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いま、「火花」を読み返してほしい

 芥川賞を取った小説が、毎回ベストセラーになっているのか、文芸春秋に全文掲載されるので、単行本としての売れ行きはわからない。
 しかし、大人から子供まであれだけ読んだ人が多かった小説なのだから、そのおおまかなテーマは、世の中に伝わったものだと思っていた。

 小説が大事なメッセージを世の中に伝えようという手段であったときに、ただ売れてしまえば、その後そのテーマが忘れ去られても良いものだろうか。

 ネタバレになってしまうので、ストーリーについては話せないが(その時はわからなかったが、改めて多くの人に読んでもらいたい小説だと思う)、いま再び多くの人が、あの小説を読み返して、あの小説が伝えていたメッセージを思い返してもらいたいと思う。

 テレビ産業の斜陽化が言われ出して久しいが、芸人さんという職業がなくなりそうにはない。世の中の多くの人がテレビがなくなっても漫才師は存続し続けると思っている。

 それはYouTubeなどの動画配信サービスがなくなったとしても同じだろう。つまりは人を笑わせたいという人たちはその人たちを芸人と呼ばなくなっても、永遠にいなくならないということなのだ。

 くだらないことをしている人たちを見て、なぜくだらないと思わずに笑ってしまうのだろう。そんなことを意見として言う人が多くいる。芸風については、好みが分かれるしろ、人を面白がらせてやろうとする人も、そんな芸人さんを探して、わざわざ見に行く人も、まるで人間の感情のありどころを探す哲学者のようである。

 なぜ他人の感情を動かそうとするためだけに、一線を超えてしまうのか。どうやったって笑いにならない過激な言動をする人もいる。人を笑わせたいあまりに、笑いが何かわからなくなってしまうのだ。それはまるで自分自身の感情を見失うかのようだ。

 笑わせるという行為は、相手を喜ばせることには限らない。ただひたすら相手の感情を動かしてみたいというのも「笑い」の動機なのだ。なぜ下品な笑いというものが生まれるか。

 相手が激しく感情が揺さぶられることを望む笑いというものがある。それは純粋な笑顔を求めることとは違って、相手の感情を動かすことに自分のエネルギーを爆発させたいか、あるいは相手のエネルギーを消費させたいという気持ちが動機にあるのだ。

 泣くほど笑わせたいと思って、笑わせるどころか泣かせてしまう。嫌になるほど笑わせたいと思って、相手を不快にさせたり、苦しませたりしてしまう。やりすぎには違いないし、動機が善によるところかわからない。

 芸人さんは、舞台で誰と火花を散らしているのか。笑わせたいのは誰なのか。あるいは花火のように大きく大衆を感動させることもあるかもしれないけれど、場合によっては危険な火花にもなる。

 それは、何かの導火線に火をつける役割かもしれないし、周囲を巻き込んで甚大な被害を及ぼすかもしれない。それほど笑いというもののエネルギーは凄まじいが、そこまでして、人を笑わせたいという人たちが、そんな哲学者がこの世からいなくなる事は無いだろう。

 「昔のお笑いは下品だった」とそう簡単には切り捨てられない。他人を笑わせるという必死な行為は、いつの世の中でも行き過ぎてしまいがちなものだ。他人を笑わせようとする行いが、そもそも下品なのだと言われたら、笑顔そのものが、人間の感情そのものが汚いということになってしまう。

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