ネオン少女
【あらすじ】
不安定で傷つきやすく、夢を見るように生きていた学生の頃。
逢沢皎汰は一つ年上の女性、香月佳夜に出会う。出会ったばかりの彼女は儚く独特な色気を感じさせていた。コタは彼女を食事に誘い、彼女と食事に行った帰り、家に誘われる。その家には佳夜の友人の千夏がいた。佳夜は彼女とルームシェアをしていたが、千夏が就職で地元に帰る。そのため彼女は千夏の提案によりコタと一緒に暮らすことになる。
彼女と過ごすうちに佳夜という女性は傷つきやすく不安定で、そして自分の恋愛観に悩んでいる一人の少女だと知っていく。ある日、佳夜と一緒にバイト先のマネージャーに連れていかれたゲイバーで、愛や恋には沢山の形があって種類があることを知る。そして、名前があることも。自分の彼女に対する愛はどういった物か、自分自身でもわからなかった。触れたい大切にしたい、やさしくありたい。しかし、彼女と関係を持ちたいわけではない。プラトニックなその思い。2人の微妙な距離感の共同生活を通し、それぞれ少しだけ大人になっていく。
不思議だ。青春という言葉がふさわしく感じる夏という季節は、いくつになっても今よりも子どもだった過去を想起させる。どうして、夏という季節はこんなにも心の奥の何かに訴えかけてきて、感傷的させるのだろうか。なかなか沈まないはずの太陽もすっかり沈んだ夏の夜。仕事帰り、疲れ切って夜道を歩く僕は、なぜかふと数年前の夏の昼の景色を思い出した。木漏れ日に、落ちる光と影のコントラスト、青々とした緑。何よりも青い空と、眩しい太陽。あの時言えなかった言葉や、できなかった態度は大人の今の僕にはできるのだろうか、あの頃と今の僕はどう違うのだろう。僕は最近、よく学生の頃の記憶が思い出していた。今は、あれから何年たっただろうか。むせかえるような暑さの熱帯夜。今日の様な夏の夜は、彼女と帰ったあの家への帰り道を思い出す。大学生の時に暮らしていたあのマンションの一室。二人で過ごしたあの家への帰り道。少し前を無邪気に歩く君の街灯の下で揺れる少し濡れた髪と、コンビニで買ったアイスを食べ、笑顔の君を。振り返って立ち止まり、並んで歩いた、そこに居る君の横顔を。
君と出会った頃、季節は春を目先に控えていた。進学、進級、卒業、就職。出会いに浮足立っていて、そんな中に別れの切なさがほんのり混ざった、繊細な季節。君と出会った初めの日、僕は喧騒の中にいた。居酒屋の騒がしい店内で、テンションの高い大きな声が響いた。
「二次会はカラオケ行こう!」
そう言ったのはバイトの先輩で、その場にいた皆、十分な程飲み食いを済ませ、少しばかり酔いが回っていた頃だった。皆と言っても僕には誰一人として知っている人はいない、ただの知らない人達。なぜこの会に僕が呼ばれたのだろうか。場違いな僕は端で静かにみんなの話を聞いていた。バイトでお世話になった先輩は、今年で卒業してしまう。今日は卒業をしてしまう人たちの送別会。先輩が卒業生の幹事だったために僕も呼ばれた。四年生たちが数人いて、別れを惜しみ、後輩たちは、先輩に就活や就職先のことを聞いていた。ただバイトが同じだけの僕以外の人たちは皆、先輩と同じ大学の人やサークルの人達だった。先週のバイトで急に先輩に誘われたこの送別会。その日は先輩の最後の出勤日でバイトの後、卒業していくバイト先の人たちを送るためにバイト先で送別会があった。大学生がバイトの大半を占めている飲食店のバイトは、毎年何人かが二月や三月に辞めていく。バイト先のおごりで食べて飲んで、たくさん話して、送別会は幕を閉じた。
「来週の水曜、暇?」
解散しようとした時、先輩に急にそう聞かれた。
「まぁ、何もないですけど。」
大学は春休みだし、その日はバイトのシフトは入っていない。特にすることもないのでそう答えた。
「送別会というか、飲み会みたいなのするからよかったら来ない?」
先輩は僕がバイトに入りたての時、やさしく何度もたくさん教えてくれた。先輩との別れはむしろ何度も惜しみたかった。だから、僕は深くは考えずに行きますと返事をした。しかし少し軽率だったかもしれない。誰も知っている人のいないこの会に案の定ちょっとした疎外感を感じた。知らない人ばかりでも、先輩の知り合いというだけで集められただけのメンバー。彼らもお互いに知らない者同士もいる様だった。何人かに話しかけられ、少し話す。その繰り返しで、仲が深まるという事も特になく、ノリやテンションがちょっとついていけないくらい高い人たちだと思った。二次会の前に帰らせてもらおうと先輩に声をかけると、そのまま肩を組まれてカラオケに連れていかれた。
よく考えると、先輩とはバイトのお別れ会も済んでいて、今日で会うのが最後だと思うとなんだか寂しいような気持ちになった。肩を組まれた時に断る機会は十分にあったけれど、まぁいいかと組まれた肩を振り払う事もせず、僕は流れで二次会についていった。二次会のカラオケでは、小学校や中学、高校で流行った様ないわゆる僕ら世代の懐かしソングを合唱して、卒業式の合唱の定番曲が何曲か誰かに入れられ、徹底的に卒業の気分が盛り上げられた。卒業される先輩方は歌いながら泣いていた。別れを惜しむように肩を組んで、泣いて笑って、思い出話に花を咲かせていた。僕は歌っている人の声をBGM に隅の方でカオスなこの状況を目に焼き付けておこうと思った。存分に盛り上がって、今はゆっくりとしたバラードが流れている。そんな時、偶然隣に座っていた女性の電話が鳴った。彼女は電話に出ると耳をふさいで大きな声で何か言っていた。急に驚いたような声がして、話し声が大きくなった。僕の耳に彼女の言葉がはっきり聞こえた。僕はなるべく聞かないでおこうとしたけれど、彼女の声が大きくて嫌でも耳に入ってくる。
「うそでしょ?鍵持って出なかったの?」
「…… 。」
「まじかー、私今カラオケいるからそこおいで。」
「…… 。」
「そう、駅の近くのとこ。」
「…… 。」
「はーい、気を付けてねー。」
相手の方は何を言っているか聞こえなかったが、恐らく鍵を忘れて家を出られたのだろ
う。そして今からここに来るらしい。隣の女性の言葉だけで何となく会話を想像出来た。今更一人増えたところで知らない人だらけのこの場所では誰も気にしないだろう。そして、数曲が過ぎたころ、一人の女性が部屋にそっと入って来た。部屋のドア開くのが見えて入って来た女性を見た。その瞬間、彼女から目が離せなくなった。周りの音楽が遅くなったかのようにぼやけてちいさくなり、薄暗い室内に光るテレビ画面の色が彼女の白い肌に反射してとても綺麗だった。美しく神秘的で儚げな、今まで見たことがないような女性だった。一瞬で目を奪われる、雰囲気に息をのむような感覚。そんな経験は初めてだった。目の端で、隣の女性が手招きをしているのが見えた。
「わかった?」
「うん、わかったけど。私ここにいていいの?お別れ会なんでしょ?鍵だけもらえればいいよ。」
「知らない人だらけだし大丈夫よ。あんたも居なよ。」
隣の女性と僕との間には一人が座れるような隙間が空いていた。そこに手をやって座る
ように促していた。入って来た女性は申し訳なさそうに僕の目の前を通り過ぎ隣に腰かけた。
「ほんとにいいの?」
そう隣の女性に小さく聞いていて、
「いいよー。」
と軽く返されていた。それでも不安そうな彼女のために
「ねぇー、一人増えたけどいいよねー。」
と皆に聞こえるように言うと、
「いーよー。」
とさほど気にしていない返事が返ってきて、曲がサビを迎えた。ノリノリで歌って、オリジナルで動きまで加えて歌って騒いで動いてと楽しむことに忙しそうだった。
しばらくして、曲もしっとりとした曲が増えてきた。先輩は会話が盛り上がっているようで、入って来た女性の隣の女性はマイクを貰いに席を立ち、違う席で歌い始めてしまった。ポツンと残された彼女はなんだか気まずそうにしているように見えたので、思わず話しかけてしまった。僕のグラスにわずかに残ったほんの少しのメロンソーダを口実にして。
「何か飲みますか?」
そう声をかけると、彼女は少し驚いてこちらを見た。僕が手に持っているグラスを見て、何を聞かれているのか察したように
「じゃあ、メロンソーダで。」
と控えめに答えた。僕はドリンクバーに行ってメロンソーダを二つ注いだ。それを持って部屋に戻る時、ドアを開けるのか少し難しいことに気が付いた。僕はグラスを持った右手の薬指と小指を使ってドアの取手を押して開けた。
「すいません、ありがとうございます。」
彼女の前にメロンソーダを置くと、彼女はそう言った。
「いえ、僕も飲みたかったので、ちょうどよかったです。」
「ありがとうございます。」
そう微笑んだ彼女に僕は少し鼓動が早くなった。
「卒業されるんですか?」
不意にそう聞かれて、少し驚いてしまった。
「あ、いや、僕はまだ三年なんです。あそこの先輩のバイトの後輩で… 。」
僕は先輩の方を指さして、彼女は一瞬先輩の方を見た。
「へぇー、そうなんですね。」
「卒業ですか?」
僕がそう聞くと、彼女は少し気まずそうに微笑んで答えた。
「いえ、私は休学してて。まだ卒業ではないです。」
「あ、そうなんですね。」
彼女はメロンソーダを一口飲んで、少し周りを見渡した。
「何人か寝ちゃってますね。」
そう言われて周りを見渡すと、ソファーにもたれかかったり、俯いたりして何人か寝ていた。歌っている人はボリュームを下げて、小さい声で歌っている。
「ほんとだ。」
その時、少し寒気がした。春と言ってもまだ寒くて、ドアの近くだからか少し冷気を感じる。少し寒いと感じるこの部屋で寝てしまっては風邪をひいてしまう。それに、彼女の格好も少し薄着のように見えた。
「寒くないですか?みんな寝てるし、ちょっと温度上げますね。」
そう言って、僕はエアコンの温度を少し上げた。温くなってきた部屋で、ぼくらは、どちらからともなくぽつりぽつりと話をした。しばらく話していると、周りが静かなことに気が付いた。僕ら以外の人が寝てしまっていて、そのことに少し笑って、小さな声で話しているとなんだか僕も眠たくなってきた。その時彼女が小さく欠伸をした。
「ちょっと寝ますか。」
と聞くと、
「そうですね。」
と彼女が微笑みながら答えて、僕らは目を瞑った。どれくらいたっただろうか。気が付くと彼女の顔が僕の方に少し首をかしげて寝ていた。とても綺麗な寝顔だった。僕は朝の気配を感じてスマホの画面を見ると、時刻は四時四十五分だった。ここのカラオケの時間は部屋をフリーで取っていても朝の五時までだ。
でもまだ誰一人起きる様子はない。僕が少し腕を動かしたからか、横で寝ていた彼女が起きた。
「今、何時ですか?」
「四時四十五分です。」
「そろそろ出ないとですね。」
「そうですね。」
僕は伸びをして、先輩を起しに席を立った。先輩を起こせば先輩がみんなに呼びかけるはずだ。
「先輩、もうそろそろ時間なんで、起きてください。」
そういうと先輩はゆっくり起き上がって、スマホで時間を確認した。
「ほんとだー。」
伸びと欠伸を一緒にしながらそう言って、起き上がると腕を横に伸ばしながら背中を伸
ばし、手を叩きながら大きな声で回りに呼びかけた。
「そろそろ時間だから起きろー。」
その声に続々と目を覚ましてゆっくりと帰り支度をしだしたとき、部屋の電話が鳴った。
自分の荷物が置いてある席にちょうど戻ろうとしていた瞬間で、ちょうど電話の近くに立っていた僕は思わず電話に出てしまった。
「お時間、十分前です。」
「はい、ありがとうございます。もう出ます。」
そう返事をして受話器を置いた。
「十分前だそうです。」
そう大きな声で呼びかけると、何人かから「はーい。」と返事が返ってきた。
帰る前にトイレに行っておこうと、僕は荷物を持って一足先に部屋を出てトイレに寄っ
た。トイレから戻ると、皆は部屋の前に出てきているところで先輩と目が合った。
「コタ、来てくれてありがとうなー。」
そう言って肩を組まれた。
「先輩がいなくなると寂しくなります。」
そういうとなんだか急にバイトのいろんな思い出が思い起こされて、涙が溢れてきそう
になった。先輩は地元に就職をしたそうで地元へと返ってしまう。先輩の地元は確か静岡で会いに行こうと思えば行けるけど、会いに行くには少々遠い距離だった。もう会うことはないのかもしれないと思うと寂しかった。しかし、先輩はまた会おうといってくれた。連絡先も知っているけれど、それでも物理的な距離が出来ると連絡も取らなくなる気がする。先輩も忙しくなるだろうし気を使って連絡を自分からは控えているうちに、疎遠になってしまいそうだと思った。この瞬間は今だけで、先輩がすぐに会える距離にいるのもあとわずかだ。
察したのか先輩に背中を軽く叩かれて、「また会おうな。」と、念を押してもらった。僕が「はい。」と返事をすると先輩は笑って、他の人との別れを惜しみに行った。僕はそれを後ろの方で見ていた。ふと横を見ると、隣にはあとから来た彼女がいた。彼女もこの別れにはあまり関係がないだろう、僕らは最後だと盛り上がっている先輩方を一緒に見守った。彼女ともこれきり会わないと思う。しかし、それはとても悲しい気がした。
「よかったら、交換しませんか?」
僕はスマホを見せて、勇気を出して隣の彼女にそう言った。胸は少し高鳴っていた。
「いいですよ。」
そう言って快く連絡先を交換してくれて、僕は少し舞い上がった。連絡先のQR コードを読み込んで友達登録をする。お互いにフルネームを表記していた。そこに表示されていた名前で僕は彼女の名前を知った。僕はその名前が表示されている相手にスタンプを送ってみた。僕の送ったスタンプが彼女のスマホに届いたようで、小さな通知音がした後、可愛いスタンプが返ってきた。香月佳夜と表示されたその名前を僕は一度声に出して読んでみた。
「かづきかよさん?」
「こうづきかやです。」
「あ、かやさん。」
逢沢皎汰と書かれた表示を見て彼女が僕に聞いた。
「あいざわ… 」
「こうたです。」
「あいざわこうたさん。あ、『こうた』だからさっき、コタって呼ばれてたんだですね。」
「そうです。皆からコタって呼ばれてます。」
あれだけ会話をしたのにお互いに名前を今まで言わなかったことがなんだかおかしくな
って、僕はにやけてしまった。カラオケ店のドアが開いて、早朝の寒さを感じて身震いした。
外はまだ暗くて、静かだった。駅の近くの商店街の中にあるこのカラオケの周辺の店はガレージが閉まっていて、店内は暗くclose の看板がかかっている店が多く、終わった店の間を通って僕らの集団が歩いた。朝まで空いている飲み屋の前を通った時にはほんの少し、人の気配を感じられた。しかし、それ以外は街ごと眠っているようにしんと静まり返っていた。始発は動いていても、まだ町は眠っている。始まりと終わりが混在した空間に僕は少し感傷的になった。
何度も「これで最後だ」と話をしている先輩たちの声が大きく街に響いた。僕は迷惑にならないかとひやひやしたが、店ばかりのこの場所は住居というよりも店舗ばかり。だから、大丈夫なのかもしれないと自分に言い聞かせた。何より、先輩方が笑って肩を組んで歩いているのがなぜだかとても輝いて見えた。だからこの雰囲気を壊したくなかった。街灯が照らした道を躊躇いもせずに進んで行く先輩たちは、学生という後ろ盾を失った先にある責任の存在に気づいて、子どものようにはしゃげる今を慈しむように、そして別れの寂しさをその背中にかすかに漂わせていた。僕はそんな先輩たちの背中が愛おしくてずっと見ていたいと思っていた。
離れがたいのか、先輩方のうちの誰かが「コンビニ寄ろうぜ」と言った。皆でコンビニに寄って、サンドイッチやおにぎり等の軽食とお菓子、パックのコーヒー牛乳やいちごみるくに、ミルクティー、コンビニカフェのラテやココアを買った。それを携えて、河川敷の端にある川の遊歩道に降りるための少し幅広い階段に向かった。階段を少し下って、階段の中腹に座り込んだ。あれだけ話していたのにまだ話し足りないのか、彼らの会話はずっと盛り上がっていた。買ってきたお菓子や軽食を食べている僕らは、桜も咲いていない中、その瞳に未来の様な不確定な幻想の花を咲かせ、見えもしないその花を見つめ少し早めのお花見をしている様だった。僕は自分の買ったスナックを開けながら先輩方の方を見るとその中の一人がまだ寒いというのにアイスを食べていた。それを見た先輩が呆れながら、からかいつつもげらげらと笑っていて、周りの皆も楽しそうに笑っていた。僕はなんだかとても楽しくてふわふわとした終わりがけの夢の中にいるようだった。隣にいた佳夜さんも笑っていて、僕はその景色から目が離せなくなっていた。
やがて、あたりがうっすらと明るくなってきて、段々と夜が明けてきた。白んできた空に先輩たちの「大人」の始まりを感じた。
始まってしまったら、もう無責任ではいられない。
僕も来年の今頃は「社会人なんだから」となりきれていない大人を装って、必死に大人のふりをしていくのだろう。プレッシャーの様な、押さえつけられる不安の様なものを感じつつも、慣れない仕事や社会での立ち振る舞いを少しずつ覚えていくのだろう。
ビルの隙間から太陽が覗いて、川に朝焼けが反射してキラキラと光った。朝焼けがみんなの顔を明るく照らして、眩しさから目を細めながらその美しい景色に、ただただ見入った。日はすっかり上り、辺りを明るく照らしている。町中が目を覚ましたような気配を感じる。誰かが小さく「そろそろ、帰るか」と言った。その一言は夢の終了を告げる合図のようで、僕はしんみりとした気持ちになっていた。離れがたいけれど、別れがたいけれど、一生会えないわけではないけれど… 。
そんな名残惜しさを全員が感じていたと思う。数時間前まで知らない人同士だったこの人達とはもう二度と会えないだろう。そしてこのメンバーで集まることも二度とないと思った。一期一会の素敵な出会いは終わりを告げようとしている。今生の別れではないのに、なかなか帰り支度を始められない。誰も動こうとはせずにじっと川の光の反射と差し込む日の光を眺めた。しばらく沈黙が続いた。キラキラとまるで祝福して
いるように輝く光をただただ眺めて、立ち竦んでいた。意を決したように、一人が歩みをはじめ、階段を上るとまた一人、また一人と後に続いて階段を上り始めた。ゴミもきちんと回収して、僕らの跡は何も残さないように。「じゃあ、俺こっちだから。」「私はこっちだから。」そう言ってそれぞれが自分の帰る家の方へと分岐していく。切なくて苦しくて、たまらない気持ちがこみ上げてきて溢れそうだった。そこで、僕と彼らの小さくて大きな違いを感じた。たった一つだけしか年は変わらないのに、その一年には越えられない様な重さがあって、学生という肩書が取れかかっている彼らの見送ったその背中には先ほどより色濃く大人の片鱗が見えた気がした。
「じゃあ、俺も帰るわ。」
先輩がそう言うと片手をあげて「またな」と言った。
僕は「はい、また。」と言って先輩を見送った。その「またな」は、いつかまた会おうという透明な約束だった。しかし僕はこの透明な約束を絶対の様に信じられた。
先輩とはこの三年間たくさんの会話をして、そしてたくさん遊んだ。バイト先でも後輩に優しく頼りになる先輩だった。居心地のいい関係の人たちが永遠に周りにいるとは限らない。それぞれに出会いがあって、別れがある。自分が卒業するわけではないけれど、卒業していく人たちを見送って、感傷的な気持ちになった。
僕は、佳夜さんとその友達とでみんなを見送った。刻一刻と朝の匂いは強くなってきて、暗闇はもうどこにも見当たらず、朝という言葉がふさわしくなっていた。
彼女たちは同じ家に帰るのだろう。だったら僕はもう立ち去った方がいいと判断して、
「じゃあ、僕こっちなので。」とそう言った。
「また。」佳夜さんはそう答えてくれて、眠そうな友達と一緒に帰っていった。僕らは、約束もしていないのにまた会うような挨拶をした。
僕はなんだかそれが嬉しかった。歩きなら少し振り返ると帰っていく二人の背中が見えた。朝日はすっかり上って街を起し始めていた。太陽の光が眩しくて目がしばしばとする。薄目で覗いたその先で、世界の輪郭がくっきりとしてくる。次第に通勤姿の人とすれ違う回数がくなり、社会はこれから活動を始めるのかと気が付いた。さっきまで一緒にいたことが遠い昔のように思えてきてどんどん記憶の彼方に送られて行っている、そんな感覚に陥った。まだ人の少ないバスに揺られ、ほんの少しうとうとしながら僕は家に帰った。玄関のカギを開けて、誰もいない部屋に入る。部屋の中は電気をつけないでいいくらい、雑に閉めたカーテンの隙間から漏れている明かりで十分明るかった。靴を脱いで、リビングに荷物を置いて、上着を脱ぐ。座ってほっと一息ついた。こうして部屋の中で座っていると今朝のことが夢の中のような記憶にすり替わっていく感覚が濃くなって、僕はスマホを確認した。スマホの中にある名前に夢ではないことを証明してもらって、安心するとともに名前を見つめて胸の中に込み上げてくる嬉しさがあった。
知らぬ間に疲れていたのだろう。急に眠気が襲った。浅い睡眠しかしていないからか、体が睡眠を要求してくる。それは分かっていたが、しばらく、座ったままぼーっとしている間に、その要求を忘れていた。襲ってくる睡魔を思い出したのは、しばらく壁を見つめているとき、瞼が閉じようとしていることに気が付いたからだ。シャワーを浴びたい、着替えたい。そう思うけれど体が動かない。動きたくない。僕はその要求を受け入れて、着の身着のまま、ベッドに倒れこんだ。何とか布団の間に潜り込むと、本格的に眠りに就こうとする体に少し待ってもらって、今日は何も予定が入っていなかったかをスマホで確認する。何もなかったことに安心したところまでは覚えている。しかしそれからの記憶は途切れていた。
起きると時計は既にお昼を指していて、僕はのっそりと起き上がった。アラームをつけていなかったから、体が眠りたいだけ寝た。ほんの少しすっきりした思考で、シャワーと着替えに思いを巡らせる。しかし、体は動かずそのままベッドでスマホを見た。スマホにメッセージが届いていることに気が付いて、きちんとメッセージの名前を確認すると、佳夜さんからだった。
「昨日と今朝はありがとう。楽しかったです。」
シンプルな言葉ではあったがその一言が嬉しかった。僕は急いで返信を打ち込んだ。
「僕も楽しかったです。ありがとうございました。」
そう打った後、まだやり取りを続けるかどうか迷った。ここでおw らせてょうがいいだろうか。しかし、ここで終わらせると当たり障りのない会話で、他人の距離感のままで終わってしまう気がした。他人ではない、せめて知り合い認りたいと思った。今のままでは一回あっただけの他人だ。どうすれば他人ではなくなるだろうか。一度遊べばすでに友達?あの程度の会話ではせいぜい顔見知り程度の他人だ。一度食事に行けば友達?昨日会ったばかりの人にご飯など誘ってもいいのだろうか。シャワーを浴びて、髪を乾かし終わってもまだ悩んでいた。悩むくらいなら当たって砕けろ。良く言う言葉だけれど、正直砕けたくはない。迷うくらいなら、もしかしたら、そんなことを自分の中でたくさん言い訳をして、前のメッセージの時刻からだいぶたって、続きを送った。幸いまだ既読になっていなかったため、不自然ではなかった。
「よかったら今度ご飯でもいきませんか?」
送った後に不安になって、迷惑だったかと返信が来るまでドキドキしながら待った。そんなに長い間ではなかったように思うがテレビを見ながらも変身にそわそわして待っていた。そして、しばらくしてから返信があった。
「ぜひ。」
そうシンプルな言葉が来た後に、続けて返信が来た。
「一番近くで空いているのは今度の金曜日なんですけど、逢沢さんはいつ空いてますか?」
僕はスマホの中のスケジュール表の予定を確認して返信した。
「金曜日空いてます。」
「じゃあ、金曜日に。何時くらいにしますか?5時くらい?」
「そうですね、じゃあ5時に。今日別れた公園に集合はどうですか?家遠かったりします
か?」
「いえ、そんなことないです。じゃあ、また金曜日に。」
テキパキと決まっていく事務的なやり取り。用件が済めば会話は終了。メッセージの後に可愛らしいスタンプが送られてきた。それによって会話の終了が伝えられ、僕もスタンプで返すことでこの要件のやり取りは終了した。彼女は無駄を好まないのだろうか。だらだら続くくだらないやり取りよりも簡潔なメッセージの方が僕も好きだ。僕はメッセージをしばらく見つめ、ほんの少しだけ先の未来にある胸躍る予定に、少し浮かれた。
金曜日、待ち合わせの時間が近づくにつれて気ぜわしく落ち着かなくなってくる。服を選んで、髪を整え、おかしくないかを確認して、4時半に家を出た。昨日別れたところまではバスで20分しないくらい、少し遅延することも考えて早めに出た。目的地が近づいてくるたび浮かれた感情が他の感情に勝ってきた。4時50分に目的の場所に行くと、2分後に彼女が来た。
「この間ぶりです。」
「あ、この間ぶりです。」
会釈をしながら近づいてきて、朗らかな笑みを浮かべている。その姿は夜に見た彼女の妖艶さ、朝に見た彼女の儚さとは違った夕暮れの哀愁が感じられた。
「じゃあ、行きますか。」
「そうですね。」
僕らは何となく歩き出して、どこに行くかを話し合った。夕食にはまだ早めで、僕らはまずカフェに立ち寄った。飲み物を注文しようと、メニューを見ている目線が被った。
「抹茶オレ?」
驚いたようにこちらを見た彼女の顔は幼い少女のようだった。
「うん。」
「僕も好きです、抹茶オレ。」
彼女は「へぇー」っと微笑みを浮かべさほど興味がなさそうに答えたが嫌な感じはしなかった。
「そういえば、佳夜さんって先輩と一緒の大学ですよね?あそこにもカフェありましたよね。」
「あー、図書館の下にカフェですよね。」
「そうです。あそこの抹茶オレ一回飲んだことあるんですけどおいしかったです。」
「あぁ、あれおいしいですよね。」
僕らは不器用な会話を続けながら順番を待った。レジでそろって抹茶オレを注文して、受け取った飲み物一つずつ持って空いている店内を進む。店内奥の窓際。二人席に腰を下ろした。
「何が食べたい気分ですか?」
佳夜さんは席に着いて抹茶オレを一口飲んでそう尋ねた。
「うーん。何だろう。佳夜さんは?」
「特にないなぁ。」
特にないが一番困るとよく言うが、自分もそう聞かれたら特にないと答えてしまうだろ
うなと優柔不断でもある自分と彼女を重ねる。さすがに一応、候補は漠然と用意して、数店舗頭に浮かんでいた。
「じゃあ、僕の友達がバイトしてるイタリアンにでも行きますか?わりと安いし、いろいろあるんで。」
「じゃあ、そこで。」
とりあえず、夕食の場所は決まった。それから、少しお腹がすくまでの間の1時間くらいをカフェで過ごした。話したのはとりとめのないこと。最近見た映画が良かったとか、読んだ本の話とか。ありふれた話題だけれど、お互いの趣味や感性を知るには十分だった。そろそろお腹もすいてきた六時十五分。僕らは友達のバイト先へと向かった。駅前の商店街の脇道を少し行ったところにあるその店。その日はバイト先に友達の姿は無いようだった。イタリアンといっても気取っていなくて、学生もよく利用する比較的安くておいしいイタリアンだ。僕はパスタとラザニアで迷ってラザニアにした。彼女はボロネーゼを頼んだ。似たような味が好きなのか、好みが似ている気がした。好きな映画も、小説も、ジャンルが似ていて紹介し合えるほど、そして見てみようと思えて、興味の持てるほど好みが被っているように思えた。彼女に惹かれる理由なんてそれで十分すぎるほどだった。いや、一目見たときから僕はすでに心を奪われていたのだろう。だからちょっとした共通点すらもこじつけて同じ感覚、同じ好みだと錯覚したいのだろうか。我ながら少し気持ちが悪いかもしれないとおもったけれど、そう思い込むには十分なほど僕は彼女の感覚を心地よく感じていた。
しばらくして、あつあつのラザニアと、ボロネーゼがやって来た。おいしそうに食べる彼女を見て僕は自然と笑みがこぼれた。このレストランにはバイトしている友達に何度もつれてこられたせいか、店長とは顔見知りでご飯を食べた後、サービスで桃のシャーベットをくれた。なんだか申し訳なくて、でも嬉しかった。そして彼女にちょっと見栄を張れた気がしてほんの少しだけ誇らしい気持ちだった。
食事も終わり、会計を済ませて店を出る。店の外はもうすでに暗くなっていて、少し肌寒さを感じる。初めての食事に、ちゃんと遊んだのは初めて。今日はもう帰った方がいいだろうと頭の中の端の方で考える。
「おいしかったですね。」
店を出て、一言彼女はそう言った。
「そうですね。」
僕がそう答えると、佳夜さんはこちらを向いた。
「コタ君は家どのへんなんですか?」
「僕は大学の近くで一人暮らしをしているのでここからだとバスで二十分くらいですね。」
「じゃあちょっと遠いんだね。ごめんね、公園の近くで待ち合わせ指定しちゃって。」
「いえ、全然。」
「佳夜さんはここらへんなんですよね。」
「そう、千夏ちゃんの家がこの近くで私はそこに居候させてもらってるの。」
「そうなんですね。」
そうだったのか。千夏さんと言われる方はおそらくカラオケの時の人だろう。彼女に連絡していたのも同じ家に帰っていったのもそういうことだったのか。ルームシェアしてたんだなと自分ではそこまで気にしていたつもりでもないうっすらと気になっていたものが無意識に腑に落ちた感覚だった。
「よかったら送らせてください。」
「ありがとう。」
彼女の家は公園から歩いて帰られるくらいの距離。つまりここからも歩いて帰れる距離
だという事を思いだし、名残惜しさ感じる別れをほんの少し先に先送りするために僕は彼女に送っていくと言った。五分咲きの夜桜が風に揺れている。僕達はこの一週間のうちの急に咲始めた桜を見ながら帰った。少し強い風が吹くたびに彼女のスカートが揺れ、桜が散った。僕は歩くたびにほんの少しの高揚感を嚙み締め、哀愁を感じていた。
「ここ。」
そう言われてたどり着いたのは、小さなマンションだった。オートロックを解錠して、歩みを進めた彼女を見送ろうとした。すると彼女が振り返って、こういった。
「どうぞ。」
僕は一瞬考えた。ここで女性の家にのこのことついて行ってもいいのだろうか。
「いや・・。」
そう言いかけた時、彼女が口を開いた。
「今、千夏ちゃんが今引っ越しの準備してるから散らかってるかも知れないけど。良かったら千夏ちゃんも一緒に飲みなおそうよ。」
あぁ、そういう事かという安堵なのか少し残念なのか良く分からない気持ちとまだ一緒
にいられるという事に素直に喜んでいる心を必死に隠してにエレベーターに乗った。6階を押す彼女は、慣れた手つきで廊下を進み角の部屋の前で立ち止まった。鍵を開けて中に入った彼女に続き、玄関のドアをくぐると、段ボールだらけの部屋には見覚えのある女性がいた。やはりカラオケの時彼女の隣に座っていた子だった。ヘアバンドつけ、部屋着で荷物を整理していた。
「あれ、君この間の飲み会にいたよね?」
「はい、いました。」
「だよね、見たことあると思った。佳夜が遊ぶって言ってたの君だったんだ。」
「そうだよ。コタ君だよ。」
「よろしく。」
軽い感じでそういうと彼女は持っていた段ボールを床にドンと置いた。
「お客さんにこんなこと頼むの悪いんだけど、少し手伝ってくれない?これ重いんだよね。運べたりする?」
「あ、はい。」
「助かるわー。」
声を掛けられ、反射的にそう答えると、荷物を運ぶために僕は彼女たちの家に上がった。一足先に部屋に入った佳夜さんも段ボールの中に荷物をしまっている。
「佳夜さんも引っ越すの?」
僕は佳夜さんにそう聞いた。
「引っ越すのは私だけ。もう卒業だし、地元で就職決まってるから、地元に帰るんだよ。」
後ろの方から千夏さんの声がした。
「へぇー。」
「君三年だっけ?」
「はい。」
「就活始まるじゃん。」
「あ、実はもう決まってて。」
「まじか!めちゃめちゃ早くない?だってまだ三月だよ?」
「去年インターン行きまくって、二月に早期面接あってこの間、地元の会社に内定もらいました。」
「そうなんだ。私とか四年の十月まで決まんなかったよ。いいねー、一年遊べるじゃん。ゼミと卒論だけでしょ?」
「そうですね。」
去年インターンに行って早期選考で面接を受けてもらった内定。思ったよりも早く決ま
った就職先は、地元にある中小企業。僕はよく一緒にいるメンバーの中で一番早く就職が決まった。それは、動き出しが早かったこともあるが単純にんが良かったのだと思う。部屋の中は既にあらかた片付けいていて、今詰め終わった荷物を隅の方に寄せる。段ボールだらけになったこの部屋の空いている窓から風が入る。まだ少し寒いけど、動いた後の火照った体にはこのくらいの寒さがちょうどよかった。
「ビール飲める?」
「あ、僕お酒苦手で。」
「そっか。じゃあ、サイダーでいい?」
「はい。」
「じゃあ、私もサイダー。」
「はーい。」
僕らにそう聞くと千夏さんはもうすでに飲み物しか入っていない冷蔵庫から飲み物を持
ってきてくれた。リビングの開いている空間に座って段ボール一つをテーブル代わりにして僕らは乾杯した。
「いやー、片付いた!」
ビールを一口飲んで、千夏さんは達成感に満ちた声を出した。
「佳夜、あんた私が引っ越した後どうするの?」
「どうしよー、ネットカフェにでも入り浸るかな?」
僕はその無鉄砲な今後のプランを口にした彼女に少し驚いた。今日話した印象では、しっかりしているように感じたからだ。しかし、軽く冗談めいて言うその口調のせいで僕には本気かどうかわからなかった。
「やめなよー、ちゃんと家帰ったら?一人暮らしでせっかく家はあるんだし。バイトしなくてもいいくらいに振り込みもあるんでしょ?ねぇ。」
「はぁ。」
「はぁ」と言ってしまった。事情も知らないので答えにくい。「そうですよ」は佳夜さんの考えを否定しているように聞こえてしまうかもしれない、「はい」もおかしいし、うまく返しが浮かばなかった。千夏さんは彼女の軽さに合わせるように軽い感じで無鉄砲な考えを止めていた。僕も女性が一人でそこに住み着き居続けることは危ないと思う。若い人のホームレスはネットカフェや漫画喫茶にいるという事を授業で習ったことがある。だから可視化されづらく支援者も発見できずに支援が行き届きにくい。そう習ったような気がする。なんだか急に思い出した。やめときなよ。僕もそのように軽く返せたらいいのに。僕の知らない彼女の事情があるのだから僕なんかが口をはさむことじゃない。僕と彼女のこれまで歩んできた人生は違うんだから。やめときなよって言った後にその言葉に責任とれる?そう心の中で声がして言葉を飲み込む。彼女は「そうだね。」と笑って冗談でしたとおどけて見せた。
安堵と同時に少し傷ついた。一瞬本気にして、本気で心配してしまう。
冗談でよかったけど、誰かを心配させるような冗談は好きじゃない。本気で心配してしまった自分が馬鹿みたいで恥ずかしくなる。いつもそうだ。彼女たちの会話に入れずにただ聞いている自分。話を振られても上手く解せない自分。嫌になる。どう返していいのか一瞬迷っている間に置いて行かれる会話。僕にはテンポが速い同級生たちの会話。いじりだと冗談だと分かっているのに本気で傷ついてしまう自分も、僕は嫌いだ。最近どんどん自分を嫌いになる。
PM 9:00。
あたりはどっぷりと暗くなって、そろそろ帰りのバスの時間を頭の隅で考え出す。スマホで帰りのバスの時間を調べる。それを見た千夏さんは「泊まっていきなよ。」
と言った。僕は「帰ります」と言おうとしたが、「泊まっていきなよ」と佳夜さんにも言われ、いいから、いいからと座らせられて断りづらくなった。僕は黙って座って彼女たちの会話を聞いた。
佳夜さんには家があって、そこからおそらく家出をして佳夜さんが居候のような形で千
夏さんの家に住んでいて、でも生活費や食費は折半。家出をした家には佳夜さんしか住んでいないようでお金が振り込まれている、という状況のようだ。
千夏さんはだいぶ酔ってきたのか少し口数が少なくなってきた。僕は思ったことを勇気
出して話しかけてみた。
「家があるならいったんどうするか決まるまで帰ってみたら… 。」
「私に家はないの。」
食い気味にそう帰ってきて少し驚いた。
「家出?」
「違うよ。」
「そっか。」
何をどこまで聞いていいのか分からず、佳夜さんも何も言わず、少しの沈黙があった。
「あるにはあるんだけど、帰りたくないんだよね。」
寝ていると思った千夏さんは寝ていなくて、気を使ったのかそう言った。
「… うん。あそこは親が用意した厄介払いの家だから。」
思いつめたような佳夜さんの表情とその言葉を聞いて、千夏さんは静かに佳夜さんの背
中をやさしくなだめる様に撫でた。彼女が初めにないと言ったのは無いと思いたいという感じなのだろうか?よっぽど帰りたくない理由があるんだろうか。家族と仲が悪いとか… 。
緒に暮らしていないようだけど… 。振り込みでお金はある… 。お金があるなら… 。
「お金があるなら部屋を新しく借りてみるのは?」
「一人だと死にたくなるから。」
彼女はさらりとそう言った。僕は思いがけない言葉に何も答えられなかった。千夏さんは少し困ったような顔をしていて、僕と目が合うと少しだけ微笑んだ。
「そうだ、だったらこの子の家に居候させてもらったら?」
千夏さんがぱっと場を切り替えるような声でそう言った。
「え、僕の家ですか?」
「シェアハウスみたいな感じだよ、一緒に住むと家賃は半分になるし、生活費も半分。佳夜はとてもいい子だし、料理上手でご飯もおいしいよ。」
そう言われても、他人と住むことは簡単には決められないのではないのだろうか?悪い
人ではないという事はよくわかるけど… 。そんな簡単に他人と住んでもよいのだろうか?
「だめ?」
ダメという理由もないけれど知り合ったばかりの女性と?どうしようと悩んだ。けれど、特に金持ちというわけでもない、取られて困るものもないし、家賃や生活費は親の仕送りで何とかなっている。しかし半分だけでよくなれば親の負担も減るかもしれない。何より困っているようだし、ネットカフェよりは… 。何となくそう考えた。
「… いいですよ。」
ちょっと悩んで、困っているならとそう答えてしまった。自分は他人と暮らせるのだろうか?ちょっとした不安はあったけれど、助けになるのなら。
「よかったー、これで安心して地元帰れるわ。」
「いいの?」
「うん、まぁ、別に… 。」
「君のことは君の先輩がめちゃくちゃいい奴って言ってたから、信頼してるよ。」
「はぁ。」
信頼されていいのだろうか?僕はそんなにできた人間だろうか?
千夏さんは「じゃあ、私寝る」と段ボールの奥に隠れるようにまだ片づけられずに残されていたベッドに横になった。
「あ、皆寝るとこないね。」
「私頭の方で丸くなって寝るから君たち下の方で丸くなって寝るのでよかったらベッドどうぞ。」
「いや、僕は床で大丈夫です。」
「私も今日は床でいい。」
「あ、そう?」
「じゃあ暖房強くするね。夜はまだ寒いし。はい、クッション、枕にして。それと毛布と布団。」
「いや、僕は大丈夫ですよ。千夏さん寒くないですか?」
「私ブランケット重ねて寝るから大丈夫。」
「じゃあ、お借りします。」
「じゃあ、おやすみ。」
千夏さんはそういうと電気を手元のリモコンで切ってすぐに寝息を立てだした。僕らは
毛布を敷布団にしてクッションを枕に布団をかけて横になった。できるだけ怖がらせないように気持ち悪がられないようと近くに寄らないように心がけ、端の方にクッションを置いた。すると佳夜さんは笑って「もっとこっち寄りなよ。」と言った。僕は高鳴る胸の音がどうか聞こえませんようにと祈りながら彼女の近くにクッションを置いて横になった。
「本当にいいの?」
急にそう聞かれてドキッとした。何の話のことかを考えて、ルームシェアのことかと頭の中で繋がった。
「いいよ。でも、俺男だけど… 。もちろん、変なことをするつもりはないんだけど、そんな簡単に決めたら危ないよ?僕たち会ったばかりだし。」
「まぁ、そうなんだけど。あんな家にいるよりは危なくても君と住んだ方が何倍もいい。君と話して、少し知った印象としては危なくはないと私は思ってるし。」
僕は戸惑ったけれどなんだか放ってはおけないと思った。厄介払いの家とはいったい何
なんだろうか?詳しくは聞けなかった。少し苦しそうな顔を無理に口角引き上げて気丈にふるまっている気がした。一人だと死にたくなるだなんて彼女はよほど思い詰めているのかもしれない。人には誰かを言える苦しみと言えない苦しみがあると思う。それは誰かにとってはとるに足りない苦しみなのかも知れない。しょうもないと笑われるかもしれない。けれど、苦しみは本人にしかわからない。誰かに言えない苦しみは、言える苦しみよりも心を蝕む。浅い付き合いで、深く入り込むのは怖い。聞きたいけれど、何も聞けなかった。朝、目が覚めると僕の放り投げていた手と佳夜さんの手がそっと重なっていた。僕は驚き、目が冴えた。窓からあふれるように入ってくる光で照らされている寝顔。昨日荷造りで物を動かしたからか、部屋には少し埃が舞っていて、その誇りに光が反射してキラキラとしていた。
僕は体を起こして、頭を一つ掻いた。
それから数日が経った。
彼女は千夏さんが引っ越す日にうちに来ることになった。そして今日、千夏さんは地元へ引っ越したらしい。その日の夕方、彼女が僕の家にやってきた。キャリーケースを一つだけ持って。彼女が持ってきた荷物はそれだけだった。このキャリーケースは佳夜さんの物だったのか。引っ越しの手伝いをしていた時、このキャリーだけ違う場
所においてあって当日に持っていくものなのかと思っていた。
「お邪魔します。」
そう言って、僕の部屋に現れた彼女が玄関先にいるのがまだ信じられなかった。一瞬の変な間があって彼女がキャリーケースの置き場を探していることに気が付いた。
「キャリーケースは… とりあえずここに。」
「はい。」
マンションの小さなワンルーム。壁際にキャリーケースを置いて、彼女は僕の生活空間へと足を踏み入れた。彼女をテレビの前においてあるこたつに案内して、テレビをつけた。僕はキッチンでスティックタイプのお湯を注ぐだけで出来るミルクティーを入れた。
「ミルクティー大丈夫?」
「うん、ありがとう。」
僕はマグカップにスティックから粉を入れてお湯を注いだ。それを彼女が座っているこ
たつへと運ぶ。
「ありがとう。あったかい。」
彼女はそう言って、ミルクティーを一口飲んだ。まだ寒い日が続いている。こたつ布団を直さないでいて良かった。しばらく二人でこたつに入ってミルクティーを飲んで、夕方の再放送のドラマを見ていた。ドラマが終わって、中身を飲み終わったマグカップを流しに持っていく。
今日食べるものを買いにコンビニに行こうと言うと、彼女は近所のスーパーに行こうと
言った。
「スーパー?」
「うん、いろいろ必要なものもあるし。」
「そっか、そうだね。」
歩いて十分ほどのコンビニを通り過ぎて、少し先にある角を曲がった所にあるドラック
ストアや小さな100 均が併設されているスーパーに行った。彼女はそこでシャンプーとリンスボディーソープをかごに入れた。その時ハッと思い出した。ちょうど家にあるそれらが切れる頃だった。
「これは僕が買うよ、僕のがもうすぐなくなるからちょうど買わなきゃと思ってたんだよね。一緒に使おうよ。」
「いいの?」
「うん、あ、でも人が使ってるのは嫌だよね。」
「ううん、平気。ありがとう。」
彼女はそういうと、他に歯ブラシ、歯磨き粉、化粧水に、乳液、メイク落としをかごに入れた。引っ越しの時に無くなってしまい、化粧水なんかはもう残りが無かったから全部まとめて捨ててしまったらしい。
スーパーの小さな100 均にあったボディータオル、マグカップとお箸とお茶碗を買った。千夏さんと住んでいた時は千夏さんの物を借りていたらしい。スーパーでは、冷蔵庫になのが入っているかを聞かれ、飲み物以外入ってないというと、総菜と弁当を買って、少し野菜を買った。調味料は何があるかを聞かれ、しょうゆと砂糖と塩と塩コショウ、あと油があると答えた。僕はめったに料理をしない。どれも友人の誕生日会を祝ったときに厨房でバイトしている奴が買ってきて置いて行ったものだ。彼女はそれを聞くと小さいボトルの料理酒やみりん、他にもいろいろと買っていた。会計をしている時に気が付いたが、彼女のエコバックはさっき買ったものでいっぱいで、自分のエコバックを忘れたなと思っていると彼女の鞄からもう二つエコバックが出てきた。感心していると彼女はさっさと会計を済ませて、エコバックに食材などを入れた。
「すごい手慣れてるね。」
「家でずっとしてたから。」
「そうなんだ。」
彼女の姿に感心しつつ生活能力の高さを尊敬した。掃除や洗濯は一人暮らしならやらな
くちゃいけない生活能力の一部として直面するため、親に聞いて覚えたけれど、食事はもっぱら外食やコンビニ、まかないで済ませていた。
「料理得意なの?」
うーん、人並みにはできるよ。」
「へぇー。僕も見習わないと。あ、家に帰ったらお金払うね。」
僕らは荷物を持って、マンションに帰った。キッチンの流しで手を洗う。その横にある小さいけれど冷凍室もちゃんとある備え付きの冷蔵庫は今まで冷凍食品やコンビニ飯、飲み物しか入っていなかった。彼女がその中に野菜が収めていく。冷蔵庫に中身が入ることで本来の機能を与えられ、実家の冷蔵庫の様な生活感が出て少し感動した。キッチンには長い目を見ると作った方が安いのは分かっているけれど、初期費用や作る手間や頻度とかを考えるといらないだろうと思って買わなかったものがそろえられて陳列された使い勝手のよさそうなキッチンになっていった。
買ってきたものを、収納し終わるとちょうどお腹もすいて夕食にしようとなった。今日は買ってきた総菜とお弁当をレンジで温めて食べた。満腹になって、しばらくテレビを眺めて、彼女に「シャワー、先にどうぞ」と言ってタオルのある場所を伝えた。
彼女は「ありがとう」と言うとキャリーケースからスウェットなどをだして今日買った物を持って風呂場に向かった。トイレと風呂場は玄関から入ってすぐの短い廊下にあって廊下とリビングには一つ扉がある。彼女がシャワーを浴びている間この扉は絶対に開けられないなと思った。二人ともシャワー等をすまして、スウェットやジャージに着替えテレビを見ていた。僕は少しドキドキしていた。女の子が僕の部屋でリラックスをしてテレビを見ている現状に不思議な感覚になった。少し濡れた髪に、化粧を落として少し印象の変わった可愛らしくあどけない顔がテレビを見ている。テレビを見て笑っている彼女に少し嬉しくなって、並んで一緒にテレビを観た。観ていた番組が終わって、時刻は十一時を過ぎていた。
「そろそろ寝る?」
僕がそう聞くと、彼女は「そうだね」と言ってテレビを消した。
「ベット使って。僕こたつで寝るから。」
「悪いよ、ベッド使って、私がこたつで寝るよ。」
「いいよ、最近こたつで寝てたから、ベッド使ってなかったし。使って。」
「ほんとにいいの?ごめんね、ありがとう。」
彼女が僕のベッドに横たわったのを確認して、電気を消した。こたつに入って、大きめのビーズクッションに寄り掛かる。深く倒れこんで、ビーズクッションに体の半分を預けて横になった。暗闇の中携帯をいじっていると彼女の寝ている方向からも小さくて明るい光が見えた。僕のスマホと彼女のスマホの光。暗闇の中に小さくて明るい光が二つ浮かんだ。
