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善光寺別院、小さいお寺でした。

3月29日(日)新御徒町方面のお参りの目的の一つ。
たどり着くまでに巡ったお寺は明日以降に紹介します。

ここのはずだが、お寺の名前が違う。
ぐるぐる回って、近所の方に聞いたら、この場所を案内される。

左側に書いてあった!
もっと大きなお寺を想像してきたのだった。

帰宅後、インターネットで情報を得る。
「東京大空襲で建物は焼けたが本尊の阿弥陀如来は消失を免れた。1948年に毛利祖霊社の旧殿を移築した為神社建築となっている。」

天台宗公式サイトより


小林玲子の善光寺表参道日記
善光寺さんのお膝元、長野市周辺の様子を、 私の活動を通してお伝えします。
長野の善光寺には「全国善光寺会」があります。
東京都では8寺院が所属していますが、華蔵院は所属していません。
山号は宝光山、院名は華蔵院、寺号は影現寺(ようげんじ)、そして通称が善光寺東京別院。

前に観音像が建つ本堂。
本堂内にまつられているのは、江戸時代に製作された木造の一光三尊阿弥陀如来像。
寛永年間(1624~1644)に建立。江戸時代には寛永寺末で輪王寺門跡の隠居寺。
明治35年(1902)に長野の善光寺より勧請して、善光寺別院となりました。
その後、東京万人講をはじめ、各種の講社ができて、信者数万人。
昭和2年(1927)に区画整理で現在地に移転。それまでは浅草の七軒町にありました。
大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)の東京大空襲で建物は焼失。本尊は難を逃れ、現本堂にまつられています。

善光寺東京別院(ぜんこうじ・とうきょうべついん)は、東京都台東区にある、善光寺信仰天台宗寺院。信濃善光寺の別院とされる。 正式には、宝光山影現寺華蔵院と称す。本尊は阿弥陀如来である。天台宗延暦寺派

1611年(慶長16年)、伝長が七軒町に復興。のち寛永寺の末寺となり、寛永寺住職(輪王寺門跡?あるいは一山寺院の住職かのこと?)の隠居寺となった。 1902年(明治35年)、一光三尊如来(善光寺如来、一光三尊の[阿弥陀如来三尊のこと)を勧請して本尊とした。東京府下に善光寺の講社を多数組織して、信濃善光寺への参詣をさかんに行った。 関東大震災後の区画整理により、1927年(昭和2年)に現在地に遷座。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で焼失した。

1948年(昭和23年)、品川毛利本家より毛利本家祖霊社旧殿を移築し、本堂とした。そのため、寺院でありながら、神社建築の本堂となっている。

善光寺別院と称しているが、東京の講社の代表というような位置付けだろうか。 信濃善光寺は天台宗寺院と浄土宗寺院の二つの宗派の寺院によって、護持されているが、当寺は天台宗の寺院である。浄土宗寺院としては、東京青山に出張所として青山善光寺がある。

神殿大観

大きな数珠を回す。

お参りして、右奥へ。



六地蔵さま

その隣りには、菅笠を被ったお地蔵さん

六地蔵さま
お一人ずつ持ち物が違います

AI による概要

六地蔵(ろくじぞう)は、死後の世界(六道)で人々を救う6体のお地蔵様で、錫杖(しゃくじょう)と宝珠(ほうじゅ)を基本としつつ、それぞれ異なる持ち物(印相)で表されます

。代表的な持ち物は、念珠(数珠)、合掌、香炉、幢幡(どうばん)、花(蓮華)などです。

平塚市博物館 +5
主な六地蔵の持ち物と役割(一例)錫杖(しゃくじょう): 煩悩を打ち砕き、迷いを断ち切る。
宝珠(ほうじゅ): 願いを叶え、財宝を与える。
合掌(がっしょう): 人々の安寧を祈る。
香炉(こうろ): 香を焚いて供養する。
幢幡(どうばん): 仏の功徳を称える旗。
念珠(数珠):
祈りや功徳を表す。

これらは、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道という6つの世界をそれぞれ担当し、人々を救済する姿です。

グーグル検索
錫杖と宝珠
左手に宝珠を持つ
巻きものを持つと思ったら
幢幡(どうばん): 仏の功徳を称える旗
合掌する
数珠を持つ
鳩を抱く

おだやかな六地蔵様でした。

如意輪観音の提灯がある

線香がたくさん灯されていました

左側はお地蔵様か
柄杓があり、濡れているご様子。水をかけてお願いをするのかもしれない。

※ 今、「信濃」の古代史について読んでいます。
旅行に行った時、直感ですが、長年、長野県は違うと思ってきました。
文化の程度というか雰囲気が何かあると。料理が美味しい。群馬県だって東京から考えてしまうけど、日本海の魚が旅館で出されます。日本海(新潟)、信濃、関東北部というルート、なるほどなんです。
歴史学者の定番の歴史に意義を唱える本が若い時から好きなんです。
読み込んだら、いつか、書きたいです。

秋葉神社へ寄って帰ります。
ではまた。


秋葉神社へ向かいます。

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