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『ハナトミナト』第0章プロローグ

 母を愛するために、私は自分の無邪気さを捨てた。傷つくたびに流れ出る心の血を、漆が樹の傷を癒すように、いつか美しい器に変えられると信じてーー。

プロローグ

 梅雨の最中さなかのその日は朝から寒い本降りで、寿々弥すずやの心もなんだかすっきりしなかった。
 母が夕飯の支度をしている間、寿々弥は千代紙を折って遊んでいた。玄関の引き戸ががらがらと鳴って、母が玄関に出てゆく気配がした。来客らしい。次の瞬間玄関で母の悲鳴が上がった。
「いやっ。そんな物持って来ないで頂戴。寿々っ、寿々弥!」
 一体何事だろうと、寿々弥は玄関に駆けつける。玄関の向こう側は景色が白くなるほどの土砂降りで、黄色い雨合羽と長靴姿の男の子がずぶ濡れで立っていた。寿々弥と同い年の葛城朔太朗かつらぎさくたろうだった。
「朔ちゃん?」
 寿々弥が声をかけると、朔太朗は玄関から中へ一歩入ろうとした。すぐさま母の声が飛ぶ。
「入ってこないでって言ったでしょ!」
 五歳の子どもに向かって母は容赦なく声を荒らげた。朔太朗は小さな両手の中に視線を落として立ち止まる。
「朔ちゃん、それ何? 何持ってるん?」
 母の剣幕に怯えながら、寿々弥は朔太朗に近づいた。
「すずめ……」
「死んでるん?」
 朔太朗の両手に包まれた動かないそれを見て寿々弥は尋ねた。朔太朗は黙って頷く。薄暗い玄関でもっとよく見ようとして、寿々弥は上がり框に足をかけた。
「寿々! 触らないで!」
 再び鋭い母の声が飛んだ。
「触らへん。見るだけ」
 寿々弥はつっかけを履いて朔太朗に近づく。手の中の雀の死骸を覗き込んだ。怪我をしているようには見えない。僅かにくちばしを開け、灰色のまぶたを閉じ力なく横たわっていた。怖くはなかった。こんなに近くで雀を見るのは初めてだったので、好奇心のほうがまさっていた。朔太朗は雀から目を逸らさずに、
「埋めたろうと思って」
 と、呟いた。それは独り言のようでもあり、祈りのようでもあった。
「どうしてうちなのよ! もっと近くにほかの誰かいるでしょ!」
「いいよ。ちょっと待ってな」
 寿々弥は部屋に戻って箪笥の引き出しからお気に入りの水色の端切れを一枚掴むと、長靴を履いて黄色い傘を取った。
「家の庭には埋めないで。寿々、死骸に触っちゃだめよ!」
 母の声がなおも追ってきたが、寿々弥はもう返事をせずに、朔太朗と雨の中へ出た。
「朔ちゃん、その雀どこで拾ったん?」
「うちの近く」
 朔太朗の家は町内といっても、寿々弥の家とは一キロメートル近く距離がある。
「寿々ちゃんやったらほかの子みたいに気持ち悪がったりせえへん思ったから。一人やと淋しいやろ。誰かと一緒の方がこのこも淋しない思うし」
「うん」
 家の庭に埋めるのは母から禁止されてしまったので、隣の草むらに二人は入っていった。傘をさしていても長靴を履いていても、背の高い濡れた草のせいでブラウスもスカートもすぐにびしょ濡れになった。草むらの奥に二人は雀を葬る場所を決めた。草を抜いて手で土を掘った。雨のおかげで土は柔らかくなっていて、簡単に掘ることができた。小さな穴の底に寿々弥は持ってきた端切れを敷いた。
「直接土を被せたら可哀そうやから、布で包んであげよ」
「うん」
 朔太朗は端切れの上に雀を横たえ、寿々弥は端切れの端を折り畳むように雀を包んだ。見回して足元の小さな青い花をちぎって端切れに乗せ、土で覆ってゆく。小さな土の山に向かって二人は泥だらけの手を合わせた。秘密の儀式のようで寿々弥の胸は少し高鳴った。

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