プラトレーが嫌い

休みの日はスーパーやデパ地下を歩くことが多い。特に何かを買う予定があるわけではない。散歩の延長みたいなものだ。季節限定の商品、新しく発売された商品、お店が力を入れている売場。そういうものを眺めていると、その時々の世の中の空気が少し見える気がする。だから買い物というより観察に近い。

ところが最近、売場を歩いていて不思議なことに気づいた。魅力的な商品がたくさん並んでいるはずなのに、欲しいと思うものがほとんどないのである。以前なら新商品や期間限定という言葉に反応していた。気になれば試してみたくなったし、せっかく見つけたのだから買って帰ろうと思うことも多かった。それが今は違う。ひと通り見て回っても、手に取るものがほとんどない。

それでも足が止まる場所はある。果物売場とパン屋さんだ。

最初は健康志向になったからだと思った。年齢とともに食べるものの好みが変わったのかもしれないとも考えた。でも、どうもそれだけではないらしい。何度か売場を歩きながら観察していて、ひとつの共通点に気づいた。果物もパンも、プラスチックトレーに入っていないことが多い。

その瞬間、自分の中で何かがつながった。

どうやら自分はプラトレーが嫌いらしい。

売る側からすれば、プラトレーは非常に優秀な道具なのだと思う。安価で軽く、食品を保護しやすい。形も整えやすく、見た目もきれいに見せられる。輸送や陳列の効率を考えれば欠かせない存在だろう。実際、スーパーやデパ地下を支えているのはこうした包装資材なのだと思う。

それなのに、私はあのトレーを見ると急に気持ちが冷める。

理由を考えてみると、中身を見る前に処分のことを考えてしまうからなのかもしれない。買って帰ったあと、洗うのか、そのまま捨てるのか。ごみ箱の中で場所を取るだろうな。回収の日まで置いておかなければならないな。そんなことが無意識に頭をよぎる。食べる前なのに、食べ終わった後のことを考えてしまう。

もちろん環境問題を意識しているわけではない。石油製品だから嫌だとか、脱プラスチックを実践したいとか、そういう思想があるわけではない。ただ純粋に個人の感覚として好きではない。なぜかは説明しづらいが、あの容器を見ると「面倒くさい」が先に立つ。

その一方で、コンビニのおにぎりやパンは普通に買う。包装されていても気にならない。つまりプラスチックそのものが嫌いなわけではないらしい。袋状の包装は受け入れられるのに、箱型のトレーになると途端に魅力が薄れる。この違いは自分でも面白いと思う。

果物に惹かれる理由も、もしかしたらここにあるのかもしれない。りんごやバナナはそのまま並んでいる。余計なものがない。買ったあとも気が楽だ。パン屋のパンも同じで、紙袋に入れてもらえばそれで終わりである。食べるまでの流れも自然だし、食べ終わった後もほとんど何も残らない。その身軽さに私は価値を感じているのだと思う。

考えてみれば、これは食べ物の話ではないのかもしれない。

私は昔から「後始末」を含めて物事を考える傾向がある。モノを買うときも、使う場面だけではなく、収納や管理、処分まで想像してしまう。便利そうに見える商品でも、その先に手間が見えると急に魅力がなくなる。逆に、管理や処分が簡単なものは、それだけで価値が高く感じられる。

プラトレーへの違和感も同じなのだろう。私は食品を見ているつもりで、実は食品だけを見ていない。買って、食べて、捨てるまでをひとつの体験として見ている。そして、その体験の中に面倒さが入り込むと、欲しいという感情そのものが弱くなってしまう。

そう考えると、マクドナルドが好きな理由も少し説明がつく。味や価格だけではない。包装はシンプルだし、店内で食べればその場で完結する。食べ終わったあとに残るものが少ない。知らないうちに私はそういう身軽さに惹かれていたのかもしれない。

スーパーやデパ地下を歩いていて気づいたのは、欲しいものが減ったということではなかった。本当に気づいたのは、自分が何に魅力を感じる人間なのかということだった。私は商品そのものだけでなく、その先にある管理や処分まで含めて見ている。そして、できるだけ何も残らないものに心地よさを感じる。

売場を歩きながら見ていたのは商品ではなく、自分の価値観だったのかもしれない。

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