でもたくさんの人たちを迎え、送り出している。いつまでも人々の人生のターミナル駅であって欲しい。

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