新・恋愛掌篇集3「Das Wirtshaus ── 宿屋にて」
叢にゐる。結、君が眠る髙臺の叢に。
未だに君は約束を履行して呉れないな、と僕は苦笑混じりに叢の石像へと囁きかける。君のお氣に入りであつた「ドキンちやん」と云ふ漫畫の登場人物を模した、君の墓石を前にして、だ。
傍らには、近く僕が眠るはずの「アンパンマン」を模した石像が、そつと寄り添ふ。
六十年前の終戰の後に僕らは再び巡り合ひ、以來ひつそりと此の避暑地に暮らしてきた、別莊番として。別莊の主たる家庭に生まれし甲斐少年は、子供を授かれなかつた僕ら夫婦には孫にも等しく、そんな孫の如き彼にドキンちやんの人形を贈られてより、君は其れをとても氣に入つたのだつたね。
甲斐君と君の、こんな會話を僕は憶えてゐる。
「結おばあちやん、ドキンちやん氣に入つたの? そしたら今日から、結おばあちやんはドキンちやんだよ」
「さうなの甲斐君? 嬉しいわね。それにしても、おばあちやんはこんなに可愛いかしら?」
「うん! 結おばあちやんがドキンちやんだから、慧おぢいちやんはショクパンマンだね」
「あらでも、甲斐君は此の前かう言つてゐたわね……ドキンちやんはショクパンマンに片思ひしてゐるつて」
「さうだよ」
「そしたら、慧おぢいちやんもおばあちやんを愛して呉れてゐるから、片思ひでは都合が惡いんぢやないかしら?」
「ぢやあ慧おぢいちやんはバイキンマン!」
「其れも變だわね。おばあちやんも慧おぢいちやんを愛してゐるから」
「そしたら、ううん……良く判らないや、ぢやあ慧おぢいちやんはアンパンマン!」
少年を相手に笑顏で言葉を交はす君は無邪氣な少女のやうであり、僕は微笑ましい少年との會話を耳にし目の當たりにしては、ドキンちやんとアンパンマンを模しつ僕らが眠る夫婦墓を築かう、其のやうに思ひ立つたのだよ。
其の夫婦墓こそが今から僕の赴く場所であり、來世で再び君と邂逅するまでに供される宿、住まひである。然し乍ら僕は、君と此處に眠る事を未だ許されてゐない。死別から早十一年になんなんとするが、一體いつに成れば、君はあの日の約束を履行して呉れるのだらうか?
「私が逝つたら、すぐに迎へにいくわ──」

そんな君の「約束」を胸に、僕は十一年もの幾星霜を淡々と遣りつ送りつ其の日を待ち侘びてきたが、もういいだらう? 僕らの時間を顧みるなら、十一年はわづかであるやもしれぬが、あの甲斐少年も既に、君がゐなくなつたと泣き喚いてゐた小學生ではなく、此の春には大學を修えし立派な青年として勇躍するのだよ。だから、もういいだらう?
刹那──叢は疾風にざわめき、其れで僕は蹌踉めいてしまつた。
最早足腰もままならぬ。
ねえ後生だから、ねえ結? 後生だから迎へにきて欲しい! 齢八十も半ばに差しかかる僕には、外に望むべくもないのだよ? 否、若くあるにせよ其れは變はらぬ。何より僕が眸は君の外に何ら映さうとせず、事實何らも映らなかつた! 君の傍らにある事のみ、冀つてきたのだから──。
果たせるに、彼岸なる君の許へと赴く事のみ、かうして願ふからなのだらう、か?──
僕を取り卷く叢は、現實とは思へぬ光景へと變じてゐた。
不意に無數の屍が其處を覆ひ盡くしてゐたのだ。僕の眼前に、若くして逝つてしまつた朋輩達の姿が映し出されたのだ。
何が起きてゐるのか? と訝しく思ふ轉瞬であつた。あの十月の神宮の杜に、僕はびしよ濡れに成り乍らも精氣に溢れてすつくと立つてゐるのに氣づいた。
總理大臣・東條大將の訓示や立ち居振る舞ひには、寧ろ寒々としたものを喚起させられる許りであつた。其れは彼自身が、結局は萬策も盡き果てし現狀に苦澁を浮かべるより術なしと知つてゐたからやもしれない。僕らも、其れは疾うに判つてゐたのだよ。にも拘はらず、誰しもが陛下のため御國のためと云ひ聞かせつ、或る種の自家撞着を皆で演じては死を厭はず、只管頑張らうとしたのだよ。詰まるところ其れは故郷のためであり、そして何より愛するひとのためにであり、其の決意だけが僕ら學徒を絶望的な戰局の只中へと驅り立てたのだよ。
氣づけば「海ゆかば」を唱つてゐた。
大伴家持は、父祖の功績を讃へやうと此の長歌を詠じたはずである。然し乍ら僕らの大方はおそらくのところ、きつと其のやうなる理念とは『無縁であつた』はずではなかつたか?
神宮の杜に空しく谺する海ゆかばは、若き僕の疑念が齎す眩暈を契機に、上野の杜に響くシッラーの「歡喜の頌歌」へと變じてゐた。さうだよ、あれは慥か、海軍豫備學生として海兵團に入團をする直前の十二月だつた。結、君の手引きで東京音樂學校の壯行演奏會に忍び込んで、僕は其れを耳にしたのだよ。
シッラーが刻む自由の理念こそ僕が密かに希求する高邁な精神であり、其の理念を髙らかに唱和する君は、迚も輝いてゐたのであつた。今でも年の瀬に、其れを耳にし眼にするたびに、輝かしい笑顏で謠ふ若き君の神︀々しき姿が浮かぶのだよ、昭和十八年末の、東京音樂學校奏樂堂のあの日と變はる事なく。
君が七十を前に逝つてしまつてからも、遡つては神宮の杜でも上野の杜でも、否、其れ許りではなかつた、不條理な教練や、或る種イイ加減な軍務の最中にあつても、鹿屋基地でラヂオから流れるヒロヒト天皇陛下の御言葉を耳にしてゐた時でさへ──愛する君の貌の外に、僕には何ら映らなかつたのだ!
敗戰の後に、僕はささやかではあるが、然し確たる自由を手にした。其れは詰まるところの「必然」であつたと思ふ。多大なる犠牲と無數の流血を礎に成り立つ自由なのだから。
なればこそ僕は、自由を此れみよがしに行使したくはなかつた。ただ靜かに己の生涯と向き合ひ度いだけであつた。
結、君はそんな僕の許に、愛らしき笑みを浮かべ乍ら寄り添つて呉れたのだ。
「私達は必然で結ばれてゐるの」
君はいつでも其のやうに囁きかけては、僕の左隣を歩んでくれたのだ。成功とは無縁の人生であつたし、取り立てて劇的な生涯ではなかつたが、いとほしき君を伴侶に、概ね滿足のいく人生を送つてきたと僕は思ふ。君の笑顏が、常に僕の傍らで輝いてゐたから、僕は僕の人生に滿足してゐるのだ。
君、結のさまざまな笑顏だけが僕の心に映じる人生であつたのだ。
僕には君より外に何ら映らない!
君の許へ行かう! タルコーフスキイとか云ふ映畫作家の描く狂人ドメニコのやうに、シッラーの詠唱に送られ乍ら僕は僕に終止符を打たう! いざ君の許へ!
紅蓮の焔に包まれる僕の耳には、壞れかけたポータブルレコーダから途切れ途切れに流れるシッラーの頌歌が響き渡つてゐる筈であつた。然し誰かが僕を呼んでゐる。
殘念乍ら、其れは耳朶に馴染む君の呼び聲ではないやうだ。

青年の野太い聲だつた。甲斐青年だ。僕の虹彩は最早何らをも映さないやうだが、微かに聞こえるのは、彼の叫びであつた。ふと、帝大生であつた時分に諳んじてゐたミューラーの一節が、腦裡へと谺してゐた。
嗚呼無情なる宿屋よ
猶も僕を受け容れぬのか?
僕は宿屋──墓に眠るのを未だ許されぬのか? 結、君は未だ僕を迎へに來てはくれぬのか? 聲なき聲で、さう呟いてみた。
※初出:2005年
© Yusuke Yawata
