絶滅してくれた「ふれあい」
「国語を大事にしない国民が繁栄できるはずはない」で述べたことに対して、「言葉が時代につれて変化するのは、自然な現象だ」と言う意見があるかもしれない。しかし、そこで述べたのは、変化の問題ではない。言葉に嫌悪感を持つかどうかという問題である。私が危惧するのは、奇妙な言葉の使用法に嫌悪感を持たない言語感覚の麻痺なのである。
ただ、私はまったく絶望しているわけではない。いちどは変な言葉が流行っても、それが廃れるということもあるからだ。
例えば、暫く前に、「ふれあい」という言葉が大流行したことがある。
これは、もう20年くらい前のことになる。官庁文書の中に「やまとことば」が異常増殖したのである。その代表選手が「ふれあい」と「優しさ」だった。
「ふれあい」は、地方公共団体のお役人が大好きで、新しくできる公共施設の名が「ふれあい」だらけになってしまった。例えば、その当時私が住んでいた町にできた人道橋は、「ふれあい橋」だった。この橋自体は好きだったのだが、橋を通るたびに誰かに触られそうな気がして、気味が悪かった。
ある町では、「ふれあい団地」の中に「ふれあい広場」があった。その広場では、人々が毎日集まって触り合っているのだろうかと、想像するだけで気色が悪くなった。「ふれあいプール」というのもあって、これだと、衛生上の問題も危惧された。
それどころではない。「ふれあい小学校」があるという話も聞いた。とても本当とは思えなかったが、もし真実なら暴挙だ。橋やプールなら、嫌だと思えば近づかなければよい。しかし、小学校はそうはゆかない。成人して「私の母校は、ふれあい小学校です」と自己紹介しなければならない卒業生に、心から同情したいと思った。
幸いなことに、「ふれあい」は一時的な流行に終わった。ここ数年来、耳にすることがない。日本人の言語感覚も決して捨てたものではない。
気持ちが悪い表現を気持ちが悪いと、多くの人が公言するようになれば、軌道修正するのは、不可能ではないのだろう。そう信じたい。
(もっとも、公共施設につけられた名称は、「ふれあい」のままで残っているわけだ。これは、改称されるのだろうか?)
一時的な流行に終わったもう一つの例をあげると、途中で言葉が尻上がりになる奇妙な話し方だ。例えば、「政府の統計の(?)、集計方法に(?)不正があった(?)と言うけれど(?)・・・」というような話し方である(?のところで尻上がりになる)。「・・・ということだったと思うけれど、それでよかったかな?」という意味を込めているのだろうが、実に耳障りだ。
これも、20年位前には猖獗を極めた。中年女性にとくに多かったが、男性でも感染している人がいた。ところが、最近では、この話し方の人は、皆無ではないが、だいぶ少なくなった。これも喜ばしいことだ。
ただし、奇妙な表現で生き残っているものもある。その代表が、「国語を大事にしない国民が繁栄できるはずはない」で述べた「さらなる」だが、それだけではない。
「やさしい」も生き残っている。「人にやさしい政治」、「地球にやさしく」、「環境にやさしく」等々……。意味不明だし、実に軽薄だ。
本当に指導力のある政治なら「やさしく」してはいられないと私は思うので、「やさしい政治」とは、すなわち「何もしない政治」という意味以外には、解釈できない。
ほんとうに「自然にやさしく」したいのなら、人類が消えてなくなるのがいちばんよいのではなかろうか?
先日は、AIについての真面目な議論で、「人間にやさしいAIがいい」と述べた担当閣僚がいた。プロファイリングがもたらす管理社会など、AIの社会的影響は極めて大きいが、これでは何も方向性を示したことにならない。
「やさしい」というのは、本来はたいへん魅力的な日本語である。それが、現われるべきでないところで使われるから問題なのだ。これは、言葉に対する冒着である。「さわやか」、「いきがい」、「おもいやり」、すべてそうである。こうした言葉を恥づかしげもなく使う人々を、私は信用しない。
