なぜ私はインフラエンジニアだったのか ― 30年かけて気づいた「好き」の話
今でこそ「多様性」という言葉が広まりましたが、この話はまだ職場に男性中心の価値観が根強く残っていた頃の記録です。当時の空気感の中で、一人の人間・母親としてどう生き抜いたのか、30年越しに振り返ってみました。
1 「女性でインフラって、珍しくない?」
だいぶ前から仕事などでご一緒したりしていた方とZOOMで話をしていた時のことです。
その方とは同年代。少し間を置いてから、こう切り出されました。
「ずっと聞きたかったんだけど……女性でインフラって、珍しくない? それも、インターネット黎明期からって」
最近はあまり言われなくなりましたが、少し前までは本当によく聞かれました。
そうですね、珍しいです。
今でこそIT業界に女性エンジニアは増えました。
でも、私がこの仕事を始めた頃は、プログラマーを含めても女性は少なかった。
まして、インフラエンジニアを専門とする女性となると、退職するまでの30年間で同じ部署に所属する形で出会ったのは、たぶん10人にも満たないと思います。
庶務の方や常駐先の部署にいらした方を入れても、30人もいなかった。
ずっと、男性が大半の社会の中にいたことになります。
2 黙々とやるしかなかった
会社に女性がいなかったわけではありません。
お昼を一緒に食べたり、お茶の時間に話をしたり、遊びに行ったりもしました。
ただ、技術の現場では、いつもひとりでした。
打合せでお客様が来て席に着こうとすると、
「事務員さんではなく、仕事の話だから担当の人を呼んでくれる?」と言われる。
社内の別部署に行けば、
「担当は忙しいのかな、かじりしか知らない人を寄こされてもねぇ」
と返される。
無視されることもありました。
一度や二度ではありません。
とにかく、黙々とやるしかない。
やれることからやって、認めてもらうしかない。
そう思って過ごしてきた日々は、数えられないくらいあります。
でも、回り道してここに来たのだから、いろいろ遅れてる新人だからな、そう思っていました。
3 見せなかった人たち
私が本格的にインフラエンジニアとして配属されたとき、実は裏で「どうする? すぐやめたりしない?」「できるのかな?」といった不安の声が上がっていたそうです。
当時のいちばん上の上司からも、配属のときにこう言われました。
「大丈夫、ニコニコしてればそれだけでいいから。あなたの役目は、男ばかりでギスギスしがちな現場を和らげることだからね。そこに技術もついてきたら最高じゃない」
当時の「女性エンジニア」に対する期待値は、正直その程度のものでした。職場の和ませ役。配慮される対象。
でも、実際の現場チームは違いました。
そんな裏での心配やバイアスを、私には一切見せなかったのです。
「毎日見て覚えるんだよ。ついて来て」
そう言って、毎日仕事を見せてくれました。
聞けば教えてくれて、失敗しても一緒に考えてくれた。
上司の期待がどうであれ、現場のメンバーは私を一人の「駆け出しの仲間」として育てようとしてくれたのです。
あのチームでなかったら、私は続けていなかったかもしれません。
あの人たちは、不安を見せなかった。
だから私も、安心してぶつかっていけた。
人を育てるということの原点を、私はあのチームで見たのだと、今になって思います。
4 この子たちを守るために
では、なぜインフラエンジニアだったのか。
きっかけは、長男を産んだときでした。
この子をずっと守っていくのは、私しかいない。そう思いました。
そして1年半後には二人目が生まれた。
普通の仕事では、この子たちを守りきれない。
手に技術をつけて、働いて、働いて、守っていけるようにしなくちゃ。
思い浮かんだのは、看護師、助産婦、理学療法士、司法書士。
でも、どれも学校に通って学びなおすレベルです。
二人の子どもを抱えて、それは現実的ではなかった。
どうしよう……と思っていたところに、転機が来ました。
当時、子育てがあるため派遣社員として働いていたのですが、その派遣先で「NTサーバを構築するチームに入ってやってみない?」と声をかけてもらったのです。
それが、IT系を考え始めたきっかけでした。
プログラマーになる道は、最初から選択肢に入りませんでした。
画面と向き合ってコードを組み上げていく精密な作業が、自分の性分には向いていないと直感的にわかっていたのだと思います。
もちろんプログラミングも高度な設計と判断の連続ですが、当時の私が惹かれたのは、システム全体の動きやトラブルに対してリアルタイムに状況を見極める現場でした。
今の言葉で言えば、画面上の「操作」そのものよりも、システム全体の動向を見て「判断」を下す側に、自分の居場所があると感じていたのかもしれません。
5 絶対に泣かなかった
その後のキャリアの中で、認めてくれる人もいれば、最後まで認めてくれずに終わった人もいました。
風当たりが良かったとは言い切れません。
でも、それは「女性だから」ではなく、まだ足りない部分があるか、相性の問題だろうと思うようにしていました。
なにより、私は好き嫌いがはっきりしている人間です。
中学生だった息子に、
「大人なんだから、頭の上に"あなた嫌い"って文字が見えるような顔するのやめなさい」
と言われたこともあるくらいですから。
ただ、ひとつだけ決めていたことがあります。
仕事で絶対に泣かないこと。
女性だから泣くんだろうと思われたくなかったのもありますが、何よりこれは、他人に向けた姿勢ではなく「自分自身を崩さないための私個人のルール」でした。
自分が甘い性格だと知っていたからです。
一度泣いて感情を許してしまったら、自分を甘やかしてしまう。
甘やかしたら、そこで辞めてしまう。
辞めたら、子どもたちを守れない。
だから、最初の一滴を止めました。
泣かなかったのは強さでも、他人にそれを求める美徳でもありません。
子どもを守り抜くために、自分の弱さを知っていたからこそ選んだ、私なりの防衛策でした。
そして、息子たちには、明るく頑張っているところを見せていたかった。
明るい、元気な自慢のお母さんになりたかった。
たぶん、それもあったのだと思います。
6 良妻賢母では、まったくなかった
ここまで書くと、強い母親像が浮かぶかもしれません。
でも、実態はまるで違いました。
家事は手抜きだし、子どもに頼ることも多かった。
財布に現金が数十円しかなくて、買い物のレジの前で子供のお小遣いを借りたこともあります。
お弁当にお箸を入れ忘れすぎて、PTAで先生に注意されたこともあります。
(中学校の途中で給食センターができて下の子は給食でめちゃくちゃほっとしたものでした)
仕事で家に帰れない夜もたくさんありました。
帰らなかったのではなく、帰れなかったのですが、子どもにとっては同じことです。
それを見て育ってきた息子が、高校性のある日にこう言いました。
「夜勤のある仕事はしない。家族が大変だから」
笑ってしまいました。
でも、ちょっとだけ泣きそうにもなりました、思いをそのまま口にしてくれたという事に。
良い母親ではなかった。
でも、働く姿だけは見せ続けた。
その姿が、言葉ではなく背中で、何かを伝えていたのかもしれません。
伝わったものが「夜勤のある仕事はしない」だったのは、なんとも正直ですが。
7 考えて、考えて、考える毎日
振り返ると、インフラエンジニアの毎日は、ひたすら考える日々でした。
なぜ動かないのか。
どうしてこうなるのか。
何が原因なのか。
どうすれば直るのか。
考えて、考えて、考えて。
そして一瞬で判断しなければならない場面と、チームで話し合って判断する場面が交互にやってくる。
華やかさはありません。
机の下や床下に潜って配線して、たんこぶや青あざはできるし、数十キロのスイッチを抱えたりして、いつも、きつい・帰れない・給料が安い方の3Kだなって思っていましたし。
そして、目に見える成果物があるわけでもない。
サーバが正常に動いていることが成果であり、「何も起きない」ことが最高の仕事だという、少し変わった世界です。
でも、その「考えて判断する」の繰り返しが、私にはずっとしっくり来ていたのだと思います。
8 30年かけて気づいたこと
なぜインフラエンジニアだったのか。
この問いへの答えは、子どもを守るためでした。
手に技術をつけて、生きていくため。それは間違いありません。
でも、入った理由と、続けた理由は、たぶん違うのです。
怒られても、ハブられても、失敗しても、どんなに苦しくても、辞めなかった。
それは覚悟だけでは説明がつかない。
好きだったんだろうな、と思います。
30年働いて、ZOOMで聞かれて、初めてそう気づきました。
子どものために始めた仕事が、いつの間にか、自分自身のものになっていた。
操作を覚えることではなく、判断を積み重ねること。
その一つひとつが、たぶん、私には合っていたのだと思います。
あとがき
この記事は、あるZOOMでの問いかけがきっかけで書きました。
「なぜインフラエンジニアだったの?」
という問いに、私自身が30年越しに答えを見つけた話です。
「操作は消える、判断は残る」—これは、先日出版した私の本のタイトルでもあり、私自身のキャリアそのものでもあります。
AI時代になっても変わらない「判断する力」について、もっと深く考えてみたい方は、ぜひ他の記事も読んでみてください。
📖 関連記事: ・「操作は消える、判断は残る」シリーズ →
皆さんは、今の仕事を「好きだったんだな」と気づいた瞬間、ありますか? ぜひコメントで教えてください。
