ジココーテーカンで悲劇を喜劇に。付記:短編ドラマ『どうせ死ぬなら、パリで死のう。』雑感
一体いつからなのだろう、このジココーテーカンという言葉を耳にするようになったのは。少なくともわたしが子供の頃には聞くことはなかったように思う。
漢字で書くと“自己肯定感”。よく「ありのままの自分を肯定する感覚」などと説明されるのを聞く。しかし、わたしはその感覚がいまひとつ理解できていない。
自分について、自分のあり方について、肯定も否定もないのではないか。そもそもここでいう肯定とはどのような意味なのだろう。真か偽か、ということであれば、存在している以上は否定の余地などない。単に好き嫌いを肯定否定と言い換えているのだとしたら、それは自己愛の度合いの話になる。好きな部分も嫌いな部分もあわせて認めるかどうかということなら、好きな部分は良いとして、嫌いな部分は諦めて受け入れるかどうかを問われていることになる。誰にだって嫌な部分、ダメな部分はあるはずだ。果たして諦めの境地になれるものだろうか。否、わたしはまだそこまで達観できてなんかいない。
あなたはありのままの自分を肯定できますか。
こう問われたら、わたしはNOと答える。ありのままの自分なんて、他人から見ればマシな部分こそあれ、自分では見たくもない醜悪な姿だ。半世紀も生きてきたというのに、わからないことだらけだし、うまくいっていないことばかり。五十で天命を知った孔子のようにはいかない。成功よりも失敗のほうがずっと多い。卑屈になっているのではない。冷静に見て、満足からは程遠い現実ばかりなのだ。そんな自分を肯定してしまったら、もう成長はない。そこで終わりである。だからこそ、わずかでも残された将来に改善できる夢を残していたいではないか。たとえ悪あがきだろうと。あぁ我ながら往生際が悪い。
この問いにYESと答えられる人は、ほんとうに自分に満足できているのか、その先の人生を諦めてしまったのかどちらかではないのか。とすると、これは諦めの境地に達したかどうかを測る問いでもある。ちょっと答えを出すのに困ってしまう。
どうもジココーテーカンなるものには、人を思考停止させてしまうような危うさが潜んでいるように思えてならない。
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国別の自己肯定感のアンケートによれば日本はほぼ最下位だとかいう話もよく聞く。しかしながら、それが諦めの度合いを測るアンケートだとしたら、自己肯定感の低い日本は案外捨てたものではないんじゃないか。なぜなら、これだけ墜ちぶれてもまだ希望は残っているということだから。
とは言え、この手の自己肯定感ランキングをどう捉えればよいのか、ほんとうのところよくわからない。わたしがジココーテーカンの何たるかを理解できていないこともあるけれど、そもそもそのアンケート回答者は認識を共有したうえで回答しているのだろうか。その結果がどう評価できるのかもよくわからない。
ありのままの自分を認めるかどうかを問われれば、例えばキリスト教やイスラームなどの一神教の信者であれば、YESと回答しがちなのではないかと思う。彼らは神のご加護のもと存在しているのだから。対して大半の日本人は?我々は絶対的な神のもとに居るのではなく、まわりとの関係性のなかに生きている。あるいは仏門にいる僧侶のように自身と向き合っている。この質問への回答を比較する以前に、こうした文化的・思想的な前提を考慮すべきではないか。もっとも、それを考慮したところでアンケート結果の補正ができるのかどうかわからないけれど。
自己肯定感ランキングが低いのはいけないことみたいな論調で、やれ自己肯定感が低いとこんな困ったことがあるとか、やれ自己肯定感を高めようとかいった言説をよく見かける。それらはだいたいソーシャルメディアのアクセス増とか広告収入につながっていそうなので、なんだこれもビジネスのひとつなのかなどと斜に構えてしまう。
つい不信感までつらつらと書いてしまった。わからないなりに醜悪な自分を許容することを自己肯定とするなら、往生際の悪いわたしは自己肯定できていない。いや、醜悪であると認めている時点で許容しているとは言えるのか?納得はしていないので、やはり肯定とは言いたくはないのだけど。やっぱりわからないな。
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最近のわたしにとってドラマ視聴の日になっている日曜日。その日曜日の夜、たまたま視た45分間のテレビドラマがある。『どうせ死ぬなら、パリで死のう。』がそれ。“死”という文字が2つも入っている。なんというタイトルだろう。気にならないわけがない秀逸なタイトルである。
大学の非常勤講師として働く昼間吉人(31)(岡山天音)は、妊娠中の姉から甥っ子・幸太(10)(森優理斗)を押し付けられ、預かることに。しかし間もなく、幸太が失踪。吉人はどうにか幸太を探し出すと、現実に絶望し、意味ありげに「ここじゃないどっかに行きたい」という幸太に共感。二人の関係は深まり、共に吉人の専門である悲観主義(ぺシミズム)を突き詰めていく。“人生を悲観しつつも、どこか楽しい”不思議な共同生活を送る二人。やがて、それぞれにとって最悪の悲劇が起こる。
これがこのドラマのあらすじ。NHKのウェブサイトには、「エミール・シオランに触発されたオリジナルドラマ」とある。シオランを扱うということで、反出生主義にも触れられている。しかし、哲学・思想として掘り下げているわけではない。悲観主義への共感にフォーカスした内容で、それが逆説的に反・反出生主義なのかと思える部分もあった。
メインキャスト二人の役名は吉人と幸太。なんともハッピーな名前なので、逆に悲観主義を皮肉っているようにも見える。しかし、ドラマでは悲観主義に共感する二人がささやかな希望を見出す(=人生捨てたもんじゃない)という、皮肉だけでは終わらない内容になっている。そこは辛い気持ちを抱える視聴者(想定視聴者?)に寄り添っているのかもしれない。
チャップリンの「人生は近くで見ると悲劇だが遠くから見れば喜劇である」という言葉を思い出した。
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主人公の吉人は非常勤講師とコンビニバイトで食い繋いでいる哲学者。まだフルタイムのアカデミック・ポストには就けていない。
非常勤講師であっても、大学組織に縁のない世間では“大学教授”と間違われるなど、細かいシーンの描写がリアルだ(わたしもそう言われたことがある)。公式サイトのあらすじの言う「最悪の事態」というのは教員公募の不採用通知のことだろうか。わたしも何十回も経験したから、この時の吉人の気持ちは痛いほどわかる。
よく、文系の公募戦士(こういう言い方をしたのだ!)から、理系はまだツブシが効くから良いじゃないかと妬まれたものだが、文理二元論では解像度が粗すぎる。理系でも基礎と応用では雲泥の差があるし、そもそも研究者人口の少ないニッチ分野では、求人自体がとても少ない。わたしの場合、理系とは言え、本邦では新興の学際系。旧教養部の指導教員の影響力にもあまり期待できなかった。状況がどうあれ、自分で選んだ道なのだから仕方ない。そう割り切ってできることを模索するしかなかった。総長や理事といった立場の人たちとのつながりをつくるために、休暇をとって外国まで行ったこともある。
「わがままに生きることを自由に生きるっつうのよ。わがままを通してんだから、キツいのは仕方ねぇや」
最近、大河ドラマで聞いたこの科白に心から同意したのを思い出した。安田顕演じる平賀源内の言葉だ。源内の生き様が凝縮されているかのようだ。

大学教員公募には表向き出来レース(縁故採用)はないけれど、結果的にそう思えるような人事はある。限られた分野では業績や人物像がある程度知られていなければ戦えない。自ずと同分野の研究者のあいだでの牌の取り合いになる。名刺がわりの業績や強力な推薦者がなくては苦戦は必至。適切な応募者がいない場合、募集はしても採用自体が取り消されることだってある(わたしも経験あり)。
吉人は送られてきた不採用通知の封筒にぬか喜びしたあと落胆していたが、似た経験ならわたしも負けてはいない。遠方の大学の教員公募の面接に呼ばれて模擬授業までやり、帰り際に事務員さんに「ここが着任後の先生の居室です」なんて案内をされて、すっかりその気になっていたのだ。なのに結局不採用。あとで聞こえてきた話によれば、選考委員も一枚岩ではなく意見が割れたとのこと。その時は選考結果の通知が遅れて届いて(選考で揉めたから遅れたらしい)、すでに年度末。その公募に採用されることを前提にして他の仕事に断りを入れた後だったので、慌ててまた頭を下げてまわった。
——つい自分の話をしてしまった。
自分のこうした経験もあって、教員公募に応募している吉人にはとても同情できる。しかしアカポス以外でも道はあるだろうに、別の職業選択をしたうえで哲学をやる方法を探せば良いのではと思ったのは正直なところだ。シオランに傾倒した悲観主義者ならカフカみたいな目の付け所の面白い文章が書けそうだし、なんなら姉の交際相手のバンドマンと組んでの作家活動だって悪くなさそうだ。
余談ついでに。吉人を演じた岡山天音は、ちょうど今、大河ドラマで売れっ子作家の恋川春町も演じているのだ。上のようなことを考えた理由には、この偶然からの連想もある。
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いっぽう甥っ子の幸太は、小学生だというのに厭世観を抱いている。父親不在で生活が不安定な彼は、今風の言い方だと“親ガチャのハズレ”になるか。吉人に預けられて生活しているのを見るに不登校なのだろう。妊娠中の母がもうすぐ出産することにも、さらなる生活苦が見込まれる将来に不安を感じている。生まれてくる妹についても、生まれてこなければいいのにと考えていて、これはまさに反出生主義である。
彼は吉人のアパートのベランダに居た亀を連れて、川に入っていこうとする。「ここではないどこかに行きたい」と言う彼は入水自殺をするつもりではなくとも、流されてしまってもよいとは考えていたようだ。
そんな幸太は、悲観主義を専門に研究する吉人の話を聞いて共感する。吉人が大切にしているシオランの思想にも共感する。なるほど、生きづらさを抱えている人びとにとって、悲観主義には生きづらいのは自分だけではないのだと気づかせる役割があったのだ。
吉人の姉すなわち幸太の母が切迫早産かなにかで緊急入院する。病院に急ぐふたり。上に書いたように、幸太は「赤ちゃんは生まれてこない方がいいんじゃないか」と呟く。父親はいないしお金はないし……と、自分のような不幸な境遇に置かれる子供が増えて欲しくはないのだ。そんな幸太の手を取って「そうじゃない」という吉人の葛藤。反出生主義者にこう言わせるのは、反出生主義の自己矛盾を示すことにほかならない。わたしが皮肉かと感じたのはこの部分なのだけど、ドラマ制作側にはたぶん反出生主義への反論の意図はない。思想の前にある人としての大切な心を描いているだけなのだと思う。
かくして、幸太の妹にあたる赤ちゃんは無事に生まれてきた。辛い人生が待っている絶望に満ちた世界にやってきたはずの妹。幸太も吉人も、新しい命の誕生に希望を見ている。すこしは絶望から抜け出しそうではある。
反出生主義には、自己決定できないものの意義を議論するというパラドックス構造がある。この一連のシーンは、そんな側面も際立っていたように思う。
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テレビドラマのつくりとしては、この展開が無難なのはわかる。視聴者の共感を得ることは大切だ。絶望を生きる糧にしたシオランがテーマなのだから、この展開が最適解。しかし反出生主義への踏み込みが浅いまま終わっているところは物足りないと感じた。
語弊を恐れずに言えば、シオランもショーペンハウアーも、つまるところ「辛い人生、生まれてこなかった方がマシだ」と投げやりに言っているにすぎない。このドラマ中の反出生主義を見れば、そんな漠然とした厭世観どまりの感じがした。それでは悲観主義は甘えだと嘲笑する無理解者だって居そうだ。しかし反出生主義には哲学の問題提起としてもっと深められる余地がある。ドラマのテーマに選ぶからには、そこに踏み込んで欲しかった思いがする。
例えば、功利主義の視点からロジックを立てたデイヴィッド・ベネターあたりをストーリーのどこかに出しても良かったと思う。それこそ、吉人の講義なんかで反出生主義の現在として、消極的功利主義を学生たちにディベートさせることも可能だったろう。
あるいは視聴者にそれを考えさせたって良い。つまり、ここで赤ちゃんが死産になるとか、重度の障害を持って生まれるとかの展開だ。わたしが脚本を書くなら、双子の出産という設定にしてうちひとりを死産にするなどにしたかもしれない。もちろんそうなるとドラマがいっぺんに重く暗くなって後味は最悪。シオランからも離れてしまってドラマとしての着地点は見つけにくくなりそうだけど。
妄想はさておき、このドラマに話を戻す。後半、多摩のハワイというプール施設が出てくる。実在するのかどうかは知らない。内陸の多摩と太平洋のハワイのミスマッチ感もいろんなもののメタファーになっていそうだ。
プールにぷかぷか浮かぶ吉人と幸太の二人。流れに身を任せつつ、流水プールを排水溝に見立てるなど、筋金入りの悲観主義者らしい発想が出てくる。二人は新しい命の誕生を経て、再びこのプールにぷかぷか浮かんで話をする。これがラストシーンにつながる。
悲観主義者シオランは84年の生涯を全うした。悲観しながら実は人生を楽しんだんじゃないのかと冗談半分に訝る吉人と幸太。ここでわたしは、ロングショットでは人生は喜劇だとのチャップリンの言葉を思い出した。二人にとってシオランがどういう境地で生涯を全うしたのかが関心事になっている。彼が生きにくい人たちのロールモデルになっていることに気づいたのだ。
そして、お金を貯めて、パリにある彼の墓参りをしようという微笑ましい将来の夢を語って終わっている。それまでは死なないことを約束に。21世紀の今も、シオランは希望を与える悲観主義者という喜劇を演じ続けている。
◇◆◇
シオランは現在のルーマニア出身とされているが、実はオーストリア・ハンガリー帝国のトランシルヴァニアの出身である。彼の家系はルーマニア人、両親不在でザクセン人家庭で育ち、ドイツ語を習得。出身地の帰属国が第一次大戦後にルーマニアに変わり、そのルーマニアの首都ブカレストでフランス語を身につけ、その後ベルリンを経て最終的にパリに渡った。
わたしはシオランの著作をきちんと読んではいないので(シオラン評ならあちこちで読んだ)、これは憶測なのだけど、彼の悲観主義の根底にはむしろ故郷トランシルヴァニアがルーマニア領になり、故郷を離れたことが影響しているような気がしている。
じつは昨年の夏、わたしは北京でトランシルヴァニア旗章学協会の代表に会って、当地の複雑なアイデンティティの話を聞いた。トランシルヴァニア人はルーマニアよりもハンガリーに帰属意識が強いらしい。しかし、よく言われるドラキュラ伝説はトランシルヴァニアではなくハンガリーなのだと主張していた。微妙な印象の逸話が違うというのも興味深い。

シオランはルーマニア人家系ではあったが、ドイツ語を先に習得し、大学時代に過ごしたブカレストではフランス語ができずに肩身の狭い思いをしたという。中欧・東欧の人びとは多言語話者が多いけれど、彼ら彼女らはそれぞれの言語で思考する良さを知っている。言語が変われば心の持ちようも変わる。切り替えが上手いのかもしれない。悲観主義者シオランは、会えば快活な人柄だったという話がある。
もうひとつ、このドラマの内容に関連して思い出したことがある。わたしの大好きな小説、川上未映子著『夏物語』だ。
小説の後半、主人公の夏子は非配偶者間人工授精(AID)で出産する選択をする。AIDにまつわるさまざまな人物が登場するのだけど、なかでも善百合子という登場人物は自身の経験から反出生主義を主張する。そのロジックはきわめてベネター的で、苦痛しかない人生になる可能性がある以上は生まれてくるべきではないのだと一貫している。最終的に、夏子は「忘れるより間違うことを選ぶ」として生むことを決意する。これが物語の救いになっている。
新しい命が生まれて、悲観主義者の二人が目標を持って生きようとしているこのドラマも同じ展開だと言える。
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冒頭でわからないと書いた自己肯定感。
ドラマ『どうせ死ぬなら、パリで死のう。』の登場人物たちはどうなのだろう。現状と将来に絶望しながらも、吉人は教員公募に応募し続けている。非常勤講師を担当する講義に幸太が潜り込んでいるのを知って、急遽シオランに講義内容を変えていた。そこには講義を通して伝えたいものを伝える教員としての矜持と情熱がある。生活のための仕事ではあっても、プロ意識は捨てていない。満足はしていないが、きっと諦めてもいない。不遇な環境のせいにするだけではなく、自分の不器用さもじゅうぶんに認識している。わたしと同じで、自分を肯定しますかと訊かれれば、彼はNOと言いそうな気がする。
いっぽうの幸太は。妹が生まれたので、当初の絶望のたねがひとつ増えたことになる。しかし、実際の新生児を見たあとの感情はおそらく絶望だけではない。母親の交際相手からもかわいがってもらえている感はある。それに、吉人の影響でシオランに関心を持っている。やりたいことがあるのが自己肯定感に直結するわけではないだろうけれど、探究心を持つことは生きるエネルギーになる。
彼は自身のダメさを認識するにはまだ若すぎる。文学や哲学はひとりでも深められるメリットがあるから、周辺の“絶望”的な状況からは切り離して、これからの彼の人生での良い逃避先になりそうだ。いや、彼の絶望は厳しい現実と将来の暗い見通しにあった。そこを諦めて、突き詰めたい文学・哲学に全振りできるのであれば、彼は自分に満足できるかもしれない。
ここまで書いて気がついた。わたしが自分に満足できず、諦めきれずにもいるのは、無いものねだりが過ぎるからではないか。あれにもこれにも興味を持ってしまうのは不幸なのかもしれない。なにごとも突き詰めれば突き詰めるほど謎が増えてキリがないのは物の道理。
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唐突に話を変える。
先日コーヒードリッパーを割ってしまった。割ったとは言っても、底の部分が欠けただけで済んだ。それでも、普通に使えるので使っている。割れたところに触れなければ怪我はしなさそうだし、むしろ割れた隙間からカップの中の様子を見ることができる。

まさに怪我の功名。かえって便利になった。そのことを喜んでいたら、家族に「自己肯定感が高いな」と言われた。
はっとした。まさかこの場面でジココーテーカンの語を聞くとは。咄嗟には意味がわからなかった。自分の不慮で壊してしまったことを棚に上げて、それを満足気に都合よく解釈する。そんな太々しさがそう見えたのか。
「そうそう、“事故”を肯定してんねん」
こんな返事になるのは、関西人の悲しい性である。冗談はさておき、失敗を深刻にとらえ過ぎない余裕にこそ、ジココーテーカンの正体が隠れているような気がした。ドリッパーが割れたのは仕方ない(=諦め)。しかしそこには良い点(カップの中が見える)もあった。わたしの理解では、諦めはジココーテーカンにつながっている。
このところ世界情勢は混迷。仕事も家庭も趣味もいろいろと余裕のない毎日なのだけれど、そんな自分まわりのあれこれを諦めきらないのはそのままに、諦められるところは諦めれば良いのかもしれない。シオランの絶望も諦めだ。その上で84歳まで生き延びた。ドラマの中の吉人と幸太は、理想を諦めきれないながらも、貯金してパリに行くというゆるい目標を立てた。これも一種の諦めの結果だ。
諦め過ぎない程度に、諦めることで、悲劇は喜劇に転換できる。コーヒードリッパーの件も悲劇が喜劇になったようなものだからね。チャップリンもシオランと近いことを考えていたような気がしてきた。
