自分のことになると、本音がわからなくなる理由|ハッピーライティングマラソン#59
人のことなら良く分かる、よく見える。
誰かの相談に乗っていると、
「それ、本当に気にしなきゃいけないことかな?」
とか、
「もっと、できているところを見てもいいんじゃない?」
なんて言葉が、わりと自然に出てくる。
ところが。
それが自分自身のことになると、
急に何も言えなくなる。
頭が真っ白になる。
「どうしたい?」
と聞かれても、
「うーん……。」
しか出てこない。
そんなこと、ありませんか?
私は、あるオンラインコミュニティで
話をしているときに、
その理由が少し見えた気がした。
私は、自分のことになると、
本音をそのまま話せない。
正確に言うと、
本音を無意識に加工してしまう。
「これくらいなら受け入れてもらえるかな。」
「この言い方なら大丈夫かな。」
そんなふうに、
ほんの少し角を丸くしてから
言葉を発する。
しかも、それは考えてやっているわけじゃない。
もう長年のクセだから、自分でも気づかないくらい無意識。
だから困る。
加工を繰り返しているうちに、
どこまでが本音で、
どこからが加工なのか、
自分でもわからなくなる。
その日、私は一つの実験をしてみた。
「自分のこと」だと思うから
話せないなら、
『私にそっくりな第三者』の話
だと思ってみよう。
そんなふうに考えてみた。
すると、予想外のことが起きた。
自分自身に対して
気軽に言葉が、するすると出てくる。
「それって、本当に欠けていることなのかな?」
「欠けているところばかり見なくてもいいんじゃない?」
「できていることが
当たり前になりすぎて、
見えなくなっているだけかもしれないよ。」
あれ?
それ、自分自身には一度も言ったことがない言葉だ。
でも、「私にそっくりな誰か」に対しては、
自然にそう言えた。
そのとき、もう一つ気づいた。
私はずっと、
「欠けている自分を直せば、ありたい私になれる。」
と思っていた。
だから、欠けているところばかり探しては、
対策しようといていた。
でも、ふと思った。
その「ありたい私」って、本当に必要なんだろうか?
誰が作ったんだろう。
いつから信じていたんだろう。
もしかしたら私は、
「ありたい私」
を追いかけていたんじゃなくて、
「こうならなければ受け入れてもらえない私」
に追いかけられていただけなのかもしれない。
もしそうだとしたら。
壊すべきなのは、
欠けている自分じゃない。
「ありたい私」という思い込みのほうなのかもしれない。
そう考えたら、視野が少し広くなった。
比喩ではなく実際に見える角度が広がった。
体の力が抜けたからかな…
人には優しくできるのに、
自分には厳しすぎる。
そんな自分を責める必要はない。
まずは、
自分にそっくりな友達が
目の前にいるつもりで、
一言、声をかけてみる。
案外その言葉が、
今の自分が
一番聞きたかった言葉
なのかもしれない。
