【21日の音楽38】La Jeune Fille en Feu by Para One & Arthur Simonini
4年目に入った毎月の音楽紹介。今月からタイトルに通し番号つきで【21日の音楽】と入れることにした。先日、5年間の振り返りをしていて、タイトルだけではわかりにくいと感じたため。面倒なので過去のタイトルまで変えるつもりはないけれど。数えたら今月は38回目だった。
10月も後半になり、金木犀が香り、秋らしく肌寒い天候が続いている。ようやく長い長い夏が終わった。
もうすぐハロウィーンである。日本では近年、米国スタイルの仮装と「Trick or Treat」が認知されてきたけれど、もともとはサウィン(samhain)祭というケルト文化の年間行事に由来するらしい。Samhainは“夏の終わり”を意味する。夏の収穫に感謝する供物がされ、篝火が焚かれ、また、この日に帰ってくる先祖の魂を歓待する行事であった。ハロウィーンのカボチャは供物、ゾンビや骸骨は先祖の姿だというわけだ。前者は感謝祭、後者はお盆に近い感じだ。
ハロウィーンを象徴するような音楽はなんだろう。そう考えてもなにも思いつかない。ケルト文化由来だから?とは言え、アイリッシュ起源のカントリーウェスタンはあまりハロウィーンとは結びつかない。
そんなことを考えていたら、ふと思い出した音楽があった。映画『燃ゆる女の肖像』で印象的に使われていた音楽だ。映画の舞台は18世紀のブルターニュ。ブルターニュには現代もケルト文化が色濃く残っている。
その音楽は、焚き火を囲む女性たちによって歌われ、増幅する歌声が主人公ふたりの心情を効果的に描き出していた。どこかで読んだ映画の解説では、実際のブルターニュの音楽ではなく、映画のためにつくったオリジナル曲だそう。繰り返される歌詞(?)にはラテン語のフレーズが使われている。
Fugere non possum
「わたしは飛ぶことができない」
そして、
Nos resurgemus
「わたしたちは再び昇る」
である。これはあのニーチェの言葉にヒントを得て書かれたらしい。『ツァラトゥストラかく語りき』の一節。
Je höher wir steigen, um so kleiner erscheinen wir Denen, die nicht fliegen können.
高いところへ行けば行くほど、小さく見えるのだ、下から見れば(機械翻訳)。
映画で描写された18世紀の女性の立場とブルターニュの世界観を照らし合わせると、旧態依然の制約のなか主体的に生きる女性たちの姿と精神が、ニーチェの言う“神が死んだ”世界での“超人”に喩えられていることは自明だろう。
じつは、映画館で観て以来、わたしはこの曲の内容についてはここまで調べてはいなかった。つまり、ニーチェとの関連はたった今知ったことで、無性に映画を見返したい衝動に駆られている。
ハロウィーンにちなんで思い出した、5年前に観た映画の音楽。18世紀の禁じられた関係のふたりの女性たちは、19世紀ドイツの哲学者の思想を通して、21世紀の現代人にもあてはまるようだ。
長い長い夏が終わったこの秋。来週、わたしは米国への出張を予定している。奇しくもハロウィーン当日は米国にいることになる。
独立した強い意志で自立して生きる“超人”たれ。ハロウィーンの骸骨がそう語りかけてくるかもしれない。
※見出し画像は、国立西洋美術館「憧憬の地ブルターニュ」展図録より、シャルル・コッテ《聖ヨハネの祭火》。映画のシーンと印象が被る。
