音速の爆風が四肢を引き裂いた…11人死亡・全米震撼の爆発事故「ベントン花火工場大爆発事故」
花火工場は存在しないはずだった――11人が死亡した「ベントン花火工場大爆発事故」
夜空に大輪の花を咲かせる花火。
夏祭りや独立記念日の夜、人々が空を見上げて歓声を上げる光景は、日本でもアメリカでも変わらない。
しかし、その美しい光を生み出す火薬は、ひとたび管理を誤れば、人の命を一瞬で奪う爆発物にもなる。
1983年5月27日、アメリカ・テネシー州ポーク郡。
静かな田園地帯を、すさまじい爆発音が切り裂いた。
爆発音は約20マイル、32キロ離れた場所にまで届いたとされる。
現場にあった建物は完全に破壊され、中で働いていた11人が死亡。近くにいた男性1人も重傷を負った。
「ベントン花火工場大爆発事故」である。
だが、この事故には通常の工場災害とは決定的に異なる点があった。
そもそも、この場所に「花火工場」など存在しないことになっていたのである。
「虫の餌」を売る農場の正体

現場となったのは、ベントンの南約3.2キロ、ウェルカムバレー・ロード沿いにあった「ウェッブズ・ベイト・ファーム」。
表向きはミミズや昆虫の餌、釣り用品などを扱う農場だった。
1978年から、この農場を経営していたのがダン・リー・ウェッブである。
ウェッブは左官業の会社も経営しており、少なくとも外から見れば、花火や爆発物とは無縁の人物だった。
ところが1982年12月ごろから、農場の内側で危険なビジネスが始まる。
ウェッブと親戚のデイヴィッド・パークスが、地元で花火を扱っていたハワード・エメット・ブランブレットと協力し、違法な爆竹の製造に乗り出したのである。
作られていたのは「M-80」や「M-100」と呼ばれる強力な爆竹だった。
ブランブレットは製造方法を教えるだけではなく、原料の調達や販売にも関与したとされる。
さらにオハイオ州のジョン・フランクリン・ミラーらも加わり、製造された違法花火は州境を越えて流通していった。
後の捜査では、そのネットワークが12州に及んでいたことが明らかになっている。
つまり、田舎の納屋で小遣い稼ぎ程度に花火を作っていたわけではない。
そこには製造、原料供給、仲介、販売という役割分担が存在していた。
表向きの「虫の餌の農場」の裏側で、大規模な違法花火ビジネスが動いていたのである。
家族や親戚が働いた秘密工場

さらに悲劇的なのは、そこで働いていた人々の多くがウェッブの家族や親戚だったことである。
失業していた人や経済的に困っていた人もいたという。
賃金は時給5ドル。
決して巨額の報酬ではない。
彼らが働いていた場所は、最新設備を備えた専門工場とは程遠かった。
使われていたのは、古い2階建ての金属製牛舎。
1階では化学薬品を調合し、2階では製品を組み立てていた。
しかも、元従業員の証言によれば、火薬に使われる化学物質を「手で混ぜる」ような作業まで行われていたという。
爆発物を扱うための十分な教育も、安全設備もない。
そんな環境で、家族や親戚が集まり、強力な爆竹を大量生産していた。
工場は週6日稼働。
12〜14人ほどが働き、1週間に100〜130ケースもの違法花火を生産していたという。
1ケースには1,440発が詰められていた。
そして操業開始から爆発までの約5か月間に製造された数は、実に154万発以上に達したとされている。
もはや「秘密の作業場」という規模ではなかった。
巨大な違法製造拠点だったのである。
5か月で膨らんだ危険

ビジネスは急速に拡大した。
違法花火の販売によって生み出された利益は約125万ドルに達したとされる。
しかし、利益が膨らむのと同時に、農場に蓄積される火薬や化学薬品の量も増えていった。
しかも、このネットワークに関係した人物の中には、過去にも違法花火に関与し、爆発による死亡事故との関係を指摘された者までいた。
危険を知らなかったとは言い切れない状況だった。
一方、地元当局も違法花火が製造されているという情報をまったく把握していなかったわけではない。
地元警察やテネシー州捜査局、そしてATFなどには噂が届いていたという。
だが、具体的な製造場所を突き止めることができず、摘発には至らなかった。
近隣住民の中にも、「虫の餌を扱う農場にしては人の出入りが多い」と不審に思う者がいた。
ウェッブ一家から「子どもを納屋に近づけるな」と言われた住民もいたという。
いくつもの小さな違和感は存在していた。
しかし、それらが一本の線として結ばれることはなかった。
そして1983年5月27日。
秘密工場が稼働を始めてから、わずか数か月後。
納屋の内部には大量のM-80、M-100、フラッシュパウダー、そしてさまざまな化学薬品が存在していた。
午前9時15分ごろ。
いつもと同じように、11人が作業を続けていた。
その直後――。
ベントンの静かな田園地帯を、巨大な爆発が揺るがした。
表向きには存在すらしていなかった花火工場が、その存在を世界に知らしめた瞬間だった。
午前9時15分、秘密工場が消えた

1983年5月27日午前9時15分ごろ。
ウェッブズ・ベイト・ファームの秘密工場では、11人の作業員がいつものように仕事をしていた。
そのとき、突然巨大な爆発が発生した。
工場内には大量のM-80やM-100、さらにフラッシュパウダーをはじめとする化学薬品が存在していた。
最初の爆発をきっかけに、それらが次々と反応したとみられている。
牛舎を改造した工場は一瞬にして破壊された。
中にいた11人は全員死亡。
さらに爆発後も、残された花火が断続的に破裂し続けた。
静かな田園地帯に、銃声のような破裂音が何度も響いた。
爆発時、工場の近くではウェッブのいとこ、トミー・ウェッブが草刈りをしていた。
彼は爆風によって約70ヤード、64メートルも飛ばされたとされる。
それでも奇跡的に生存した。
しかし身体の約35%に重度のやけどを負い、チャタヌーガの医療機関へ搬送されることになる。
爆発の威力は、工場だけにとどまらなかった。
破片は周囲約180メートルに飛散。
約90メートル離れた木々にも大きな被害が生じ、近隣住宅では窓ガラスが割れた。
目撃者によれば、爆発後には巨大な白い煙が上空へ立ち上った。
その高さは約180〜240メートルに達したとも伝えられている。
さらに約32キロ離れたクリーブランド周辺でも、爆発の衝撃が感じられたという。
秘密工場の存在を知らなかった住民たちにとって、それは何が起きたのか理解できないほどの出来事だった。
通報が相次ぎ、警察や消防などが現場へ急行する。
しかし、救助できる人は残されていなかった。
そして現場に到着した当局者たちは、ここで初めて知ることになる。
爆発したのは、単なる農業施設ではなかった。
大量の違法花火を製造していた秘密工場だったのである。
あまりにも困難だった身元確認

現場では、テネシー州捜査局(TBI)、ATF、テネシー州の緊急事態管理当局などによる調査が始まった。
爆発の規模があまりにも大きかったため、犠牲者の身元確認も困難を極めた。
そこで協力を求められた人物の一人が、テネシー大学の法人類学者ウィリアム・M・バス博士だった。
バス博士は、後に「ボディ・ファーム」として世界的に知られることになる研究施設の創設者である。
専門家まで投入しなければならなかった事実そのものが、この爆発の激しさを物語っている。
犠牲になった11人の多くは、互いに血縁関係にあった。
そこには母と娘、夫婦、兄弟、叔父と甥などが含まれ、ダン・リー・ウェッブの母親も亡くなった。
つまり一つの爆発が、複数の家族から同時に大切な人を奪ったのである。
仕事を求めて集まった家族や親戚。
彼らが毎日のように働いていた場所には、目には見えなくても、少しずつ危険が蓄積されていた。
そしてその危険は、5月27日の朝、一瞬ですべてを奪った。
「何が爆発を起こしたのか」

当然、捜査の最大の焦点となったのが爆発原因だった。
しかし、建物そのものがほぼ完全に破壊されていたこともあり、最初の着火原因を断定することはできなかった。
有力視されたのは、火薬などを混合している最中に何らかの火花が発生した可能性だった。
現場からは、焼け焦げた電動ドリルと、塗料などを撹拌するためのアタッチメントが発見されている。
もしこのような電動工具を爆発性の高い粉末の近くで使用していたとすれば、モーターや接点などから生じるわずかな火花が着火源になった可能性がある。
ほかにも電気コードのショート、照明器具、機械類、摩擦など、火花を生み出す可能性のある要因が検討された。
そして現場から見つかった物の中には、さらに信じがたいものがあった。
ライターとタバコである。
それが実際に爆発の直接原因だったかどうかは分からない。
しかし、爆発物を大量に扱う場所に、裸火を発生させられる物が存在していたこと自体、安全管理がどれほど杜撰だったのかを象徴している。
ここでは、通常の爆発物工場で求められる厳格な管理など期待できなかった。
そもそも工場自体が違法だったからである。
約140キロの火薬が一気に爆発

ATFは、爆発した火薬類の量を約300ポンド、約136キロと推定した。
しかも、爆発後の現場にはまだ大量の製品が残されていた。
未爆発の花火は172ケース。
さらに55ガロン入りのドラム缶6本に入った化学薬品も発見された。
中には通常の爆竹という言葉から想像するものとは大きく異なる、異常に大型の製品も存在していた。
長さ約30センチ、直径約10センチに達するものまで見つかったという。
その規模から、捜査当局は違法花火の販売だけでなく、より重大な犯罪への利用まで疑った。
ただし、こうした疑念と、実際に犯罪組織やテロ目的へ供給されていたという事実は区別して考える必要がある。
捜査によって明確になったのは、この場所が大量の違法爆発物を製造・保管していた拠点だったということだった。
そして、もう一つ奇妙な事実も明らかになる。
農場には監視設備や電気フェンス、警報装置、番犬などが置かれていた。
つまりウェッブたちは、自分たちのビジネスを外部から隠すことには注意を払っていた。
それにもかかわらず、その内部で働く人々を爆発から守るための安全対策は、あまりにも不十分だった。
外から秘密を守るための設備はあった。
しかし、中にいる人間の命を守るための設備はなかったのである。
そして爆発当時、最大の責任を問われることになるダン・リー・ウェッブ本人は、その工場にはいなかった。
彼は遠く離れたイリノイ州にいた。
しかもそのとき運んでいたのは――
8万6,400発ものM-80だった。
ベントンで11人の命が奪われた瞬間にも、違法花火の巨大な流通網は動き続けていたのである。
爆発現場にいなかった工場主

1983年5月27日、ベントンの秘密工場で11人が命を落としたとき、工場を運営していたダン・リー・ウェッブ本人は現場にいなかった。
彼はイリノイ州ランシングにおり、大量の違法花火を運んでいた。
その数、M-80だけで8万6,400発。
この事実は、ベントンの工場が単独で完結する小さな違法製造所ではなかったことを物語っていた。
製造された花火は州境を越え、広範囲に流通していたのである。
爆発から2日後、ウェッブはポーク郡当局に出頭した。
彼は11件の過失致死や違法爆発物の製造・所持などで追及され、30万ドルという高額な保釈金が設定された。
ウェッブの妻リンダ・スーも証人として拘束され、逃亡の恐れがあるとして5万ドルの保釈金が設定された。
やがて裁判が進み、1984年4月19日、ウェッブは無許可で爆発物を製造した罪などにより、連邦刑務所で10年の刑を言い渡された。
さらに同年5月には、11人が死亡したことについて過失致死の罪を認め、こちらでも10年の刑を科された。
刑期は同時に服役する形となり、罰金も命じられた。
しかし、ウェッブ一人を裁いたところで、この事件の全貌は解明できない。
捜査当局が追っていたのは、その背後に存在する、はるかに大きな違法花火のネットワークだった。
背後にいた花火業者

その中心人物とみられたのが、ハワード・エメット・ブランブレットだった。
彼はウェッブたちにM-80やM-100などの製造方法を教え、原料の調達や販売ルートにも関与したとされる人物である。
ブランブレットもベントンの爆発から2日後、ジョージア州チャッツワースで逮捕された。
さらに捜査を進めると、彼が関係した違法花火ビジネスの危険性を示す事実が次々と明らかになっていく。
ブランブレットは1984年、違法な花火製造や共謀、爆発物の保管などで有罪となった。
さらに、サウスカロライナ州で起きた別の爆発事故についても責任を問われた。
そこでも死者が出ていた。
つまりベントンの惨事は、「誰も危険性を予想できなかった初めての事故」ではなかったのである。
違法な爆発物を製造すれば何が起こり得るのか。
その危険性を示す前例がありながら、ビジネスは止まらなかった。
12州に広がっていたネットワーク

捜査はさらに拡大した。
1985年8月、連邦大陪審はブランブレットやジョン・フランクリン・ミラーら、複数の州にまたがる関係者を起訴した。
違法花火の原料供給、製造、販売。
その流通網はテネシー州だけではなく、ジョージア州、ノースカロライナ州、サウスカロライナ州、イリノイ州、ミシガン州、インディアナ州、オハイオ州、ペンシルベニア州、ニューヨーク州など広範囲に及んでいた。
最終的に12州にまたがるネットワークが捜査対象となった。
ベントンの田舎にあった古い牛舎は、その巨大な流通網を支える製造拠点の一つだったのである。
1986年には関係者への有罪判決が相次いだ。
こうして、11人の死亡をきっかけに表面化した違法花火ビジネスは、爆発から数年をかけて摘発されていった。
だが、あまりにも大きな代償だった。
もし爆発が起きなければ、この工場はいつまで操業を続けていたのだろうか。
そして、さらに何百万発の違法花火が市場へ流れていたのだろうか。
その答えを知ることはできない。
なぜ11人は死ななければならなかったのか

ベントン花火工場大爆発事故を振り返ると、原因を「一つの火花」に求めるだけでは、この事故の本質を見失ってしまう。
確かに直接の着火原因は、電気機器から発生した火花だったのかもしれない。
あるいは電気系統の異常、摩擦、裸火など、別の原因だった可能性も残されている。
しかし、それ以前に重大な問題があった。
爆発性の高い物質を扱う場所でありながら、適切な設備がない。
十分な安全教育もない。
大量の火薬と完成品が同じ敷地に蓄積されている。
そして何より、工場そのものが違法だった。
事故原因を一点だけに絞るなら、「最初に何が火薬へ着火したのか」は完全には分かっていない。
しかし「なぜ一つの着火が11人を死亡させるほどの惨事になったのか」は、かなり明確である。
安全を無視した状態で大量の爆発物を製造し続けていたからだ。
しかも、そこで働いていた人々の多くは家族や親戚だった。
生活のために集まり、同じ場所で働いていた家族が、一度の爆発によって同時に失われた。
利益を生み出していた秘密工場は、その利益を支えていた人々自身を飲み込んだのである。
悲劇を記録するということ
ベントンの事故は、その後もさまざまな形で記録され続けた。
現場で身元確認などに協力した法人類学者ウィリアム・M・バス博士も、後に自身の著書でこの経験について触れている。
さらにテネシー州の災害史を扱う書籍などでも、この事故は取り上げられてきた。
それほど、この爆発が地域社会に残した衝撃は大きかった。
現在、事故現場周辺の風景は大きく変わっている。
かつて大量の違法花火が作られ、11人が命を落とした場所から、当時の惨状を想像することは難しい。
しかし、だからこそ記録には意味がある。
ベントン花火工場大爆発事故は、「花火は危険だから気をつけよう」という単純な話ではない。
利益が生まれる仕組みが完成すると、危険を知っていても止められなくなることがある。
違法行為が日常化すれば、本来なら異常なはずの環境さえ、そこで働く人々にとって「いつもの仕事場」になってしまう。
そして事故が起きなければ、その危険は社会から見えないままになることさえある。
1983年5月27日。
アメリカ・テネシー州の静かな田園地帯で起きた巨大爆発は、11人の命とともに、それまで隠されていた秘密工場の存在を白日の下にさらした。
夜空を彩るための商品を作っていた場所で起きた、あまりにも皮肉な爆発。
その背景にあったのは、偶然の不運だけではない。
違法な製造、安全管理の欠如、大量生産、そして州境を越えて広がった販売網。
いくつもの危険が積み重なった末に起きた、避けることのできたはずの惨事だった。
ベントン花火工場大爆発事故。
その記録が現在まで残されている理由は、11人が死亡した爆発の激しさだけではない。
「危険だと分かっているものを、利益のために日常へ変えてしまったとき、何が起きるのか」。
この事故は40年以上が過ぎた現在も、その問いを私たちに突きつけている。
